「玉姫は玉姫だ!」

 ジハーディストの花嫁。


 誘拐や人身売買などでイスラム系過激派組織へと連れてこられ、その構成員と強制的に結婚させられた女性の総称。二十三世紀の地球では、あくびが出るほどにありふれた悲劇の一つだ。


 彼女たちは、大抵何もかもを諦めきった目をしているか、敵意にささくれ立った荒んだ目をしている。


 ――だからこそ、その理知的で負の感情を感じさせない目は、印象的だった。


『君、年はいくつ?』


 夜。とあるイスラム系過激派組織の野営地。雇い主の命令に従い、アサルトライフルを抱えて歩哨を行っていた玲に、彼女は明るい声で尋ねた。イスラム教では男女の接触にかなりの制限があるはずだが――この組織はイスラム過激派とは名ばかりの犯罪組織であるので、その辺りが割とゆるいのかもしれない。


『もう、無視しないでってば』


 無視する玲に、少女は食い下がる。いつ敵対勢力が襲撃してくるかもわからないというのに、怖がっている様子はない。もう慣れっこなのだろうか。


『もしかして寝てるの? あの人に報告しちゃおっかな?』


 いい加減鬱陶しさが限界に達してきた。いつもの玲なら殺しているところだが、さすがに雇い主の妻を殺すわけにもいかないので、ぶっきらぼうに答える。


『十』

『十歳! 私より三つも年下なの!?』


 驚いた反応。もう飽き飽きだ。


「第六次インドシナ動乱で頭角を現した新鋭気鋭の傭兵が、まさかこんな子供だなんて』


 少女は玲のつま先から頭頂までじろじろと眺めた。それが、ひどく煩わしかったのを覚えている。この頃の玲は他人との接触に何の意味も見いだせていなかった。


『……お前も子供だろうが』

『歳だけはね。でも、もうすぐお母さんなんだよ』


 少女は、いとおしそうに腹をさすった。

 ……二十三世紀の東南アジアで、少女の妊婦は決して珍しくない。蔓延する暴力と死は、人々のモラルを低下させ続けている。

 しかしそれでも。強制的に結婚させられた上に望まぬ妊娠をするなど、五歳で少年兵となった玲の目から見てもそれなりには過酷な運命だ。


『実感ないけどね。でも、育てるからには優しい子に育ってほしいな』


 しかし少女は、一点の曇りもなく笑ってみせた。


『ねぇ君、お名前は?』

『黒峰玲』


 玲は不機嫌さを隠しもせず、短く答えた。

 他人など、どうせ塵芥。利害関係を持たないのなら交流に価値などない。だからこの時間がただただ厭わしかった。早く解放されたかった。


『……お前は?』


 ――だから、あの時彼女に名前を聞いた理由を、玲は未だに見つけられない。


『私? 私はミロスラヴァ。ミロスラヴァ・アグーチナだよ』


 ………………。




 ひどく、懐かしい夢を見ていた気がした。今となっては手が届かないほどに遠い、過去の夢。


「ぐ……」


 口からもれた苦悶は、胸を掻き毟りたくなるような切なさゆえなのだろうか。覚醒したばかりの脳では、上手く判別がつかなかった。


 するすると夢のことを忘却していき、徐々に現実へ適合していく意識。まず感じたのは、身を包み込む毛皮の繊細な柔らかさ。赤子の肌のようにしっとりとした肌触りと、磨かれた硝子のような滑らかさが両立された銀色の毛は、贅沢に空気を含んでおだやかに膨らんでいた。


「あ、起きた!」


 元気の良い、少女の声が耳朶を叩く。開き切っていない眼だけを動かし、粗末な掘っ建て小屋の中、声の元を探す。玲の隣に、意識を失う前に遭遇した少女が、スープの入った木のコップを持って座っていた。……よく見てみれば、自分が寝ているこの毛皮は、彼女の臀部の辺りと繋がっている。尻尾、らしかった。


「ずっと寝っぱなしだったからな! もう起きないかと思ったぞ!」


 少女はとても嬉しそうに微笑む。天真爛漫という言葉がよく似合う笑顔だった。


「こ、こは……」

「玉姫の家だ! 危ないのは近くに居ないから安心していいぞ!」


 半ばうわ言のように尋ねると、自分のことを玉姫と呼ぶ少女は、励ますようにそう言った。


「ぐ……」


 硬い体をへし曲げるように起こすと、玉姫があわてた様子を見せる。


「無理はだめだぞ! 傷は塞がってるけどまだ安静にしないと!」


 そういえば、確実に死ぬほどの傷を負ったのだった……と、少しぼんやりとしていた玲はようやく思い出した。着替えさせてくれていたらしい無地のシャツをまくって脇腹を確認してみる。そこにあったのは、大きな傷。つい先ほど貫かれたとは考えられない、完治しきった痕だった。


 強烈な疲労に似ただるさはあり、喋ることさえ億劫だが、それ以外特に問題は見られない。


「傷痕も消せたらよかったんだけど、玉姫の力じゃ無理だった。ごめんな」

「いや……」


 なんとか一言だけ絞り出す。どうやって治したのだとか、あの怪物は何なのだとか、そもそもあの遺跡はなぜ現れたのだとか、聞きたいことは山の如しだったが、聞く余裕はなかった。


「傷の治療に生命力を使わせてもらったから、疲れてるだろう。これでも飲みながらゆっくり休んでくれ」


 玲の手元に、木のカップに入ったゆらりと湯気を立てるスープが差し出される。自分で飲むために持ってきたスープをくれるらしい。

 ありがたくスープを受け取り、口をつける。温かみと塩味が体に染みた。


「美味しいか?」

「……ああ」

「ならよかった!」


 ひまわりのように笑う少女だった。




 数分後、飲み終えたコップを玉姫が回収したところで、ようやくだるさが収まり始め、話をできるくらいにはなってきた。玲は立ち上がり、玉姫の尻尾から降りる。すると玉姫の尻尾がしゅるんと縮まった。大きさは可変らしい。


「色々と聞きたいことはあるが……まずは礼を言わせてくれ。助かった。ありがとうな」


 玲は跪き、深く、頭を下げた。


 基本的に、玲は他人をゴミか虫程度にしか思っていない。蚊に殺虫剤を吹きかけるような気楽さで町に毒ガスを散布し、晴れた日に洗濯物を干すような感覚で女子供を木に吊す。良心は持たず、倫理や道徳もわきまえず、全くの平常心で人を破滅させる。


 しかし例外もある。一つはダイナソアの身内。そしてもう一つが、利害の絡まない純粋な厚意を向けてくる相手。玲は悪漢だが恩知らずではないのだった。


「どういたしまして!」


 玉姫ははにかんで笑った。


「こんなものしか渡せねぇで申し訳ねぇが、受け取ってくれ」


 玲はおもむろに腕時計を外して、玉姫の手に乗せる。

 それは、フィールハイトいわく六千万円くらいする高級時計。殺した敵から剥ぎ取ったものをいざというときの換金用につけていただけなので、詳しいことは分からない。


「いらない、いらないぞ! 別に物が欲しくて助けたわけじゃない!」

「いや、しかしだな」

「ホントにいいんだ! お礼の品なんて貰ったら、なんだかそわそわしてしまう!」


 主の感情を表すように、玉姫の尻尾もそわそわと動いていた。


「わかったよ。じゃあ、また別の形でな」


 よく考えてみれば、略奪品をプレゼントしても誠意など示せない。そんなことに今更気づく玲だった。


「あ、自己紹介がまだだったな! 玉姫は玉姫だ!」


 玉姫は名乗った。……まぁ、それはそうだろう。


「黒峰玲だ」

「れーくんだな! 覚えたぞ!」


 雑多に物が置かれた大きな座卓を挟み、玲と玉姫は向かい合って座った。


「そういえば、れーくんはここの外で大きな声を出してたけど、玉姫に何か用があったのか?」

「ああ。本当はあの場所で話を聞くつもりだったんだが……邪魔が入った」

「あの青色のロボットか?」

「見てたのか」

「速過ぎて、途中で降り切られたけどな!」


 嘘を言っている様子はない。どうやら本当に、音速を遥かに超えて殺し合っていたクルセイドに途中までついて来ていたらしい。信じがたいが、まぁそれくらい起こるだろうという諦観もあった。


「それでそれで? れーくんは玉姫に何の話を聞きに来たんだ?」


 玉姫に本題を促され、玲は簡潔に、工業地帯への遺跡の出現とそれに伴う怪物の出現から今に至るまでの経緯を説明する。ベティ殺害のくだりは意図的に省いた。

 一通り聞いて、玉姫は顔を曇らせた。


「なるほど……そんなことがあったのか」


 玉姫は腕を組み、うんうんと唸って、そしてぺこりと頭を下げた。


「ごめんな。玉姫には多分、何のアドバイスもできない」

「どういうことだ?」

「実は玉姫、一か月以上前の記憶が無くてな。身の回りのこと以外はあんまりわからないんだ。正直この土地が何なのかもよく分かってないしな……」

「は? じゃあお前、自分のことすらよく分かってねぇ状況で、他人を助けるために色々やってたのかよ」


 なんというお人よし。長生きできないタイプにもほどがある。


「普通の人間にとってここは、入ればまず生きて帰れない、禁断の領域だ。玉姫が番をしないと、人が死んでしまう」


 なんとも優しい少女だが、玲が喰いついたのはそこではなかった。


「……禁断領域……それいいな、そう呼ぶか」


 この地について、なにか固有名詞を考えなければならないと思っていたので、渡りに船だ。


「…………しっかしどうすっかな……禁断領域については、しばらくはまた対症療法か……? 後手後手に回るのは正直しんどいんだが……」


 禁断領域という呼称を早速使いながら、玲はぶつぶつと呟きながら思考を纏める。

 相手の準備が整う前に先手を打ち、本領を発揮させないまま叩き潰すのが、玲の得意とする戦い方。起こった出来事へ対処するのはフィールハイトの方が得意なのである。


「ごめんな」

「いや別にお前のせいじゃねぇよ。気にすんな」


 どうやら気にしてしまった風な玉姫をフォローし、玲は腕を組む。


「……まぁ、どうにもならねぇわけでもない、か」


 十中八九。ジャスミンはドイ・インタノンから生還できないだろう。ダイナソアはあんな死にかけを逃がすほど間抜けな組織ではない。


 ジャスミンを首尾よく始末できればアルゴメイサで厄介なのは機動城塞だけ。それも三日あれば墜とせる程度の脅威でしかない。そして、アルゴメイサさえ潰せれば、ダイナソアは禁断領域への対処に注力できる。ダイナソアの持つリソースを禁断領域対策に全て回せるのなら、また状況も変わってくるだろう。


「あ、れーくん。スープ、もう一杯飲む?」


 すっかり考え込んでいた玲に、玉姫が尋ねた。


「いや、遠慮しとく」

「そうか。じゃあ玉姫の分だけでいいな」


 玉姫は立ち上がって台所的スペースに移動すると、金属の椀に入ったアメジストの原石らしきものを、ひしゃくでこんこんと叩く。

すると、透明感のある黄金色のスープが、湯気を立てながら溢れ出した。


「……はぁ!? なんだよそりゃ!?」


 度肝を抜かれた玲が目を見開いて訊くと、玉姫はスープをコップに移し替えながら、何でもないことのように答える。


「これか? これは、一番最初に浸した液体を記憶して、叩くと体積の十倍の量を一日に一回だけ出してくれるアメジストだ。【液体記憶アメジスト】って玉姫は勝手に呼んでる。これはスープ用で、これはぶどうジュース用で、これはオレンジジュース用、こっちは桃ジュース用だ! 他にもたくさんあるぞ!」


 一列に並んでいる椀に入ったアメジストを、こん、こん、こん、とそれぞれ叩くと、対応したジュースが溢れ出す。


「…………すげぇな」


 もはやそれしか言えない。


「そんなに珍しいものでもないぞ。あちこちに落ちてるし」

「マジかよ」


 玲はしみじみとそのアメジストを眺めた。

 ……今まで遭遇してきた異常は、いずれもダイナソアにとっての脅威だった。だから玲はそれらに対して畏怖や嫌悪しか覚えていなかったが……フラットな状態で見るとやはり興味や驚きが勝つものだ。


「玉姫が持ってるアイテムで、一番珍しいのはこれだな。【完全浄水】!」


 玉姫がスープを飲みながら粗末なタンスの上に手を伸ばし、何もない空間で小さなものをつまむ動作を見せた。


 手を出すように促されたので、右手を差し出す。玉姫はスープを飲み終えたコップをテーブルに置き、やはり何もない空間でキャップをひねるような動きをしてから、慎重に、小さな手を傾ける。

 冷たい水がかかったような感触の後、玲の右ひじから先が見えなくなった。


「【完全浄水】は、接触した物体を触覚以外で認識できなくする液体だ。全身にかぶったら透明人間になれるぞ!」


 玲は両手を強く打ち合わせてみたが、音すら聞こえない。物を持ち上げれば間接的に場所は分かるが……直接的に確認するには、やはり触覚に頼るしかなさそうだ。


「すげぇ。……すげぇが……これ戻るのか?」


「心配しなくても、乾いて三十分もすれば自動的に戻るぞ!」


「少し焦ったぜ……一生このままはさすがにやべぇからな」


 ほっと息を吐く。見えない腕は、戦闘には便利かもしれないが、それ以上に日常生活が不便だろう。


「なぁ玉姫。こういう不思議アイテムは、禁断領域にはたくさんあるのか?」


 玉姫は首肯。


「うん。完全浄水みたいに強い力を持ったものは少ないけどな。ちなみに玉姫は、こんな不思議な力のことを【特異性】って呼んでる。特異性を持った道具は【特異物】だ!」


 それらの概念は便利そうだったので、玲も使うことにする。


「しかし……これは、下手しなくても世界を変えるな……」


 ブラック・スワン理論。


 1967年。黒い白鳥の発見により旧来の常識が覆されたように、事前に予想できないことほど、起こった時の衝撃は大きく、対応も難しい。人類にとって、禁断領域と特異性はとびきりの黒い白鳥。誰も、対策どころか思考実験さえしていないだろう。


 禁断領域について、脅威を遠ざけることしか頭になかった玲だが、ここに来て考えを改めた。上手く利用できれば、その価値は計り知れない。


 例えば液体記憶アメジスト。スープやジュースを生成するだけならただの面白お役立ちアイテムだが、融けたプラチナの生成も可能なら評価は一変する。元々稀少である上にエーテルジェネレーターの燃料でもあるプラチナの価値は、列強による買い占めが行われたこともあって1gあたりおよそ2000億円となっている。可採埋蔵量がゼロに限りなく近く、軍事的に重要であるプラチナは、今の地球で最も価値がある物質と呼んでも過言ではない。そんなプラチナを安定生産できるようになれば……ダイナソアの願いにも、手が届く。


「玉姫的には、れーくんが乗ってきたでっかいロボットとかの方がすごいと思うんだけどなぁ」


 しかしこれらの特異物と身近に接してきた玉姫からすれば、玲たちが持つ文明の方が優れているように見えるようだ。


「びっくりして転げ落ちたもんな」

「あんなのがいたら誰だってびっくりするぞ!」


 玉姫は狐耳を立てて反論した。


「一応、玉姫の人間の道具の知識はなんでか玉姫にもあるんだけどな。その知識とれーくんの乗ってたアレはなかった。前にベティって人が見せてくれた携帯電話みたいなのも知らなかったし……」


 どうやら玉姫の知識と地上の科学には、色々と齟齬があるらしい。


「なぁなぁれーくん。折角だから、外のことをいろいろ教えてくれないか?」

 尻尾をふりふりとし、好奇心に目を輝かせ、玉姫は身を乗り出した。

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