第5話 現実と甘さ

 日本海は荒れていた。5メートルを超える波が艦を揺らし、慣れない兵士たちの中には船酔いに苦しむ者が多々いた。

 台風28号が日本列島に来襲し、四国と近畿地方に大きな被害を齎した後、あろうことか日本海に抜け出してきた。おかげで自分たちの背後には台風が迫ろうとしており、今後の上陸作戦に対する影響も危惧された。

 しかし米軍の作戦指揮官は断固として上陸作戦の決行を主張した。不利に陥る戦況を早期に好転させたい思惑が、日米共に上層部の中に巡っていたためだろう。

 日米を中心とした国連軍の上陸作戦参加部隊が荒れる海上を北上していた。目指すは赤く染まりつつある北海道である。

 道央の拠点だった札幌が北日本軍に奪われ、道南地方に追い詰められている友軍を支援するためにも、札幌奪還を目的とした石狩湾への上陸は形勢逆転の大きな鍵だった。北海道が共産圏に落ち、本土にまでその手が伸びることは決して許してはならない。



 「上陸する以前に、果たして北海道まで無事に辿り着けるのか?」

 トランプをしていた仲間が、横揺れする船内を仰ぎながら呟いた。

 台風の被害は既に知られるようになっていた。台風による影響は、降雨よりも強風による影響の方が大きかった。暴風が地上に吹き荒れ、家屋を破壊し、多くの死者と行方不明者が出ていた。海上は嵐となり、大阪湾では船舶の被害や、家屋の浸水が報告されていた。

 それだけの強力な台風が、まるで自分たちの後を追ってくるかのように近付いている。台風は若狭湾を抜けると、日本海へ向かって進んでいた。

 「知ってるか? アメリカでは台風に人の名前を付けるんだぜ」

 「じゃあ、今発生している台風は何て言うんだ?」

 「ジェーンだってよ。 アメリカ人女性の名前だ」

 「台風に女の名前とは、アメさんも寂しいこった」

 「何て言ったって、爆撃機に母親の名前を付けるくらいだぜ?」

 船内の居室に響く笑い合う声。それを無関心に聞きながら、目と鼻の先にある天井を見詰めながら、南日本軍――日本帝国軍――の西藤亮馬一等兵は三段ベッドの上にいた。

 揺れる感覚が、ベッドに全体を預ける身から直に伝わる。また大きく揺れ出した。

 「う、もう駄目だ……抜ける」

 一人が顔を青ざめながら、慌てて居室から出て行った。便所から奏でられる負の合唱に参加しに行ったことは明白だった。

 「気分転換もそろそろ限界か。 俺も行ってくる」

 「んじゃ、やめるか」

 「くそ、テメェ! 勝ち逃げする気かよッ」

 仲間たちの声が遠ざかっていく。西藤の意識は眠りの底に落ちていった。



 西藤は東京の下町で生まれ育った。新聞記者の父や母、四人の兄と妹に囲まれた次男坊として育った。

 父の影響で幼い頃に見に行った野球の試合で野球に惹かれ、自身も野球をするようになった。それからはいつもボールを手にする野球少年として育ち、近所の公園でよく他の子供たちと野球をして遊んだものだ。

 特に仲が良かったのが、幼馴染の灯歌という名の女の子だった。

 「よーし、こいっ!」

 「いい加減諦めろよ? おれの投げる球を、お前が打てるわけないじゃん」

 「今度こそ打つもんっ!」

 女の子にしては珍しい活気ある娘だった。むしろ他の男子より活発で、野球では西藤に付いてこれるのは彼女しかいない程だった。

 「ほーむらん宣言!」

 「強気だなぁ、三振空振り何回連続だっけ?」

 「うるさいなーっ! はやく打ってこーい!」

 「お望み通り」

 西藤が投げる球は、その年齢の子供が投げるには早過ぎる投球だった。それらは今まで通り、バットに触れることなく綺麗に収まった。

 「うーっ! うーっ!」

 悔しそうに地団駄を踏む彼女の姿を前にして、球を受け取った西藤は勝ち誇るようにニヤリと笑う。

 「さて、次でまた三振だ。 降参するなら今の内だぜ?」

 「誰がするもんかっ! ショーブは最後まであきらめないものなのッ!」

 西藤は嬉しかった。楽しかった。やはり自分に付いてこれるのは、彼女しかいない。

 ここまで粘り強くて、どこまでも自分に付き合うことができる彼女は、西藤にとっても一番の友人だった。

 「そうこなくちゃな!」

 西藤は嬉しそうに、そして真剣に投球した。それに向かって、彼女が思い切りバットを振った―――


 球はバットに掠るように当たり、転がった。ホームランではなかったが、十分にヒットとなった。


 「ふふーん、どう?」

 「打つのはホームランじゃなかったけ」

 「当たったんだから、いいんだもーん」

 そう言う彼女は本当に嬉しそうだった。余程当たったのが嬉しいらしい。そんな彼女を見て、何故か自分も微笑ましくなる西藤だった。

 「ねえ、リョウ。 また遊ぼうねっ」

 「ああ、勿論」

 そう言って、彼女は泥だらけになって帰るのだ。あの大きな家に。


 彼女は町内でも大きな家の子供で、まだ幼かった西藤には理解できない程の権力と財産を持つ家庭だった。

 そんな家の娘である彼女がいつも泥だらけになって帰ってくれば、親からうるさく言われるようになるのも自然の摂理だったかもしれない。やがて年を重ねるごとに、彼女とは疎遠になっていった。

 一緒に遊ぶ子供たちの中に、あの活発な女の子の姿はなかった。


 彼女と会えなくなってからも、西藤は野球に打ち込んだ。最初の頃は彼女の家の前まで来たことがあったが、大きな家の言い様のない迫力を前に、いつも立ち去る他なかった。

 やがて彼女とは本当に疎遠となり、会えないのが当たり前となってしまった。

 それから年月が経ち、早稲田に進んでからも西藤は根っからの野球魂を絶やさなかった。

 自分には野球しかないと思っていた十年。しかし戦争が西藤の野球に影を落とした。

 始まった米国との戦争。野球は敵性スポーツであるとされ、東京六大学野球連盟は解散に追い込まれた。

 スポーツに国境なんて関係ない、と、誰かに聞かれれば非国民と罵倒されそうなことを強く思うようになった西藤だったが、彼の所属する野球部もまた活気を失いつつあった。

 野球をすることが減ったある日、西藤が野球部の友人たちと共に川岸を歩いていた時のことだった。

 「おい、高等女学校の娘たちだ」

 友人の言った方向を、全員が視線を向けた。そこにはセーラー服を着た女学生たちが並んで歩いている。特に彼らの目を惹いたのが、中心にいる一人の少女だった。

 まるで野に咲く花のような可憐さとお淑やかさを兼ね揃えたような、清楚ある美しい女性がそこにいた。日本人形のように整った顔立ちは、美人と言うよりは美少女と呼ぶに相応しい域だった。

 この時、西藤は何故か、その美少女が、幼い頃に一緒に遊んだ彼女だと気付いた。 


 しばらく見ないうちに、綺麗になったもんだ。


 素直にそう思えた。あんなに男より活発だった女の子が、あそこまで清楚な女性に成長しているとは夢にも思わなかった。

 いや、むしろそれが彼女の本来の姿なのかもしれない。元々大きくて裕福な御家柄だったのだから。

 それ以来、西藤は野球以外に彼女のことも考えるようになっていた。

 そして、久しぶりに彼女と会おうと言う決心がついた。

 同じ道、同じ時間帯に待っていると、彼女は前と同じように、友人たちに囲まれながら現れた。姿を見た途端に緊張し出した胸を必死に抑えつつ、勇気を振り絞って西藤が話しかけると、彼女は驚くとすぐに笑顔になった。

 「久しぶりだね、リョウくん」

 彼女も覚えてくれていたことに、西藤はほっとした。緊張がお湯に溶けたかのようだった。

 一緒に帰っていた友人たちと別れ、二人きりになると、河川敷に座った二人は昔のことを懐かしむように話した。

 会えなくなってからの、お互いのことも話した。それは本当に久しぶりで、時間を忘れてしまうぐらいに楽しい時間だった。

 日が暮れる頃、彼女は気付いたようにハッとなった。

 「いけない、そろそろ帰らないと……」

 「悪いな、長々と」

 「ううん、私も久しぶりにリョウくんと話せて楽しかったです」

 そう言ってニコリと笑う彼女を見て、西藤はドキリと胸を高鳴らせた。こんな感覚は、昔にはなかったものだった。

 「あ、あの……また今度、会えるかな?」

 どきどきと緊張しながら、西藤は口を開く。

 彼女の返事を待つ間が、何故か心臓の鼓動を高鳴らせる。

 「良いですよ」

 柔らかく微笑んで、彼女は答えた。

 「私もまたリョウくんと会いたいです」

 その時、西藤は嬉しさと高揚感を意識すると共に、ある感情を自覚するようになった。


 再会してからと言うもの、二人は何度も会った。彼女と過ごす時間は何よりも楽しくて、何時しかかけがえのない瞬間になっていた。

 彼女は昔に比べると本当に変わっていた。あの頃の活発さは微塵もなく、清楚でお淑やかな印象が強く、お嬢様らしい気品の持ち主になっていた。そしてその身体と心に表れている成長した女性らしさ、更にその内に秘められる、残された昔ながらの彼女らしさがあって、西藤は彼女の魅力に惹かれていった。

 早稲田の戸塚球場で開かれた最後の早慶戦にも、彼女を観客として招待した。彼女の見る前で、久しぶりに自分が野球をする姿を見せ付けようと意気込んだ。

 しかし西藤たちは勝敗に関係なく思う存分野球を楽しんだ。戸塚球場に応援に詰めかけた学生たちもそれは同じであった。勿論、彼女も。

 試合を終えた西藤は、一緒に球場の清掃をしてくれた彼女と共に帰路についた。その最中で、西藤は溜まりに溜まっていた思いの丈を彼女に告白した。

 西藤の本音を聞いた彼女は、涙をこぼして喜んだ。ずっと待っていた、と繰り返した。本当は昔から好きだった、と彼女の口から漏れた時、西藤は泣く彼女を抱き締めていた。

 その時の彼女の声を、泣き顔を、温もりを、西藤は生涯忘れないと誓った。


 それから5日後、西藤は出陣学徒として出征した。戦場に向かう前に、彼女の前で野球を見せ、彼女に自分の想いを知ってほしったのだ。

 西藤が出陣学徒として徴兵された一年後、戦争は終わった。戦場に行くことなく、軍隊生活は終わりを告げた。

 米国との講和が叶い、戦争が終わって、西藤も彼女が待つ故郷に帰った。そして彼女と再会し、結婚する約束を結ぶまでに進展した。

 だが、西藤が帰ってきた頃に北海道の北半分がソ連軍に占領され、そのソ連の下で、日本から分離した別の国が生まれてしまった。


 それが、二人を再び引き裂くきっかけとなった。


 結婚し、妻となった彼女の腹の中に一人目が宿された時、西藤は軍に徴兵された。

 北日本軍が侵攻し、日本人同士の戦争が始まったのである。

 西藤は再び軍に戻され、兵士として戦争に参加することになった。出征前、妻になった愛しい彼女と、お腹に宿した子供を残し、彼は二度と戻ることができないかもしれない戦場へ発った。



 実際、戦争は帝国にとって不利な状況だった。ソ連の後押しを受けているだけあって、敵の攻勢は激しいものだった。札幌は占領され、北海道のほとんどが敵の勢力下に落ちようとしている。

 北海道を奪われれば、次は本土である。本土から南へは、絶対に侵攻を許すわけにはいかなかった。



 日本を取り巻くアジア情勢は、特定の諸国にとっては危機的状況にあった。

 大陸や半島が東側陣営となり、共産圏の打倒を目指したい西側諸国にとっては、アジアの唯一の防衛線は日本しかなかった。しかし、ソ連の思惑によって北海道が新たな東側陣営に加わろうとしている。北海道からじわじわと東側陣営に日本を引き込もうとするソ連の動きに、米国は断固として許さなかった。

 米国はソ連に参戦しないよう圧力を掛け、日本の共産化を阻止しようと働きかけた。しかし、国連軍の参戦が決定した同時期に、ソ連が義勇軍として自らの軍隊を北の大地に派遣することを決めてしまった。

 結局、日米を中心とする多国籍軍が北海道に向かっている。更にソ連軍の参戦が噂されれば、兵士たちが、第三次世界大戦が起きるのでは、と心配するのは当然の流れだった。

 そして、彼らは遂に北海道の沿岸まで辿り着いた――

 「おい、そろそろだぞ。 準備しとけ」

 ヘルメットの裏に貼った妻と二人で映った写真を見詰めていた西藤は、ヘルメットを深く被り直した。

 「まさか敵さん、嵐の中上陸してくるとは思うまい」

 にやりと笑った仲間を尻目に、西藤は決意染みた瞳を輝かせた。

 やがて、兵士がぎっしりと乗った舟艇の前に、荒れる海面が顔を見せた。

 舟艇が、ダイブするように海へ突っ込んでいく。

 正に様々な意味を重ねた上の、命がけの作戦開始となった。


 石狩湾上陸作戦は悪天候の中で行われた。数百隻に昇る上陸用舟艇が石狩湾に押し寄せ、多国籍の上陸部隊が北の大地に足を踏み入れた。北日本側からは目立った抵抗はなく、上陸は嵐による妨害を除けば順調に進んだと言えた。

 更に、日本側からは戦艦『長門』、転回点とも言えたフィリピンの戦いに沈んだ『武蔵』の姉妹艦である『大和』の主砲が火を噴き、他にも各国の戦艦の艦砲射撃の雨が地上に降り注いだ。天候が落ち着いた後も、戦艦の砲撃支援は実施された。

 空母からは艦載機が飛び立ち、米軍のF4Uコルセア、P-51ムスタングや英軍のホーカーシーフューリー、そして帝国陸海軍の航空隊が航空支援を行った。

 この頼もし過ぎる支援を背景に、上陸部隊は札幌市に侵攻した。札幌に待ち構えていた敵と交戦状態となるが、国連軍は最新鋭兵器を駆使して敵の駆逐を開始した。

 車両に座乗した西藤亮馬一等兵も銃弾が飛び交う市内を走り回った。前方を走る米軍のM46パットン戦車が心強い。友軍を圧倒させた敵のT-34さえパットンには敵わなかった。

 「撃て、撃てッ!」

 車両から身を乗り出すように、視界に入った敵を狙い撃つ。走行しながらの射撃は難しいと言うレベルではないが、何とか目の前の道を開けることはできていた。

 このまま全面に前へ進むことができれば、札幌奪還も夢ではない。

 制空権は友軍の航空機が確保しつつあり、こちらの優位性が向上するのも時間の問題だ。

 前方に、味方のパットンが一輌。

 パットンが目に入ると同時に、視界の端から何かが飛び出してきた。

 視線を向けると、12かそこらの少年兵が、何かを抱えてパットンに向かっている。

 それに逸早く気付いた仲間が、西藤の横で叫ぶ。

 「対戦車地雷だッ!」

 少年兵が抱えているのは戦車を破壊するだけの威力を持つ地雷であった。気付いた仲間が発砲を始めるが、どう見ても間に合わなかった。パットンは横から駆けてきた少年兵に気付かない。気付いたとしても、回避できない距離だった。

 少年兵はパットンの前に滑りこむように姿を消した。

 次の瞬間、パットンは爆炎と煙に包まれた。

 そのまま動かなくなるパットン。その横を通り過ぎる際、炎上する変わり果てたパットンの車体と、その周囲に散らばった人間の一部が、西藤の視界に生々しく映った。

 「見たな、今のッ?! これが奴らのやり方だッ! 子供ですら、ここでは信じられない!!」

 先程、少年兵に気付いて叫んだ仲間が言った。その言葉に対して、誰も肯定も否定もできなかった。

 日本帝国内では、開戦と同時に18歳から45歳までの男を一斉に徴兵したが、敵は予想以上に若い少年兵まで戦場に戦わせている。その事実を知り、西藤は舌打ちすることを堪え切れなかった。

 「敵だ!」

 その声を聞いて視線を向けると、自分たちの車両の進路を遮るように、一人の少年兵が仁王立ちしていた。地雷は持っていない。だが、その手には懐かしい三八式が握られている。

 「畜生ッ!」

 撃たれる前に、撃つ。西藤たちは目の前に立ち塞がる少年兵に向かって射撃を始める。少年兵も引き金を引くが、その弾は車体に火花を散らすだけだった。運転席やタイヤを狙えば良いものを、その少年兵は方法を誤った。

 少年兵の膝に穴が開いた。目の前で倒れた少年兵を見た瞬間、西藤は運転する仲間を制止した。

 「停めろッ!」

 「はぁッ?!」

 危機一髪、倒れた少年兵の目と鼻の先で車両は停まった。このまま走行していれば間違いなく轢き殺していた。

 「何をしている!?」

 仲間の言葉も無視して、西藤は車両から降り立つ。そして車両の目の前に倒れ、呻く少年兵に駆け寄った。

 「まだ生きてるな」

 膝を撃たれただけで、命に別条はない。苦しそうに呻く少年兵に近付く西藤。それを仲間たちが黙って見守っている。やがて西藤は少年兵を抱き起こそうとした瞬間――

 「―――――ッ!?」

 三八式を手に持った少年兵が、その銃口を西藤に向けた。それを合図に、西藤の後ろで見守っていた仲間たちも一斉に銃口を少年兵に構えた。

 「……………」

 少年兵が構えた三八式の銃口が、西藤の首を狙う。緊張に張り詰められた空気。じりじりと、少年兵は足を引きずるように、西藤に銃口を向けたまま距離を取った。

 「怯えるな、何もしない」

 落ち着かせるような声色で、西藤は口を開く。

 しかし少年兵は、構えを解かない。

 「状況を見てみろ、明らかに君が不利だ。 命だけは保証するから降伏してくれ」

 「黙れッ!」

 銃口がぐい、と詰め寄られる。引き金に少年兵の指が触れ、それを見た西藤はぎくりと緊張した。

 「無駄だ、西藤。 殺そう」

 「何言ってるんだよ……子供だぞ?」

 「お前、さっきの見ていなかったのか。 子供でさえ敵だと言っただろ」

 地雷を抱えて戦車の下に飛び込んだ少年兵を思い出す。

 朽ち果てた戦車の周りに、無残に落ちていた、まだ未成熟らしい小さな腕。

 まだまだ成長して、その時間をもっと楽しく過ごすことができただろう。

 まだ野球をしたりして、友達と遊んでいるような年齢だ。

 そんな子供が、当たり前のように死んでいく現実が、どうしても理解したくなかった。

 西藤は、もう一度目の前にいる少年兵に視線を向ける。

 膝から流れる赤い血。痛いだろう。こんなに小さな子供なら、泣き叫んでも普通だ。なのに、目の前の少年兵は憎悪を剥き出しにした表情で自分を睨んでいる。

 「米帝の犬どもめッ! 我らは決してお前らなんかに屈したりしないぞ! この命、党首様に捧げたもの! 日本人民共和国は、お前らから全ての人民を解放して――」

 喚くように叫んでいた少年兵の口が、止まった。

 額に穴を開けて、少年兵はその形相のまま、ばたりと倒れた。

 振り返ると、引き金を引いた仲間が無表情に立っていた。

 「……さっさと行くぞ」

 それはどこか威圧的だった。仲間たちが次々と車両に戻っていく。西藤は、目の前で動かなくなった少年兵を見据えた後、無言で立ち上がった。

 西藤が車両に乗り込もうとした時、西藤のすぐそばにあったフロントガラスが割れた。

 「敵……ッ!」

 振り返ると、100メートル以上離れた距離に、一人の敵兵がいた。狙撃手スナイパーだ。視線が合うと、敵は背を向けて走り去った。

 「追えッ! 逃がすなッ!」

 車両に乗り込むと、仲間が叫んだ。そしてアクセルを踏み出すと、車両は勢い良く発進した。



 敵兵はすばしこかった。撃ち損ねていると、敵兵はあるビルの中へ逃げた。そのビルの前に車両を停め、仲間たちと共に降り立つ。

 「ここまで執拗に追い回さなくても……」

 「うるせえ、一人残らず皆殺しにしてやるって決めたんだ」

 仲間の一人が言い、それに唾を吐くように言い返す仲間。

 「子供だろうがなんだろうが、敵は全て殺す。 散々思い知っただろ」

 「……………」

 そして、西藤たちは慎重にビルの中へ侵入する。室内は焼きただれたように黒く、破損が酷い状態だった。砲撃を受けたのだろう。どこかに潜んでいるであろう敵兵を警戒して、上の階へ昇った。


 俺はこんな所で何をしているのだろう。何故、ここまで憎しみ合って、同じ日本人を殺さなければいけないのか。


 西藤は、甘かった。

 彼が憐れむ北の少年兵より、まだまだずっと甘い思考の持ち主だった。何が彼をそうさせたのだろう。いや、元々彼はそうなのだ。ただ、彼は変われていなかっただけなのだ。

 考えてはいけないことを深く考え、その考えを止めず、甘い性格がそれに上乗せする。戦場では致命傷だった。しかし、彼にとってこれが初めての戦場だった。

 もし彼が“調整”されていたら、彼の運命も変わっていただろう。しかし、彼は変わっていなかった。

 だから――――




 仲間が死に、自分だけになった。




 必死に戦った。手榴弾が投げ込まれた時は生きた心地がしなかった。しかしそれはこちらには及ばず、身を防ぐことができた。そして自分を殺せたと勘違いしたのだろうか、煙の中に敵の影が飛び込んできた。

 迷わず撃った。人間ではなく、影として見たからできたことかもしれない。敵は転がった。まだ動いているから、死んではいないようだ。

 近寄ってみると、倒れているのがまたしても少年兵で、西藤はとうとう驚かなくなってしまった。ここにはどれだけの子供の兵隊がいるんだ。西藤はこの子たちを戦場に差し出した誰かを殴りたくなった。

 少年兵は弱り切った表情で自分を見上げる。ああ、これが本来の、年相応の表情だ。

 そうだな、痛いだろうな。

 泣きたいだろう?

 その顔を見ればわかる。

 だけど、それが普通だ。

 でも――


 ―――見たな、今のッ?! これが奴らのやり方だッ! 子供ですら、ここでは信じられない!!―――



 ここの少年たちは、普通ではない。

 自分の命が助かることよりも、相手を殺すことを選ぶ。

 そしてそれは、自分が死ぬことを選ぶことになる。

 それなのに、最後まで戦おうとする。

 自分が死んでまで、戦い続ける価値がどこにあるんだ?

 助かる道が開いているのに、それを閉ざしてまで死ぬことを選ぶのは、何故なんだ?

 同じ日本人なのに、理解できない。

 日本人同士なのに。

 国が違うと、こうも人まで違ってしまうのか。

 わからない。

 自分には、わからない……

 少年には、大きな未来があっただろう。自分だって、結婚してこれからまだまだ人生は続くはずだった。

 お互いに未来の可能性を持っていた者同士、せめて、自分の手でここで終わらせてやろう。

 その前に、一つだけ言わせてもらう。


 「……すまん」


 君の未来を閉ざしてしまう、俺を許してくれ。

 自分の未来のために、君を犠牲にしてしまう俺を許してくれ。

 俺は最後まで、背負い続けるから。


 少年兵の弱々しい顔が、少しずつ色を失っていく。西藤はその様子を見据えながら、引き金に指を触れた――――



 だが、未来を閉ざしたのは、目の前の少年兵ではなく西藤自身だった。



 突然察した気配。それに視線を向けることもできず、西藤は頭に衝撃が走るのを自覚した。

 しかしその回線はブツリと切れた。同時に、自分の頭蓋骨が割れる音が響いた。暗闇に落ちていく視界の端に、飛び散った自分の脳味噌が映った。

 それが西藤が見た最期の光景だった。

 東京に残した妻の可愛らしい笑顔と、まだ会ったこともないお腹の子供を、闇に喰い荒される意識の中で思った。

 二度と会えなくなる妻とお腹の子供に、命を失った彼は言った。


 ―――すまん。


 また、彼は謝っていた。その謝罪の言葉は、永遠に闇の中で反芻していった。

 脳味噌の血肉が付着したヘルメットが転がった。そのヘルメットの裏にあった写真は、彼の血で赤く染まっていた。

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