愛の逸脱

依田一馬

前編 Agalmatophilia

第一章 Oculophilia(2017/4/22)

第一章 Oculophilia (1) 何でもない、朝

『胡蝶の夢 リチャード・ダグラス展開催』


 たまたまテレビをつけたところでそんなコマーシャルが流れたものだから、彼・松籟しょうらいひろは思わずピタリと手を止めてしまった。


 画面に映るは大粒のダイヤモンド。普通に生きていれば到底お目にかかれるはずのない代物である。それがベルベッドの台座に乗せられ、淡いライトの光に照らされながらきらきらと瞬いていた。


『胡蝶の夢』と銘打つその宝石は、有名彫金師リチャード・ダグラスが手掛けた名品と聞く。普段は英国の美術館にて保管されているのだが、それがこのたび日本初公開となることが決定した。駅のホームに、テレビCM。あらゆる場所に大々的な告知が行われているのを浩は知っている。


 彼はしばらく画面をじっくり舐め回すように眺めていたが、しばらくして満足げに呟いた。


「うん、いいね」


 朝食用に焼いたトーストを皿に乗せ、コーヒー・サーバからふたつのカップへコーヒーを注ぎ入れる。それらを食卓に引いたランチョン・マットの上に並べると、浩は奥の寝室の戸をそっと開けた。


 ――キングサイズのベッドのど真ん中に、ひとりの男が眠っている。

 すっと通った鼻筋に、細身の体つき。砂色の髪は少し長めで、今は布団に埋もれて乱れていた。


「イリヤ。……イリユーシャ。そろそろ起きて」


 浩が彼の肩を揺すると、イリヤと呼ばれた男は微かにうめき声をあげつつ、のろのろと瞼をこじ開けた。


「ん……。Доброе утроおはよう……、今何時?」

Доброе утроおはよう。もうすぐ九時だ」


 そうか、とイリヤは瞼を閉じ、再び夢の世界へ――行こうとしたが、何かに気づいたらしくはっと両目を見開いた。それからがばりと身体を起こすと、早々に部屋を出て行こうとする浩の背中に声をかけた。


「なんでもっと早く起こしてくれなかったの! 番組は九時からだって言ったじゃないか!」

「何度も起こしたよ。今ので一〇回目だ」

 浩はそこまで言ってから、「それと」と付け加えた。「どうでもいいけど服は着て寝てくれる? そりゃあモスクワに比べたらこっちは暖かいけれど、風邪をひかれても困る」

「別にいいでしょ、俺の部屋なんだから……」


 ぶつぶつ文句を言いながらも、彼はベッド下に脱ぎ捨てられたパジャマを手繰り寄せ袖を通す。寝癖のついた前髪を掻き上げつつ、滑るようにベッドから降りた。


「下も履くんだよ」

「分かってるってば」


 互いに文句を言い合いながら部屋を出て、二人は食卓に座る。一連のやり取りがあったせいで、食卓のトーストは少し冷めていた。


 テレビには先ほどのコマーシャルの延長だろうか、『胡蝶の夢』の特集番組が組まれている。イリヤはこの番組を見たかったらしく、自然と目がそちらへ向いていた。

 普段食事の際はテレビの電源を落とすことにしているが、今日だけはそれを許すことにした。浩は短く「そっちで食べようか」とだけ言うと、皿とカップをテレビ前の小さなテーブルへと運んだ。


 例の宝石『胡蝶の夢』は、モニタを通して見てもため息が漏れるほどの美しさである。まるで純度の高い氷を丁寧に磨き上げたかのようだった。その指に少しでも触れてしまえば溶けて消えてしまいそうなほどに儚く、だからこそ魅力的に感じるのではないか。そんなことを番組のアナウンサーが言っている。


 二人はソファに並んで座ると、黙々とトーストを口に運ぶ作業を行った。二人のまなざしはテレビ画面にくぎ付けである。いくら興味があるとはいえ、はっきり言って気持ち悪いほどの熱視線だ。


 トーストに餡を乗せ始めた浩に対し、イリヤは一言。


「あれに点数をつけるとしたら何点だい」

「七〇点」


 イリヤの問いかけに、浩は実にさっぱりとした答えを出した。それを耳にしたイリヤは何故かショックを受けた様子であんぐりと口を開け放つ。


「ええ? 俺、あんなに頑張ったのに」

「イリヤ、カットの手順間違えたでしょ」

 そんなイリヤに対し、さらに浩が追い打ちをかけた。「一般人の目は騙せても、同業者からは一発だと思うよ。『かみさま』は最近腕が落ちたんじゃないの」


「本物の『胡蝶の夢』を見たことがあるのは俺と君、二人だけだろ。誰も分からないって」

 嘆息を洩らしつつ、イリヤはコーヒーを口に含む。「まあ、間違えたのは事実だけれど」


 やはり君の目はごまかせないね、と呟きながら、彼は再び画面へと目を向けた。

 女性アナウンサーが『胡蝶の夢』を前にして目を輝かせているのをぼんやりと眺めると、やがて飽きたのだろう。イリヤは静かにカップを置いた。


「それにしても」


 そして彼はいかにも甘そうなトーストにかじりつく浩へ目を向ける。


「これだけ話題になっている『胡蝶の夢』が、まさかだなんてね」


 そうだね、と浩もさらりと返した。


「しかもを作った張本人がまさか横浜でのんびりトーストをかじっているとも思わないだろうね」

「ああ、本物はどこに行っちゃったんだろう。ちゃんと見つかるといいね……」

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