第二章 Normophilia(2) 死神の死神たる所以

***


 その日浩はエレホン日本支部に用があったので、朝から外出していた。


 イリヤも浩も普段は現場にいるかアトリエにこもるかのどちらかしかなく、日本支部まで足を運ぶことはほとんどない。ごく稀に緊急の案件で呼び出しを受けることはあるものの、それは年に二、三回あるくらいだ。


 そんな浩がわざわざ電車を乗り継いでまで支部へ向かっているのは、来月予定されている海外出張の準備のためである。

 イリヤと行動を共にするようになってからは頻繁に海外へ行くことはなくなったものの、それでもやはり年に数回は現地に赴く必要が出てくるのである。別に海外派遣自体は問題ない。一番の問題は、ぐずるイリヤをどのように説得するか、ということだ。


 はっきり言って、今彼の機嫌を損ねる訳にはいかないのである。


 現在イリヤが抱えている絵画の修復作業の納期は来月末。それはもちろん浩の出張期間と見事に重複しており、彼がうっかり出張に同行しようものなら莫大な作業遅延が発生する。しかし、だからといってあのイリヤ・チャイカが大人しく留守番するものとは到底考えられない。あの男の存在ははっきり言って芸事以外に関しては大きな子供のようなもの。子供を論理で説得するのはかなり無理があった。


 あらゆる可能性を考慮した結果、浩は出張予定日を後ろ倒しにできないかマネージャーに相談することにした。否、相談というよりは半ば強制である。無理なものは無理。あいにくあの『かみさま』を説得する能力は持ち合わせていないのだ。


 さて、エレホン日本支部は都内某所・有名オフィスビルに居を構えている。何十階とあるフロアのうち数フロアを丸ごと借用している、ということを浩は知っていたが、その中でも彼が入れるのは一フロアのみ。その全貌を知る由はなかった。


 入館証をゲートに通すと、浩はビルの三階へ向かう。この階には浩の所属する美術品鑑定士派遣部門があるのだが、浩としては可能な限り近づきたくない場所でもあった。


 その理由は――。


 浩がフロアに姿を現したところで、勤務中の職員が一斉にはっとしたような表情を浮かべた。慌てた様子で受付担当が浩の元へ駆けつけると、「すみません」と前置きしたうえで用件を尋ねる。


 浩はいつも通りの淡々とした口調のまま、


相良さがらさんはご在席ですか。十時から約束があるのですが」

 とだけ尋ねた。


 奥の会議室が予約されているとのことだったので、浩は受付担当に礼を言い、会議室に向けて足を動かした。


 背中に感じるのは数えきれないほどの視線。耳に飛び込んでくるのは、膨大な数の囁き声である。


 ――あの人が『松籟浩』ですか。

 ――もっと恐ろしい人なのかと思っていましたが、そうでもないですね。

 ――いやしかし、この間議員の脱税が報道されただろう。あれ、どうやらあの人が関わっているらしいぞ。

 ――それにしても、どうやって『神様』の懐に入り込んだのかしら。

 ――『神様』がいたくご執心らしいからな。


 うるさいな、と浩は思った。余計なお世話だ、とも思った。

 だから人間は嫌いなのである。これならばまだぐずるイリヤをなだめる方がはるかにましだ。


 内心そう毒づきながら、浩は指定の会議室へ足を運ぶ。


 会議室は無人だった。時計へ目を向けると、約束の時間のちょうど五分前。

 急に手持無沙汰になった浩は、暇つぶしがてらスマートフォンを取り出す。すると、画面にはイリヤからのメッセージが表示されていた。


 ――Держись頑張って!


 昨夜エレホンに行くことを伝えていたからだろう。なぜか励まされていた。


 いや、君がぐずらなければこんなところに来る必要なんかないのだけれど。全ては君のせいだ。

 そう書いてやろうかと思った浩だったが、やっぱりやめた。それはそれで面倒だったからだ。


 ――Спасибоありがとう.Я буду стараться изоベストを всех сил尽くすよ.


 このように打ち込んで、送信。返事がなかったので、おそらく彼は既にアトリエで作業に入っているのだろう。イリヤは基本的に、作業中は携帯の電源を切るのである。


 それからしばらくインターネットでニュースサイトを眺めていた浩は、ふとある文言に目を留めた。


 都内の質屋にて度々合成エメラルドが持ち込まれる、というものである。質屋にそういうものが流れてくることはさほど珍しくない。しかしここで議論されているのが、その宝石がいずれも『一九三〇年代のもの』ということだ。


 妙だな、と浩が考えたところで、会議室の扉が開いた。


「大変お待たせしました。浩くん」


 彼は相良さがらといって、浩のマネージャーを務めている男である。浩がエレホンに入団した当初からの付き合いで、非常に良くしてもらっている。例えが悪いようだが、実の親子のような関係でもあった。


 相良はいつもの穏やかな仏顔を浮かべつつ、浩と向かい合うように席に着く。


「悪かったね、うちのがうるさかったろう」

「ああ、いえ。慣れていますから」


 慣れていますから、という返答もどうかと思ったが、これが一番しっくりくる回答でもあった。それを相良自身もよく分かっているので、それ以上は何も言わず、ただただ申し訳なさそうに肩を竦めている。

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