第一章 Oculophilia (2) 『神様』イリヤ・チャイカ

 浩の隣で意味深な発言をしつつのんびり朝食を摂るこの男、その名をイリヤ・レナートヴィチ・チャイカという。本人曰く「以外はどこにでもいる普通のロシア人」とのことだが、その正体は世界的に非常に名の知れた『贋作師』である。


 絵画、彫刻を初めとするありとあらゆる美術品の模倣品レプリカを作ることを生業とする彼は、世界中を飛び回り博物館展示用のレプリカや貴重な資料の復元などを手掛けていた。対象物の鑑定はあまり得意ではないものの、見たものをほぼ忠実に再現するその腕前にいつしか『神様』という呼び名がついたほどである。


 そんな彼がある日突然ひとりの鑑定士と行動を共にするようになり、公式に「彼は自分のパートナーである」旨を明言したことから業界が震撼する。


 何故なら、その対象となった鑑定士というのが『松籟浩』その人だったからだ。


 彼らは同じ美術品保全団体『エレホン』に所属しているが、その中での浩の立ち位置はかなり特殊であり、長らく団体に所属する技術者共有のリソースとして用いられてきた。

 そんな状況がいきなりイリヤの手によって変えられようとしている。一言で表すならば、それは「とんでもない」ことなのだった。


 ――『あの日』のことを思い返すと、今でも胃が痛くなる。


 浩が思わず眉間に皺を寄せてしまうくらいには、彼らにとっても大事件だったのは確かだ。その名残だろうか、浩は数年経った今でも赤ワインはあまりとも思っている。

 それでも『あの日』があったから今がある。それだけは否定できなかった。


 浩はちらりとトーストを口に運ぶイリヤへ目を向けた。

 なぜ彼と一緒にいるかと問われれば、互いの利害が一致しているからとしか言いようがない。この関係はそれ以上でもそれ以下でもない。それが浩の見解である。

 そんなことを言ってしまえばイリヤは困惑した顔をするだろうが、直後に「まあ、その通りだけれど」と肩を竦めるに決まっている。


 そんなことを考えていると、視線に気づいてか、イリヤはきょとんとして首を傾げて見せた。


「ん、なんだい?」

 浩は何も言わず、ただ首を横に振る。


 先日、今年一番の大仕事であった『胡蝶の夢』の複製が完了した。製作期間は半年にも及び、その間イリヤも浩も共同で使用するアトリエに通い詰めとなっていた。

『胡蝶の夢』の複製依頼が舞い込んできた理由はいくつかあるが、一番の理由は紛失である。

 あの『胡蝶の夢』がまさかの紛失。しかも紛失した原因をなんとなく察してしまったイリヤは、エレホンから泣きつかれている現状を無下にできなかった。幸い浩も二つ返事で了承してくれたので、互いの記憶を頼りに二人は精密なコピーを生み出すこととなったのである。


 そんな訳で昨夜は二人で祝杯をあげ、遅くまでだらだらして過ごした。今日もその流れでオフの予定である。


 浩はイリヤへ声をかけると、今日の予定を確認した。


「今日は何もしないつもりだ。俺のことは気にせず、君も今日は好きに過ごしなよ。アキハバラにでも行けば? しばらく行ってないだろ」

「ああ、それも悪くないけれど、俺は次の仕事の――」

「ヒロ」


 次の仕事の準備、と言いかけたところで、その言葉はいきなりイリヤによって遮られた。ぎくりとして浩は頰をひきつらせる。

 イリヤの顔が、まったく、笑っていなかったからだ。


「君の予定がたった今確定した。俺と出かけよう。映画を観て、食事して、君の趣味に付き合う。その間仕事の話は一切してはいけない。いいね」


 こうなると彼のことは誰も止められない。

 浩は諦めて肩を竦めると、「そうするよ」とだけ返した。


 最近あまりしね、と浩は言い、皿を持って立ち上がった。既にテレビの画面には別の番組が映っている。イリヤも番組が終わるとテレビにはさほど興味を示さず、浩にならって後片付けを始めたのだった。


***


 浩が自分の用事を済ませ戻ってくると、イリヤは家電量販店のタブレット売り場で落書きをして遊んでいた。


「ああ、ヒロ。もういいの?」

 浩の姿に気づくと、イリヤは浩にタブレットの画面を見せる。「見て。落書きにしては上出来でしょう?」


 恐ろしく精度の高い風景画がそこにあった。「ちょうど自分がいる場所から見える景色を淡々と描いていただけ」と本人は言いそうだが、こんなものが家電量販店のペンタブコーナーにあっていいはずがない。

 所謂神絵師。野生の、神絵師。浩は思わず眩暈がした。


「神がお戯れになられている……」


 動揺のあまり日本語で呟いたものだから、イリヤは聞き取れずにきょとんとしている。


「うん? 日本語だと分からないよ、なんだって?」

「とりあえず写真に残しておこう。消すのがもったいないけど、お店のものだからね」

「うん」


 イリヤの周りに人だかりができていたのはこれが原因だったのか。この場所にいると連絡をもらった時から嫌な予感はしていたが、いざその現場を目の当たりにするとなかなか辛いものがある。


 ――自分がどういう人物なのか、彼はあまり理解していないのだ。


 そう思いながら、浩は自分のスマートフォンで写真を撮る。その後絵はイリヤ自ら削除した。そうしているうちにいつの間にか人だかりは消え失せていたので、安心した様子で浩はイリヤの袖を引く。


「行くよ。そろそろここを出ないと映画に間に合わない」

「そうだね」


 イリヤはにこやかに言い、袖を引く浩の手を取った。


「意外と早かったじゃないか。荷物もそれほど増えていないし」

「あ、うん。全部宅配に出したから」


 あまりに浩が軽い口調で言うものだから、イリヤはつい聞き流しそうになるところだった。今、彼は「宅配」と言っただろうか。


「うん?」

「だから、宅配」


 それってつまり……とイリヤは言いかけ、やっぱりやめた。パートナーの金の使い方は正直驚くことばかりだが、それについては敢えて触れないことにしておいた。

 互いの趣味の話に関しては絶賛するとき以外口にしない。そうすることで大体のことはうまくいく。そのことを身を以て知るイリヤは、


「君のライフワークだものね……、うん、俺は何も言わない」

 とだけ言っておくことにした。


「俺がこういう奴だと知っているくせに」

 浩は乾いた笑みを浮かべる。「それに、君の趣味のほうがもっとやばいだろ」


 それについては何も言えず、イリヤはただただ口を閉ざすことしかできなかった。


 気を取り直し、二人は映画館へ向かう道のりを歩き始める。土日に比べると大したことはないが、観光地ということだけあって人通りはとても多い。天気は非常によく、乾燥した空気が頬を冷やしていく。


 そのとき、浩が「そういえば」と声を上げた。


「イリヤは美作みまさか由衛ゆえって知ってる?」

「ミマサカ? ビスクトール職人の?」


 怪訝な顔をしながらもイリヤは答える。

 美作由衛といえば、ここ数年急激に有名となった人形師である。彼の専門は陶器製の球体関節人形。まるで本当に生きているのではないかと思うほどに恐ろしく精巧な造りをしており、国内外問わずファンは多い。


「俺はそれくらいしか知らないけれど……、それは君のほうが詳しいんじゃないの」


 それはそうだけど、と浩は返す。


「次の仕事の話なんだけど、もしかしたら泊まりになるかもしれないと思って。だけれど、君はどうする?」

「やるよ。君がやるなら」


 まだ内容の説明を一切していないにも関わらず即答するとは。ある意味予想通りの回答に、浩は思わず言葉を失った。

 対してイリヤはさも当たり前といった風に淡々と言葉を紡いでいる。


「君個人宛の依頼ということは、いわくつきなんでしょう? 危ないからついていくよ」

「……まあ、うん。それは否定しないかな」


 危なくないといいけれど。そう言うと、浩は小さく息をついたのだった。

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