伝わるもの

朝星青大

第1話

『伝わるもの』





「だからね。あたし、主人の後を尾けて女の部屋を突き止めたの!」


叶恵はカウンターの上で握りこぶしをつくった。


「ほおっ! 突き止めましたか」


マスターはグラスを磨く手を止め、煙草を手に取った。話を真剣に聞きましょうという態勢をつくったのだ。


「ええ、そうよ。そのまま乗り込んで、決着つけてやろうと思ったんだけど。深夜だし、他のアパートの住人にパトカーなんか呼ばれたら、面倒だし、あたしも今日は午前中から仕事の約束があって。だから……」


叶恵は、そこで言いよどんだ。


「乗り込まずに帰って来たのですね?」


マスターは煙草に火をつけた。


「ええ。でも、ひどい話でしょ? さーて、どうしてくれようかと、マスターに知恵を借りたくて来たのよ。だから、こんな早い時間に。だって、お店が混んでたら、マスターに相談できないもの」


壁の時計は19時30分を示していた。


「なるほど。そういう事ですか。分かりました。そろそろ、文学部の学生が来る予定になっているのですが、その後で良ければ」


「あらっ! そうなの? みんな考える事は同じね」


「この手の話は円満解決が難しい。慌てずに対処した方が良いのです。大抵の場合、性急に騒ぎ立てたほうの負けです」


「そうなの? だって、あたしは妻なのよ。妻帯者にちょっかい出す女の方が悪いんでしょ? 出るとこ出れば」


「もちろん裁判なら叶恵さんの勝ちでしょう。慰謝料だって請求出来ます」


「慰謝料?」


「ええ。しかし、ご主人は帰らないかも知れない。最悪は離婚になりかねない。それでも良いですか? ご主人を取り戻す事が望みではないのですか?」


マスターは叶恵の真意を計るように眼を合わせた。


「ええ。そうね。マスターの言う通りだわ。どうしよう」


叶恵は視線を泳がせている。



「ですから、叶恵さんが乗り込まずに帰って来たのは賢明でした。住所が分かっているなら、現場を押さえる事はいつでも出来ます。何を作りましょうか?」


「えっ? ああ、そうね。余り強くないカクテルをお願い」


「わかりました」


マスターは煙草を消し、ボトルの棚に手を伸ばした。


店内にはクラシックの楽曲が流れている。


「マスター、さっきから流れているこの曲、素敵ね。特にバイオリンの音色が。なんて言うの?」


「シューベルトのセレナーデです」


マスターは音量を上げた。


「シューベルトって、メガネをかけてる人でしょ? ずいぶん昔の作曲家よね?」


「そうです。歌曲王と呼ばれた天才作曲家です。彼はベートーヴェンをとても尊敬していて、ベートーヴェンが亡くなった翌年に、この曲を作曲して、まるで後を追うように亡くなってしまった。31歳で」


「まあっ! そんな若くに? あたしと同じ歳だわ」


叶恵はグラスを置いた。


「彼の遺言で、尊敬するベートーヴェンの墓の脇に眠っています」


「そうだったの。それにしても素敵なメロディだわ。なんて言うか、ゆったりと何かを想いながら散歩するような感じ。でも途中から急に胸が締め付けられるような、ちょっと悲しい感じもあって。それでいて、少しずつ癒されるような」


シューベルトのセレナーデを聴きながら、叶恵は軽く眼を閉じた。


「分かりますか? そうなのです。この曲には癒しの効果がある。シューベルトの想いが、いや、シューベルトだけでなく、古典楽曲には作曲家の魂が込められているので、聴く者の胸を打つのです。聞き流している者には分かりません。はい、どうぞ」


マスターはカクテルグラスを置いて、シェイカーからオレンジ色の液体を注ぎ入れた。


「ありがとう。きれいな色ね」


「バレンシアです。アプリコットブランデーとオレンジジュースがベースで甘口です」


叶恵は一口含んで笑顔になった。


「ほんと。甘くて美味しい」


マスターも、笑顔になり、煙草を手にした。


「そうそう。マスター、さっきの話。聞き流している者には分からないって?」


叶恵が尋ねた。


「この曲を心から聴こうとした者にだけ伝わるものがあるのです。聞き流している者には分からない。そういう意味です」


マスターは煙草の煙を上に吐いた。


「伝わるものって。それは、シューベルトの心っていう意味?」


「そうです。その通り。心です。シューベルトが、どんな想いでピアノに向かったか」


マスターはタンブラーにミネラルウォーターを注いでいる。


「そんなことが分かるの? だって、内面の問題でしょ?」


叶恵は、また一口、カクテルを含んだ。


マスターも、ミネラルウォーターを飲んでいる。


「そうです。本当のところは誰にも分からない」


マスターは一呼吸置いて続けた。


「しかし、さっき叶恵さんは急に胸が締め付けられるような感じがすると言われましたね?」


「ええ。そうよ。なんとなくね」


「なんとなく伝わるもの。そこです。例えばシューベルトのアベマリアは余りにも有名ですから知らない者は居ないでしょう」


話をしながら、マスターは振り向いてボトルを手に取った。


「もちろんアベマリアは知ってるわ。シューベルトの曲だったの?」


ボトルの液体は計量され、シェイカーへと注がれる。


「そうです。この曲を聴いた誰もが優しい気持ちを感じると言います。いや、誰をも優しい気持ちにさせてしまう。シューベルトが稀代のメロディーメーカーと呼ばれる所以です」


マスターは別のボトルから同じように計量しシェイカーに入れてシェイクをはじめた。


「知らなかったわ。シューベルトって、凄い作曲家なのね。あたしはクラシックと言えばベートーヴェンぐらいしか知らないもの」


「それです。彼はベートーヴェンを崇拝していた。ベートーヴェンもシューベルトの才能を認めていたようです。しかし、直接的な師弟関係には至っていない」


「そうなの? どうしてかしら? 弟子にして下さいって言えば良かったのに」


「芸術の世界では有りがちな事です。シューベルトにとってベートーヴェンは雲の上の存在で、畏れおおくて気安く近づけなかった。同レベルなら緊張せずに談笑もできたでしょうが」


マスターはカウンターにシェイカーを置いた。


「ああ、それはね。わかるわ。社長とでは何を話していいのか分からない。同僚となら気安く雑談できる。親友なら居酒屋で愚痴も吐ける。そういう事でしょ?」


「ははは……それとは少し違いますが、似たようなものかも知れません。ベートーヴェンが亡くなり、彼は、ようやく棺の傍で涙に暮れています」


「そうだったの。シューベルトって遠慮ぶかいのね。マスター、おかわりをお願い」


「はい、どうぞ」


叶恵の前にカクテルグラスが置かれ、マスターはシェイカーを傾けて注ぎ入れた。


「えっ? もう? これって私の為に作ってたの?」


叶恵は驚いてマスターを見上げた。


「その後、シューベルトは遺作となる歌曲集『白鳥の歌』に取りかかります。これは詩人の書いた詞に曲をつけたもので、セレナーデは、その中の一曲です」


「ええっ? ということは……日本の歌謡曲と同じなの?」


「そう。歌謡曲の原型です。セレナーデは最初、シューベルトを支援してくれた質屋の娘エムミーの為に書かれたのです」


「あらまあ、シューベルトにも恋人が居たのね?」


「誰にでも恋の相手は居るでしょう。セレナーデとは小夜曲と訳されます。窓辺の下から恋人へ呼びかける歌なのです。詩の内容がです。甘やかな調べになるのは当然です。しかし、彼は貴族の娘の家庭教師もしていた。6年ぶりに再会した少女は魅力的な女性へと変貌を遂げていた」


「待って! その先は何となく分かるわ」


叶恵はカクテルを味わい、


「シューベルトは心変わりをしたのね」


と言ってグラスを置いた。


「それはシューベルトに訊いてみなければ分かりません」


マスターは、それについての言及を避けた。


「セレナーデに話をもどしましょう。歌詞を読めば愛を伝える歌。しかし、曲だけを聴くと、哀しみが伝わって来る」


「不思議ね。どうしてなの?」


「実は尊敬するベートーヴェンが亡くなった事に由来するのです。シューベルトが30歳の時にベートーヴェンが去ってしまった。どうすれば良いのか分からない。貴方の生き方こそ私の目標であったのに。そんなシューベルトの哀惜の想いの中で、この曲は作られた」


「ああ、そうだったの。だからなのね」


叶恵は納得して、グラスに口をつけた。




ギイッと音が鳴りドアが開いた。


「こんばんはーっ! マスター、早速、来ちゃいましたーっ!」


元気よく若い声が響いた。


「やあ、聡美さんでしたね? いらっしゃい。おや、お二人様ですか?」


「ええ。文学談義なら彼女も是非、聞きたいって」


「こんばんは。一緒に聞かせて下さい」


聡美の後ろから、もう一人の女子学生が姿を現し笑顔で挨拶した。


「そうですか。どうぞ、どうぞ。こちらへ」


二人は、叶恵から三つ空けた席へ並んで腰を降ろした。


マスターは素早くカウンターから出ると、ドアの外へ準備中の札を掛けて戻った。


そうして叶恵に囁いた。


「学生達との話を聴いていて下さい。聞き流さずに」


「ええ。分かったわ。あたしに伝えるものがあるのね?」


叶恵が小声で応えた。

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