第一章 Oculophilia (3) 『死神』松籟浩

***


?」


 助手席に座るイリヤが怪訝な顔をした。

 浩は軽やかにハンドルを切りながら短く肯定する。


「ビスクドールを購入した人からエレホン宛に通報があってね。随分おかしな話だろ」

「腐るって、なにかの比喩ではなく?」


 浩は自分の鞄からスリーブを出すようイリヤへ伝えた。言われるがままイリヤが鞄から半透明のスリーブを取り出すと、L版の写真が何枚か出てくる。


 どれも一体の少女の人形を写したもののようだ。

 一般的なビスクドールは、体のパーツを内部に仕込んだゴムで吊ることでその形状を保っている。おそらく調査のために浩が分解したのだろう。分解した隙間からぽろぽろと虫のようなものが零れ落ち、頭髪部分に至っては毛髪が抜けまだらに禿げていた。その隙間から見える肌はどす黒く、端の方が少し乾燥しているように見える。


 イリヤは思わず口元に手をやったが、しかし、それらの写真から決して目を逸らすことはなかった。まるで脳裏にその姿を焼き付けていくかのように、じっと見つめている。

 ややあって、彼は浩に声をかけた。


「……言葉の通りだね」


 浩は頷く。


「見たところ、死後三年は経過している西洋人の少女が素体だろう。年齢は十歳にも満たないくらいかな。腐食したと報告があったのは主に頭皮の部分だけれど、それ以外にもあらゆるところに人体と思われるパーツが使用されている。例えば、その球体部分は骨だ」


 人間の身体を鑑定するのはさすがに専門範囲外だ、とぼやく。


 それでも彼が言うことに間違いはないのだろう。イリヤはそう思いながら写真をスリーブへ戻した。


 ――なにせ、松籟浩の『目』はだ。


 彼は一瞬見ただけで材質も製作過程も保存状況も、果てには彼が遭遇した技師によるものならば誰がいつ作成したのかまで、視覚から得られるありとあらゆる情報を見透かす観察眼の持ち主。腕のいい鑑定士は多かれど、ここまで暴力的な能力を持つ者は彼一人だ。


 それ故に、浩は通常の美術品鑑定は行わない。

 彼の本職は、法に反する工程を踏んで作成された美術品を摘発すること。言うなれば、エレホンによるひとりきりの私設警団だ。


 イリヤが「彼をパートナーにする」と公表した際「とんでもないことだ」と評した真の理由は『これ』である。


 彼の目により人生を潰されたアーティストは相当数にのぼる。それだけではない。時には美術品を保持していた人物の地位や名声にも波及し、――決して大声では言えないが――逆恨みされることもしばしばである。

 最終的についた呼び名は『死神』。イリヤの『神様』とものの見事に対となる称号である。


 明らかに不審な美術品が持ち込まれた場合、浩は真っ先に呼ばれる立場にある。今回も決して例外ではなかった。昨日エレホン日本支部へ向かい問題の人形と対峙した浩は、思わず言葉を失ってしまった。イリヤに見せた写真はその際に撮影したものである。


「イリヤはどう思う?」

「そうだなぁ」


 イリヤは浩の問いかけに対し、実にのんびりとした声色で答えた。


「主観だけで言うと、実にセクシーだと思う。まるでポルノを見ている気持ちになった。はっきり言って最高」


 あまりにさっぱりした口調で言うものだから、浩は思わず苦笑してしまった。


「それはまあ、俺も同意する。ちょっと興奮するよね、


 だよね、とイリヤは軽い口調で言ったのち、それからこのように言った。


「ここからは『神様』としての発言。この業界では決して珍しいことではない。そう思うよ」


 そう、と浩は言い、左のウィンカーを点滅させる。


「もしも複製を頼まれたら、君は作れるかい」

「もちろん」

 イリヤは即答した。「俺を誰だと思っているの。伊達に『神様』を名乗ってないよ」


 それもそうか、と浩は納得したように頷き、ハンドルを切る。


 そうしたところでイリヤが眠たそうに欠伸をした。そういえば、昨日彼は遅くまで次の依頼の設計書を書いていたのだった。彼からしてみれば車の絶妙な振動が心地よくなってきた頃合いなのだろう。

 浩はイリヤに「寝ていいよ」と声をかけると、イリヤは数分後には意識を手放してしまった。


 途端に訪れる静寂。浩は運転中カーステを付けない主義なので、イリヤが口を閉ざすと車内は本当に静かになる。


 ――ちょうど六年くらい前までは、これが普通だったのだ。


 エレホンがとにかく恐れたのは、浩の能力が失われること。そして、彼がいることで団体が抱える技師に何らかの危害が及ぶこと。それ故に、エレホンは意図的に浩を他の技師となるべく接点を持たせないようにしていたのである。

 そんな中で起こった『神様』ことイリヤ・チャイカの例の発言である。エレホンが慌てないはずがない。


 最終的にどうなったのかと言えば、


「全面的にイリヤの言う通りにしてしまった、というのはエレホンの落ち度だと俺は思うね……」


 浩は車のハンドルを切りながら考える。

 そうなった経緯はいろいろあるけれど、なんだかんだでエレホンは今助手席で眠りこけている『神様』にはとんと甘いのだ。とはいえ、状況が変わったおかげで浩もエレホン主催の会議や祝賀会にも参加できるようになり、知り合いの技師もわずかながらに増えてきた。それは感謝すべきことなのかもしれない。


 ――ひとりきりの世界から連れ出してくれた、おれの『かみさま』。


 信号待ちをしているときに横目で寝顔を盗み見たら、象牙のように白んだ肌がまるで人形のように見えて、浩は思わずぞくりと肩を震わせた。


***


 車を走らせること一時間。深い森の中にその洋館は存在した。

 浩は事前にエレホンから聞いていた場所へ車を停めると、未だ爆睡中のイリヤの肩を揺する。


「イリヤ、着いたよ」


 イリヤは眉間に皺を寄せながら、不機嫌そうな唸り声を上げた。数秒後には再び夢の中へ。こうなると彼はなかなか起きてくれない。

 浩は少し悩んでから、己の前髪を上げた。本来は仕事中のみ上げることにしているのだが、この際諦めることにした。どうせこのあとすぐに仕事に取り掛かるのだ。別に今上げたとしても最終的な結果は変わらない。


 そしてイリヤの耳元にそっと顔を近づけると、掠れた声で囁いた。


Пора вставать.起きて

「……、Еще чуть-чуть.もうちょっと

Ильюшаイリユーシャ


 その声を聞くや否やイリヤはがばりと飛び起きた。眼前に飛び込むのは浩の呆れ顔、それから窓越しに見える古い洋館。それらを交互に見返し、ようやくイリヤは今の状況を把握したようだ。


「ごめん、完全に寝てた」

「ああ、そりゃあもうぐっすり」


 浩は冷たく切り返すと先に車を降り、後部座席に積んでいた荷物を降ろし始めた。


 今回のエレホンからの依頼内容は、こうだ。

 美作由衛の人形が腐食したとするならば、当然『同じ現象』に見舞われてもおかしくない作品がひとつ存在する。その作品に関する情報を集めてくること。


 エレホンの担当者は作品名を浩へ伝えると、それからこのように言ったのをとてもよく覚えている。


 ――今回、君は証拠を押さえてくれればいい。絶対に危険を冒すような真似だけはするな。


 なにを今更、と浩は思う。

 ものすごく嫌な予感はするけれど、この手の話はまったくない訳ではない。むしろ慣れすぎて困る、というのが浩の本音である。


Супер!最高


 そんな浩の気持ちを知ってか知らずか、美しい洋館を目の当たりにしたイリヤが子供みたいに声を上げている。

 彼を連れてきてよかったのかもしれない。胸の中に溜まる暗澹たる気持ちが少しだけ紛れた気がして、浩はほっと肩をなで下ろした。


 そう思った刹那、イリヤがなにか不思議そうな顔をしたのに気が付いた。


「なに?」

「ああ、いや。ヒロがそういう顔するの、珍しいと思って」


 俺はそんな変な顔していたかな、と尋ねると、はぐらかすようにしてイリヤは車を降りた。

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