第一章 Oculophilia (4) 星詠みの少女

***


 玄関のチャイムを鳴らすと、静かに戸が開き、中から一人の女性が姿を現した。

 浩は玄関の脇に掲げられた鏡にちらりと目を向け、彼女の姿を鏡越しに捉える。


 三十代中頃くらいだろうか。若く美しい外見をしており、どこかの女優とも見紛うほどである。しかし、それよりも際立つのは彼女の纏う洗練された雰囲気。この年齢でこれだけ落ち着いた様子でいられるというのも、現代日本ではなかなかに珍しい。


 浩は名刺を出しながら事情を説明すると、彼女は声色を明るくしながら言う。


「主人から伺っております。遠いところからわざわざありがとうございます。外は寒いでしょう? どうぞ中へ」


 そこまで言ったところで、彼女はふとイリヤの姿に目を留めた。そういえば、エレホンの担当者からは「浩を派遣する」旨を伝えたと聞いている。さすがのエレホンも、もうひとりおまけが付いてくるなどとは説明していないだろう。


 浩は咄嗟に、

「紹介します。彼はイリヤ・チャイカ。私の助手です」


 イリヤが大して日本語を理解できないことをいいことに、あることないことを適当に言っておいた。本人が聞いたら間違いなく文句を言われそうな気もするが、それ以外の自然な言い訳がまったく思いつかなかった。


 イリヤも挨拶して、と浩が促すと、彼は人当たりのよさそうな笑みを浮かべながら挨拶する。


「ハジメマシテ。ヨロシクオネガイシマス」


 イリヤが話せる少しの日本語で対応すると、彼女はにこやかに微笑んで見せた。


「初めまして、美作みまさかゆうと申します。日本語がお上手ですのね」

「ああ、彼は挨拶程度しか話せませんので……何かあれば私に声をかけてください。私から伝えます」


 二人は彼女により中へ通され、客間を抜け、奥へ奥へと案内されてゆく。室内にはいくつかの調度品が見られたが、基本的には最低限のもののみが置かれているらしい。飾り気のない、こざっぱりとした印象を受けた。

 浩はふと、途中通った廊下の窓枠に目を留めた。随分と埃が積もっている。少し目線を上げると、煤のようなものがこびりついているのが見えた。


 ふむ、と浩が考えていると、イリヤがそっと耳打ちしてくる。


「エレホンは彼女にどう説明したんだい?」

「ああ。本人は今日外出しているそうだから、まずは人形だけ見せてもらうことにしているんだよ。だから俺たちも人形を確認したらすぐに帰るよ」


 そう、とイリヤは納得したように頷く。


 今回見せてもらう約束をしているのは『星詠みの少女』と銘打った少女の人形である。

 発表された当時、その精巧さにだれもが感嘆の声を洩らし、眼前に現れた絶世の美少女に心奪われたという。浩はその名だけは聞いたことがあったが、当時ロシアで仕事をしていたがためにエレホン内での公開日を逃していた。


 聞くところによると、その人形が表に出たのはその一度きりで、以来由衛は『星詠みの少女』をどこにも出さず自宅にのみ置いているそうだ。しかしその評判だけが独り歩きし、いつしかその少女の人形のことは知る人ぞ知る名品と謳われることになった。


 ――ということを知っていた浩は、本来の目的はさておき少なからず興奮していたし、隣で寄り添うようにして歩くイリヤもまたその人形に興味があるらしかった。


 地下へと続く暗い階段をゆっくりと降りてゆく。暗闇の奥深くに、うっすらと重たい扉がふたつ見えていた。


「こんなところに置くのかい」

「紫外線に当てると黄変するからだろうね」

 浩はぽつりと言った。「うちのアトリエでもそうしているだろう」


 確かに浩が使っている作業部屋はいつもカーテンを閉め切っている。ふむ、とイリヤは頷き、それに同意して見せた。


「『星詠みの少女』はこの中です」


 夫人は右側の鍵を開け、扉を引く。そして彼らへ中に入るよう促した。

 怪訝に思った浩が「あなたは中に入らないのですか」と尋ねると、彼女は静かに首を横に振り、

「私は中に入ることを許されてはいないのです」

 とだけ言った。


 とりあえず、現物を見てみることにする。

 ふたりは中に入り、入り口脇に備え付けられた電気のスイッチを押した。


 室内はゴシック調の飾り付けが施されていた。天井にはきらびやかなシャンデリアが釣り下がり、きらきらと星のように瞬いている。窓は完全なるフェイクだが、別珍に似た赤い布を用いたカーテンが下げられ、その重厚な雰囲気をより強調している。部屋の中心には甘い色をした天蓋がかけられており、その中心にひときわ豪華な椅子が用意されていた。


 浩は下がりかけた前髪を再び上げ、オールバックの状態にした。スーツのポケットから薄手の柔らかい生地でできた手袋をはめると、黒曜とも紛う瞳をじっとその椅子へと向けている。


「イリヤ・チャイカ。君は少し下がっていてくれ」


 浩はそう言うと、天蓋を潜り椅子の前に跪いた。

 高さは六〇センチ程度だろうか。目が覚めるような美少女がその場に座っている。


 ぴたりと、浩が体の動きを止めた。


 とてもよく出来たビスクドールだった。白んだ皮膚はなめらかで、少女らしい瑞々しさをとてもよく表現されている。髪の色は鴉の濡れ羽を連想させる黒髪で、腰のあたりまでの癖ひとつないストレートヘアだ。そして一際目につくのが、その瞳だ。黒に近い茶色の光彩が、じっとこちらを見つめて離さない。

 いまにも話しかけられそうなほど、リアルなものだった。


「はじめまして、レディ」


 浩は微かに頰を緩ませながら、彼女に対して声をかけた。


 そのとき、かちゃん、と背後から妙な音がした。

 浩は横目で様子を伺う。何かあればイリヤが声をかけてくると思ったからだ。

 イリヤは無言のままドアノブを回している。何度続けたろう、しばらくののち、イリヤは浩を見返してこう言った。


「錠を落とされた」

「……、まあ、予想通りだな」

 浩は淡々と言い、「イリヤ。多分あがいても無駄だろうから、ちょっとそこで待っていてくれる。こちらの確認を終わらせてから出よう」

「りょー、かい」


 そちらに行ってもいいかい? とイリヤが問うので、浩は暫しの逡巡ののち、天蓋の端を広げてやった。


「ついでに、俺の鞄からカメラを持ってきてくれる」

「はいはい」


 イリヤが小型のデジカメを持ち出し、天蓋の中にいそいそと入り込んでくる。浩は比較的小柄な方だし、イリヤもそこまでがたいのいい方ではないけれど、さすがに成人男性二人が同じ天蓋の中に入ると少々手狭である。


 浩はぽつりと呟いた。


「ごめんね、触るよ」


 そして、美少女の陶器の肌へそっと触れた。そして覗き込むようにして浩が眼球を見つめる。その様を、イリヤはじっと食い入るようにして眺めていた。


「グリセリン」

 そしてぽつりと呟いた。「酢酸カリウム、といったところだろうか。昨日の彼女とおおむね同じ処理が施されている」


 その品目には覚えがある。イリヤはまさかと思いつつ、思い当たる単語を呟いた。


「……、エンバーミングかい」


 浩は頷き、それからはっきりと言う。


「彼女はだ」

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