第2話

「暖かくなりましたね。冷たくて美味しいものを用意しました」


そう言ってマスターは、冷蔵庫の扉を開けた。


学生達の前にフルーツパフェが並べられる。


「わあっ! おいしそう!」


「すごーい! 色もキレイ! でも、マスター、これって」


聡美がマスターを見上げた。


「ささやかなプレゼントです」


「本当ですか? うれしい!」


聡美の声のトーンが上がった。



叶恵の前にも同じものが置かれた。


「あらっ!」


「大丈夫。これはサービスです。小さなサプライズで、ご婦人は喜んでくれる。私は、それが楽しいのです」


叶恵は思わず微笑んだ。


マスターも微笑を返して、学生達の前に移動した。



「うわわっ! これヤバーい!」

「おいしーい!」


彼女達が口々に声を上げた時、不意に聡美のスマートフォンが鳴った。


「えっ、文集の件? えーっ、5万円も違うって、本当なの! まずいわね。影山さんは何て言うかしら。連絡がとれない? 私に? ううん、バイトは休みにしたけど。分かったわ。じゃあ、これから向かうから」


聡美は女子学生と小声で話している。


「マスター、ちょっと揉め事が出来ちゃいまして、出かけて来ます。1~2時間で戻りますから、この娘に……後輩で結花ちゃんって言うんですけど、小説の話を聞かせてやって下さい」


「分かりました」







「結花さんでしたね?」


フルーツパフェが無くなりかけたところを見計らって、マスターは学生に声をかけた。


「はい、立原結花です」


「お酒を飲める年齢ですか?」


「ええ、二十歳になりました。そんなには飲めませんけど」


マスターは巧みな話術で年齢を確かめた。


「では短編小説集の古典の中から、特に有名な話を紹介しましょうか。もしかすると高校で習ったかも知れません。この小説集のタイトルを当ててみて下さい」


マスターは、カウンターの下から印刷物を取り出して、1枚を結花の前に置き、1枚を手に取って読み始めた。



昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、 大人になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。



「マスター、待って! 短編小説って、日本の昔話のこと?」


叶恵が声をかけた。


「そうです。古典です。短編小説は昔からあるのです」


「そうなの。私にも見せて下さる?」


「いいですとも! さあ、どうぞ」




さて、この隣の男のもとより、かくなむ、


《筒井筒 井筒にかけし まろが丈

 過ぎにけらしな いも見ざるまに》


女、返し、


《くらべこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ

 君ならずして たれか上ぐべき》


など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。




「分かりますか?」


マスターは結花の反応を見た。


「ええ。最後の方は何となく」


「目と耳が慣れてくれば、もう少し分かるでしょう。歌が2首、織り込まれてますね。続けます」



さて、年ごろ経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともに言ふかひなくてあらむやはとて、河内の国高安の郡に、行き通ふ所出でにけり。さりけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、出だしやりければ、男、異心ありてかかるにやあらむと、思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へいぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、


《風吹けば 沖つ白波 たつた山

 夜半にや君が ひとり越ゆらむ》


と詠みけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。



「ここで、また、歌が詠まれてますね。和歌を織り込みながら物語を構築する高度な技法です。続けます」



まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、 手づからいひがひ取りて、笥子のうつはものに盛りけるを見て、心うがりて行かずなりにけり。


さりければ、かの女、大和の方を見やりて、


《君があたり 見つつををらむ 生駒山

 雲な隠しそ 雨は降るとも》


と言ひて見出だすに、からうじて、大和人、「来む」と言へり。喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、


《君来むと 言ひし夜ごとに 過ぎぬれば

 頼まぬものの 恋ひつつぞ経る》


と言ひけれど、男住まずなりにけり。




「…………と、物語は、これで完結です」


マスターは印刷物をカウンターに置いた。



「完結なんですか?」


結花が顔を上げて問い返した。



「そうです。短編小説ですからね」


マスターは笑顔で応えている。


叶恵も口を開きかけたが、思い直したように身動ぎ(みじろぎ)を止めて、二人のやりとりを見守った。


「それにしても、ずいぶん短いんですね」


結花は素直に感想を告げている。


「大体の意味は分かりますか?」


「いいえ。よく分かりません」


結花は正直に答えた。


それは叶恵も同じだった。


「ははは……そうでしょう。大丈夫です。これを一読しただけで理解できる方は、まず居ません。積極的に解ろうと努力しない限り永久に解らないのです。大抵の方は、古文など解らなくても良いと理由づけます。それは、それで良いのです」


マスターはグラスを手に取った。


カランッと氷の擦れる音が響く。


「私は解りたいです!」


結花は決然と言い放った。


「そうですか。では、現代語に訳しますから、もう一度、原文を眼で追って下さい」


マスターは印刷物を手に持った。





昔、田舎まわりの行商人の子共達が、井戸の周りで遊んでいた。


この子共達が成長するに従って男も女も互いに恥じらう様子でいたけれど、男はこの女を妻にしようと思った。女もこの男を夫にしたいと思っていた。


女の親が他の男と結婚させようとしたけれども女は聞き入れないでいた。


そんな時、幼なじみの男から、このように歌を詠んできた。



《幼い頃、丸い井戸の囲いと高さを比べあった私の背丈は、もう囲いの高さを越しました。貴女と会わないでいるうちに。一人前の男になった今、貴女を妻に迎えたいのです》



「これはプロポーズの歌です。そして、これに対する女の返歌です」



《幼い時からあなたと長さを比べあってきた私の振り分け髪も肩を過ぎました。この髪を、あなたでなくて、誰のために髪上げをしましょうか》



こうして歌を詠み交わして、かねてからの望みどおり、二人は結婚した。



そうして、何年か経つうちに、女の親が亡くなり、頼みとするものがなくなると、男は一緒に、しがない暮らしをしていられようか、そうはしていられないと言って、 河内の国の高安の郡に新しく通って行く女をつくってしまった。


そうなったけれど、妻は、夫を咎めもせず、送り出した。


夫は、妻にも別の男が出来たのだろうか、だから、このように快く送り出すのだろうかと疑った。


男が河内の女の所へ行く振りをして、庭の植え込みに隠れ、妻の様子を窺ったところ、妻は、たいそう美しく化粧をして、物思いに沈みながら、ぼんやりと外を見やって歌を詠んだ。



《風が吹くと沖の白波が立つ、その「たつ」の名がつく竜田山を真夜中に夫はひとりで越えているのだろうか?》



それを聞いて、夫は妻をこの上なくいとしいと感じ、河内の女のところへは行かなくなった。


男がまれに河内高安の女のところに来てみると、女は初めのうちは奥ゆかしく体裁をとりつくろっていたが、今は気を許して、自分自身でしゃもじをとって、ごはんを盛っている。それを見て、男は嫌気がさして高安へは行かなくなってしまった。


それとは知らず、高安の女は恋の歌を詠んだ。


《大和の方を遠く見やって、 あなたがいらっしゃるあたりをながめながら暮らしましょう。雲よ、生駒山を隠さないでおくれ。たとえ雨は降っても》


といって外を見ていると、大和の男からあなたのところへ行こうと便りがあった。


女は喜んで待っていたが、男はいつまで待っても来ない。何度も虚しく過ぎてしまったので、女はまた歌を詠んだ。


《あなたが来ようとおっしゃった夜のたびごとに、お待ちしていましたが、いらっしゃることなく過ぎてしまったので、もうあなたのお出でを当てにはして居りませんが、やはり、あなたを恋しく思いながら日を送っております》


と詠んだけれど、男はついに高安の女のところへ来ることは無かった。




「……という訳です」


マスターは、そう告げて印刷物を置いた。


そうしてミネラルウォーターをグラスに注いでいる。




「あの、これって……恋愛の話ですよね?」


結花が口を開いた。


「ええ。平安時代の小説です」


マスターはミネラルウォーターを一口飲んだ。


「変な話ですね」


結花も水の入ったグラスを掴んでいる。


「変とは?」


「だって男は、妻に魅力を感じなくなったから、もっと魅力的な女のところへ行ったんですよね?」


物語の矛盾点を見つけたと言わんばかりに結花が疑問を口にした。そうして水を飲んだ。


「ええ。そのような解釈も成り立ちますね」


マスターは反駁せずに結花の話を促している。


「高安の女が無理に誘った訳じゃないですよね? 高安の女は、男に妻があるかどうか知らないんですよね?」


「そうですね。ここには、そうは書いてませんね」


叶恵は眼を凝らし聞き耳を立てて、二人のやりとりを遠くから眺めた。


「高安の女は、何も悪いことしてないですよね? なんで見限られてしまうんですか? ご飯を自分でよそっているのを見たから、嫌気がさしただなんて、訳わかんない男ですよね?」


「なるほど。そうかも知れません。しかし、何度も言いますが、これは平安時代に書かれた小説です。小説や和歌を読み書きして楽しむ知識階層は限られています。つまり上流階級と言って良いでしょう。この当時は如何にみやびに生きるかが問われ、尊ばれたのです」


「みやび? 妻があるのに、よそに女をつくることが、みやびですか?」


結花はマスターに挑むような眼差しを向けた。


「この当時は一夫多妻が許されたのです。妻の家に男が婿入りするのが基本で、夫は実家に住んでも良いし、妻の家で生活しても良い。正妻は一人ですが、愛妾を持っても良いとされた時代です」


「そうなんですか!」


結花は驚きの声を発した。


「そうです。妻を選ぶにしても、男は候補者となる女性の家に三日間、通ってから決めて良いのです。この間、娘の親は顔を出さずに見守ります。但し、女性の家に泊まる度に、男は歌を詠んで渡さなければなりません。それを見て親や親戚が男の品定めをする」


「品定め? そんなことするんですか?」


「そうです。どの程度の歌が詠めるか? それで能力や人柄を判断するのです。何故なら、この当時の出世とは娘を宮仕えにすることなのです。その為には能力の高い遺伝子が必要となる。より優れた遺伝子を求められた。結婚後の第一子は娘であることが望まれた。それが一族の繁栄に繋がるからです」


「一族の繁栄って、じゃあ、純粋な愛情で結ばれるのではなくて、そんな打算で結婚が決まるんですか?」


「全部がと言う事ではないですね。娘が、どうしても、この男がいいと言えば反対する親は少ないでしょう。話を戻しますが、そうした理由で、この時代は何人もの女性と関係を持っても咎められないのです。そういう時代に書かれた小説です」


「ああ……そうなんですね」


結花は放心したように言って、水を口に運んだ。



「マスター、平安時代って」


叶恵が横から尋ねた。


「鳴くよ鶯、平安京。いい国作ろう鎌倉幕府。794~1192年ですから、398年、ざっと400年間ですね。この小説は千年以上前に、紫式部の源氏物語よりも前に書かれたものです」


「あっ、分かりました! これって、伊勢物語ですね?」


結花が声を放った。


「そうです。正解です。伊勢物語の第23段【筒井筒】です。さすがは文学部ですね」


マスターが笑顔で結花を誉めた。


「大和物語にも同様のものがありますが伊勢物語が原形です」


そう言って、マスターはボトル棚の前に移動した。


「源氏物語よりも前っていうヒントで分かっちゃいました。でも【つついつつ】って言う題名までは……どういう字を書くんですか?」


結花はマスターの背中に向けて嬉しそうに話しかけている。


マスターはボトル棚から2種類のボトルを抜き取ってカウンターの内側に置いた。


「茶筒の筒、井戸の井です。では、作者は誰か分かりますか?」


マスターはシェイカーの蓋を取った。


「えっ? 作者? それは…………うーん、思い出せません」


結花は首を傾げながら正直に答える。


「ははは、正解です。作者は分からないのです。色々な説がありますが、結局、分からないのです」


マスターから、そう伝えられると結花の表情がパッと明るくなった。


「どうして、そんなに詳しいんですか?」


マスターはボトルの液体を計量しシェイカーに注いでいる。


「友人に聞かされたのです。古典はいいよと。この小説は実に良く出来ています。全く無駄がない。作品に織り込まれた5首の歌も見事です。後半の2首には女性の慎ましくも熱い想いが綴られる。それなのに結末は、あっさりと、男は女の元へ来ることはなかったと記されています」


マスターの手は休まない。


「その理由は、妻の詠んだ歌にあります。歌の力で夫は気づかされる。原文を、おさらいしましょうか」



《風吹けば 沖つ白波 たつた山

 夜半よわにや君が ひとり越ゆらむ》


と詠みけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。



「よその女のところへ行くと分かっているにも関わらず、妻は、夜道を行く自分の身を案じて歌を詠んだ。自分は、妻に男が出来たのかと疑ったのに、そうではなかった。嫉妬するどころか、一途に心配してくれている。こんな妻が他に居るだろうか? 改めて妻への愛しさが蘇る。男は、もうよその女のところへは行くまいと決めた。感動的です。さあ、どうぞ」


結花の前にカクテルが置かれた。


そのカクテルは細長いシャンパングラスで出された。


「ミモザです。さっぱり甘めで女性に人気があります。アルコール度数は7度。お酒に弱い人でも大丈夫ですよ」


「わあっ! おしゃれなグラス! 色もきれいですねっ!」


結花はグラスを手に取って顔を近づけている。


「この色はオレンジですが、ミモザの黄色に似ているので、ミモザと名付けられたのです」


「ああ、そうなんですね。頂きまーす」


結花は機嫌よくグラスを傾けた。



「叶恵さんには、こちらを」


叶恵にはシェイクしたカクテルが出された。


叶恵は俯いていた。


「叶恵さん、男というものは、そんなに難しい生き物ではありませんよ。優しい妻が大好きなのです。男が望むものは、ひとつだけです」


「ひとつだけ?」


叶恵は顔を上げ、マスターの顔を凝視した。


「それは妻の笑顔です。男が何故、よその女性に眼が行くか。それは妻に素っ気なくされたからです。妻に迎えたというのは男にとって余程の女性ですよ。本当の自分を晒け出せる、気を許して共に暮らしていける相手は、そうそう居るものではない。酒場の女性が新鮮に可愛らしく映ることだって時にはあるでしょう。それでも……」


「それでも ? 」


「妻が一番いいに決まっています。これは私のオリジナルカクテルです。このカクテルの名前を【妻の笑顔】としましょう」


その一言は叶恵の胸を打った。



叶恵は青く澄んだカクテルに手を伸ばした。


「マスター、ありがとう…………分かったわ」


叶恵は晴れやかに微笑んだ。


その眼に涙が光った。



 ―了―

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