第二章 Normophilia(4) 俺だけのかみさま

***


 ――ずるい。あれは反則だ。


 浩はアタッシュケース片手にオフィスビルを出て、イリヤと共同で使用しているアトリエへ向かうため地下鉄に乗った。

 扉の脇にもたれかかると、長々と息を吐き出す。そうしているうちに、ぼんやりとした思考が徐々にはっきりとしてくるのが分かる。


 あんな風に言ってくれた相良には大変申し訳ないけれど、別にイリヤとの暮らしはそういう気持ちで始めた訳ではないのだ。

 強いて言うなら傷の舐め合い、だろうか。普通の日常の中にその身を溶かし、沈めるための薬剤のような関係。それが己と彼の関係だ。


 暗い線路に等間隔のあかりが線を描いて消えてゆく。まばゆいばかりの光線に浩は思わず目を細めた。刹那、強く白んだ光に視界を奪われる。


 どれくらいそうしていただろう。のろのろと瞼をこじ開けると、窓越しに映る青ざめた自分の顔がこちらを睨んでいた。


 その表情は、かつて行動を共にしたとまったく同じものだった。


 浩は思わず小さく悲鳴をあげそうになるも、なんとかその声を飲み込む。耳に聞こえるは電車が風を切る音。それから、次に停車する駅名を告げるアナウンスのみだ。

 暗闇の中でこちらを睨む少女の残影が徐々に溶けて消えて行く。そうしたとき、浩はようやくほっと肩をなで下ろすのだ。


 浩は思う。


 あの男は自分との関係を一体どう思っているのだろう。

 そうだ。彼との間にある愛情は決して生半可なものではない。そこらに転がる性愛とは一緒にしないでいただきたい。見ろ。これがひとりの男が命を賭して手に入れたものだ。


 そこまで考えたところで、ポケットの中でスマートフォンが微かに震えたことに気が付いた。


 ようやくイリヤがメッセージに気づいたらしかった。浩が画面へ目を向けると、キツネがくるくると回るアニメーションスタンプが押されている。少しの間ののち、「昼食にバケットが食べたい」というなんとも微妙なメッセージが流れてきた。


 色々と言いたいことはあるけれど、それを打ち込む気力が全く湧かない。浩は暫しの逡巡ののち、短く「分かった」とだけ返した。


 そして思う。

 反芻するようで恐縮だが、あの男は、自分との関係を一体どう思っているのだろう。


「俺はお前の母ちゃんか」

 とだけ、ぽつりと呟いた。


***


 最寄り駅でパストラミポークを挟めたバケットをふたつ買い、浩はアトリエへ向かう。


 かつてはイリヤがひとりで作業用に使っていた場所なのだが、パートナーとして組むことになって以降共同で作業することが増えたので、浩もその一部を間借りしているのである。貴金属を鑑定するのに使う道具類もそこに置いているので、今日から向こう三日はアトリエに通い詰めになることだろう。


 品のいい木製の戸を開けると、油絵の具の独特な香りが鼻をつく。

 しんと静まり返る室内に、微かな粘性の音だけが聞こえていた。


 ――かみさまが、そこにはいた。


 巨大なカンバスを前に、イリヤが黙々と筆を走らせている。いつになく真剣な面持ちだ。彼は時折横に置いたタブレットを眺めつつ、繊細に、時には激しく、ひたすらに色を重ねていた。


 集中している間、彼は目の前の芸術とだけ向き合っている。イリヤはまだ浩が入ってきたことに気づいてはいなかった。


 浩のまなざしが、彼が対峙するカンバスへ向けられる。

 睡蓮の浮いた池を描こうとしているのだろう。水面に濃い青を乗せたところで、唐突にイリヤはぴたりと手を止めた。そして再度タブレットに目を向けると、神妙な面持ちで首をかしげている。


 ――そう。その色じゃないよ、イリヤ。早く気づいてあげて。


 浩は胸の内で呟き、音を立てぬよう静かに足を進めた。アイランド状になったテーブルにアタッシュケースを置くと、かたん、と小さな音が反響する。


「あれ、ヒロ。いたの」


 それで彼の存在にようやく気づいたのか、イリヤがぱっと顔を上げた。

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