「誰かが盗んだのか……?」

「ここが地上に繋がる門への入り口だ」


 玉姫に導かれるまま、掘っ建て小屋の裏にある山道を進んだディノニクスは、ひたすらに高い壁の前に立っていた。


 モノリスを思わせる、滑らかな漆黒の壁。その高さは測定不能。どれだけ見上げても果てが見えなかった。


「この壁は距離じゃなくて時間をカウントする。どれだけ急いで登ってもどれだけゆっくり登っても、かかる時間はきっちり二十七分と四秒だ」

「全然きっちりじゃねぇな」


 玲は苦笑してから、音速も越えない低速でのろのろと上へ進む。ほとんど意味がないがエーテル節約のためだ。


「つーかお前、今まではどうやってこの壁登ってたんだ?」


 壁には指をかけられる場所どころか凹凸の一つもない。ロッククライミングの達人でも登るのは不可能だろう。


「こう、指を突き刺して、登ってた!」


 玉姫は猫の手をつくって、よじ登るボディランゲージをした。


「これに?」


 玲はコクピットに開いた孔の向こうの壁を見つめる。金属質な印象を受けるそれは、どう見ても指が刺さるようには見えないが……。


「こう見えても玉姫は力が強いんだ!」


 しょうもない嘘を吐くような少女でないことはなんとなくわかっていた。


「スピードもパワーも十分か。小せぇなりで大したもんだな」


 もしかすればクルセイドを相手にしてもかなり戦えるのかもしれない。少女に撃破される強襲兵器の姿を想像して、玲は何とも言えない気持ちになった。


「……しかし、二十七分間上に真っ直ぐ進むだけってのも退屈だな。なぁ玉姫、折角だからマンガでも読んでるか?」

「読んでみたい!」


 玉姫がそう言うので、玲は足元の格納庫を遠隔命令で引き出した。


「足元の引き出しから適当に面白そうなの見てていいぞ」

「わかった!」


 玉姫は屈み、雑多な物品でごちゃごちゃとした格納庫の中から、漫画本を取り出す。


「『LIGHT WING』……」


 玉姫は手に取った漫画のカラフルな表紙をじっと見つめた。


「ああ、それか」


『LIGHT WING』。全三巻のサッカー漫画である。フィールハイトが布教しまくっており、休憩室にも自費で置いているため、三百年前のローカルなマンガにもかかわらず読んだことのある団員も多い。


「れーくんは漫画も好きなのか?」

「いや全然。これは、フィールハイト……友達に無理矢理貸しつけられただけだよ」


 フィールハイトは少女漫画か乙女ゲームに出てくる王子様のような見た目をしているが、あれで存外子供っぽく、マンガ、アニメ、ゲームが趣味である。布教活動にも熱心だ。中佐がああなったのも大体フィールハイトのせいである。


「! 第一話から1VS100でサッカーをするのか!?」


 パラリとめくり始めて数十秒。玉姫は展開に驚いて耳を跳ねさせた。


「その作者のマンガすげぇ独特なんだよな」

「でも面白い!」


 玉姫は夢中になってマンガを読み進める。


「ぉおお! なんだかすごい! 玉姫もやってみたい!」


 三分足らずで一冊目を読み終えた玉姫は、二冊目を読みながら、玲との間に挟まる尻尾をふるふるとさせた。


「1VS100を?」

「そっちじゃなくてトランセンドサッカー!」

「……トランセンドサッカー? なんだっけかそれ」


 玉姫は興奮気味に手をわちゃわちゃ動かしながら説明する。


「一人一人が攻撃の起点になる超攻撃的サッカー! 一つのプレイスタイルにとらわれない十一個の武器を持つサッカーだ! 読んだんじゃないのか?」

「目は通したが、あんま熱心に読んでたわけじゃねぇからな……」

「もったいないなぁ!」


 と、言われても。


「……このマンガに限った話でもねぇが、登場人物全員、俺と無関係な他人だろ? 作中で何が起こっても正直どうでもいいっつーか……」


 所詮他人事だからなぁ。と玲は呟いた。


「そんなこと言ってたら何にも楽しめないぞ!」


 膝の上の玉姫のド正論に、玲は肩をすくめた。


「んなこと言われても生まれつきだからな。治せるようなもんじゃねぇ」


 サイコパスだと周りからはよく言われる。自分では違うと思っているのだが、暴力的、他人に共感できない、良心が欠如している、慢性的に嘘を吐く……など、サイコパスの特徴を列挙されると否定が出来なくなるのが悲しいところだった。


「もう……あれ、でもジュラシックワールドは楽しく見てなかったか?」


 玲は間髪入れず答えた。


「恐竜はまた別だ」


 そんなやり取りをしながら、二人は壁を垂直に駆け上がっていく。


 登り始めてから二十七分と四秒後。玉姫の予言通りに壁が終わった。壁の上にあったのは、ジャスミンと殺し合いながら進んださびれた遺跡の迷路。開幕から玲たちを惑わすように、複数の通路が待っていた。


「ここから先、常に左の壁に沿って進んでいくと、安全に地上へ出れる」


 しかし、玉姫という案内人を連れた玲には恐れるに足らない。


「へぇ。存外、危険は少ねぇんだな」


 外へ戻るのも命がけかと思っていただけに、若干拍子抜けだった。無論、いいことなのだが。


「地上に出ようとするたび危ない目に合うのは玉姫もごめんだからな! 試行錯誤して安全なルートを開拓したんだ!」


 彼女の努力に頭が下がる思いの玲だった。


 ディノニクスを駆る玲は、玉姫の言葉に従って左の壁に沿って進む。危険らしい危険も、異常らしい異常もなく、淡々と進む。

 何度目かの三叉路に差し掛かったところで、玉姫は玲を止めた。


「地上への道は左側だけど、完全浄水が採れるのは右の通路に入ってすぐの、下に向かう縦穴だ。ちなみに上の縦穴に入ると【チューリップモンスター】のど真ん中に出る」

「チューリップまでモンスターなのかよ」


 節操のなさに呆れながら縦穴を抜けて下へ降りると、ちょっとした絶景が広がっていた。


 膨大な数の河原の石が、すり鉢状に抉れているとでも形容すればいいのだろうか。心まで引き抜かれてしまいそうな魔性を感じさせるそれは、禁断領域らしくスケールも桁違いで、ひっくり返されたエベレストがすっぽり収まるほどの深さと大きさがある。さながら魔物が潜むアリジゴクだ。


「完全浄水はここの一番下に溜まってるんだ。周りには怪物たちが住んでいるけど、見えないし、基本的に温厚だからあんまり気にしなくてもいい。でも、執拗にちょっかいをかけたり完全浄水を採りすぎたりすると怒るから、そこは注意だな」

「採りすぎるって具体的にはどれくらいだ?」

「一日の増加分……二リットルを上回るくらいだ」

「わかった。一リットルくらいに抑えとく」


 玲は怪物とやらを刺激しないようにゆっくりと下降して、音も立てずに着地する。


「なんだこりゃ」


 玲は首をかしげる。足元に、なにやら翡翠の玉のような何かが落ちていた。

 拾い上げると、玉姫が鋭い声で警告する。


「れーくん気を付けろ! それを割ったら超強力な毒ガスが物凄くたくさん出てくる!」

「マジかよ」


 玲は顔をひきつらせた。ディノニクスに開いた風穴は、一応エーテルが塞いでいるものの、完璧とは言い難い。そんな状態で、禁断領域の住人に『超強力』と評される毒ガスを喰らおうものなら、殺虫剤を吹きかけれたゴキブリと同じ末路を辿るだろうことは想像に難くない。


「まぁ、鋼の球くらいには硬いから、そう簡単に割れることはないけどな」


 それでもディノニクスで踏めば割れかねない。玲は念の為ディノニクスを一メートルほど浮かせた。


「しかしおかしいな。怒ってない限りこれを落とすことはないし、そもそもあいつらは完全浄水で常に体を濡らしてるから、痕跡も何も見えないはずなんだけど……」


 そのとき、積み重なった丸い石を蹴散らして、無数の影が姿を現す。


 翡翠色の球を葡萄のように連ならせて顎から垂らした、半透明の巨大なサンショウウオ。数、三十七。


「なんで!?」玉姫は驚き慌てていた。「こいつらが、体を完全浄水で濡らしていないなんて……しかも、どう見ても怒って……」


 玉姫はハッと顔を上げた。


「まさか……完全浄水がないのか!?」


 サンショウウオは合唱するように、クルル、クルルと、喉を鳴らす。これを歓びの声だと思えるほど、玲は楽観的ではなかった。


「チ、衝撃で割れるなら下手に攻撃もできねぇな……」


 とるべきは逃げの一手。しかし下手な行動は一斉攻撃の合図になりかねない。しかしじっとしていて事態が収束するとも思えない。まさに一触即発。その状況で。


「――応じよ。ジゴ=レイズ!」


 玉姫は、魔法の呪文を唱えた。


 発生したのは極太の稲妻。強烈な閃光がまず目を灼き、一瞬遅れて爆音が鼓膜を揺さぶる。


 落下地点はディノニクスの30メートル前方。サンショウウオに直撃したわけではなかった。しかし、爆音と閃光は恫喝には十分だったのか、サンショウウオたちはビクリと震え、畏怖するように身を隠した。


「驚かせただけだ! 長くはもたないかもしれない! 今のうちに早く逃げてくれ!」


 言われるまでもなく玲は動いていた。最大速度で上昇、縦穴まで一直線に戻る。


「つーかなんだよ今のは!?」

「玉姫の魔法だ!」

「なんでもありだなオイ!」


 叫び合うように言葉を交わしながら、玲と玉姫は縦穴を抜け、サンショウウオの住み家から離脱した。


 三叉路まで戻ったところで、玉姫は脱力し、玲に体重を預けた。


「……ふぅ……危機一髪だったな……」

「油断も隙も無いっつーのはこういうことだな」


 さすが禁断領域。現地人の優秀なガイドをつけても危険に溢れている。


「でも、なんでだろ……」玲の胸を背もたれのように使いながら、玉姫は不可解そうに眉をひそめる。「玉姫が最後に完全浄水を採取したのは三日前だ。そのときにはいっぱいあった。こんなすぐに枯れるわけがない。誰かが盗んだのか……?」


 玲には、心当たりが一人いた。


「……クソ厄介だな」


 アルゴメイサの麻薬女王、ジャスミン・クローバー。最大の仇敵である己を無視してまで彼女が求めたものは、おそらくこれだったのだろう。

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