第99話 邪精霊の異変

日が落ちて薄暗くなった路地の一角が不自然に明るくなっている。

地面に燃え広がった炎の中、クロードがフィーベルトと邪精霊へと向かって進む。

そんな彼のコートの影からアジールが顔だけを覗かせる。


「クロード。まさかと思うけど素手でやり合うつもりかい?」

「だとしたら何か問題があるか」

「問題って訳じゃないけど、あまり時間はないよ」


戦闘が始まってすぐ近くを歩いていた者はその場から遠ざけ、建物の中にいた者は魔法で眠らせるか当身で気絶させた。

これでしばらくの間は誰にも見られる事はない筈だが油断はできない。

先程から派手に戦っているせいで大きな破壊音が何度も上がっている。

騒ぎを聞きつけて人が集まってくるのも時間の問題だろう。


魔銃リンドヴルムを使ってすぐに片付ければいいのに」

「お前の言いたい事も分かる。だが・・・」


仮初の肉体と言えど精霊の肉体は素体ベースとなった生物の能力の大体5~10倍のスペックを持っているとされており、そこら辺のチンピラを相手にするのとは訳が違う。

しかも魔力の塊である精霊相手に通常の打撃や斬撃では大してダメージを与える事が出来ない。

なので本来、精霊と戦うには魔法か魔道の力を帯びた武器が必要になる。

それだけでなく相手の精霊の格が高い程、それに見合った高威力の術や道具でなければ対抗できない。

だが、クロードの魔銃リンドヴルムだけはそれを無視して攻撃する事が出来る。

着弾箇所の魔力を問答無用で破壊する力を持つ魔銃リンドヴルムは魔力の塊である精霊に対して絶大な威力を誇る。

核にでも直撃させようものならそれだけで上位精霊さえ一撃で殺す事が可能だ。

今回、敵に対してこれだけ有利な力を持っているにも関わらずクロードはその力を使うつもりはない。


「親父に生きて連れてこいと言われているからな。極力余計な物は見せたくない」

「ふ~ん、別にいいけど怪我しても知らないよ」

「その辺りはうまくやる」


クロードの返事を聞いてアジールがコートの中に頭を引っ込める。

相棒からの忠告を聞いた所でクロードは改めて前を向く。

その刹那、拳を構えた邪精霊がクロードに対して仕掛ける。


「ガァルゥアアアアアアアアアアアッ!」


咆哮を上げた邪精霊は渾身の踏み込みで石畳を踏み砕き前へと飛び出す。

それは戦術や戦略といったものなどまるでない。

獲物を前にした野生の肉食獣の様な本能に任せたただの突進。

だが、そのスピードは獣などとは到底比べ物にならない程に速い。

クロードとの間にあった20m程の間合いが一瞬で詰まる。


「ウガァアアッ!」


クロードの目前に迫った邪精霊は容赦なくその右拳を相手の顔目掛けて打ち込む。

驚異的なスピードに加え、そのスピードに乗せて繰り出されるのは人の膂力など遥かに超えた力によって振るわれる拳。

常人がまともに受けようものならばまず無事では済まない。

それ程の一撃を前にクロードは何の防御策も取らず、左斜め後方に上体を逸らして拳の軌道ギリギリの所で回避する。

拳が目の前を通過した後、一瞬遅れで風が音を立てて背後へと抜けていく。


(速く鋭く威力も高いな、だが攻撃が馬鹿正直すぎて狙いが丸見えだ)


頭の中で今の攻撃に対する評価をしている間に邪精霊が突き出した拳を引く。

その動きに合わせて上体を起こした所へ、今度は左拳が横薙ぎに振るわれる。

軌道上の全てを巻き込み刈り取る様なその一撃にクロードは素早く反応し、相手の腕の動きにタイミングを合わせて右肘を当て、向かってきた腕を跳ね上げる。


「ガッ!」


まさか人間相手に自分の攻撃を弾かれると思っていなかったのか、邪精霊が驚きに目を見開く。

その眼前でクロードは僅かに眉を顰めながらゆっくりと自身の拳を引く。


「中々重たい一撃だ。こちらも少し本気で行くぞ」


クロードはそう言うと相手の懐へと踏み込み、ガラ空きになった相手の腹部目掛けて真下から左拳を突き上げる。


「ゲァッ!!!」


ボディブローが邪精霊の腹部に深く突き刺さり、その体を僅かに宙に浮かせる。

無防備な状態で浮かび上がった邪精霊の前でクロードが右拳を引く。


「安心するのはまだ早いぞ」


直後、クロードが放った追撃の右ストレートが邪精霊の体を穿つ。

咄嗟に邪精霊は両腕をクロスさせてその一撃をガードする。

ズンッという全身を揺さぶる様な重たい衝撃を受けて邪精霊の体が大きく後ろへ下がる。


「グガッ!?」


まさか人間相手に肉弾戦で圧倒されると思っていなかった邪精霊は地面に膝をつく。

魔法による攻撃は受けていないはずなのに想像以上にダメージが大きい。

そんな状態の邪精霊に向かってクロードは容赦なく追い討ちをかける。


「もう一発だ」


渾身の左ストレートが相手の顔面に繰り出される。

しかしその瞬間、クロードが左手に感じたのは妙な手応え。

まるで豆腐の様な柔らかい何かに手首から先が埋没する様な感触に怪訝な顔をする。


(なんだこれは)


邪精霊を打ったはずの自身の拳は相手に届かず中空に留まっている。

相手の方をよく見れば邪精霊とクロードの間を隔てる様に薄い空気の層が形成されており、その影響からか向こう側の景色が僅かに歪んで見える。


(見えない壁。これは大気操作系の精霊魔法か)


自分の攻撃を阻止した魔法を推察しつつクロードは素早く拳を引いて距離を取る。

その間に邪精霊は体制を立て直して再び立ち上がる。

地面を踏みしめた後、ゆっくりと顔を上げた邪精霊の目には先程まではなかったクロードに対する強い警戒の色が見て取れる。

邪精霊は邪霊だった頃と違いある程度思考する力を持っている。

考える力があるなら当然、痛い目を見れば次は同じ轍を踏まぬ様に学習だってする。


「フシュッ!」


牙を剥き出しにし、荒い息を一つ吐いた邪精霊の目が怪しく光る。

次の瞬間、邪精霊が足元の石畳を数枚引き剥がしてクロードに向かって投げつける。

手裏剣の様に横回転しつつ飛来する石畳を前に、クロードは左右の拳を交互に繰り出して事もなげに粉砕する。


「こんな攻撃が通じると・・・」


視界を覆った石畳が消えた直後、邪精霊の姿もまたクロードの視界から消えていた。


(さっきの攻撃は目眩しという訳か)


石畳での攻撃を囮にし、そちらに意識が向いている隙に移動。

ならば次に相手が選択する行動は何か。

頭の中ですぐに答えを導き出したクロードは背後を振り返る。

そこにはクロードに向かって殴りかかろうとする邪精霊の姿。


「所詮は獣同然の思考レベル。動きが単調」


独り言を呟くと振り向きざまに繰り出した拳で相手の拳を打ち返す。

互いの拳が真正面からぶつかりあった衝撃で大気が大きく震え、勢いを殺しきれなかった両者の体が後ろへと弾かれる。


「どうした。こんなものか?もっと本気で来い」

「ガァアアッ!」


クロードの挑発の言葉に邪精霊は牙を剥いて再び襲い掛かる。

そうして至近距離で再度ぶつかり合う両者の様子を少し離れた物陰から見ていたルティアは思わず感嘆の声を上げる。


「見てくださいアイラさん。クロードさんあの邪精霊相手に全然負けてません」

「当然です。旦那様があの程度の相手に負けたりしません」


何も驚く様な事等ないといった様子のアイラにルティアは苦笑を浮かべつつ再びクロード達の方へと視線を戻す。


「これならアルカイン卿とあの邪精霊を殺さずに捕らえる事も・・・」


生きて捕らえる事が出来れば絶望の淵にいるかつての恩人を救える可能性もある。

今の自分には残念ながら彼の現状をどうにかする力も知識もないが、師匠である大魔術師ブルーノであれば彼の身に宿る邪精霊をどうにかする事も出来るかもしれない。

そんな微かな希望がルティアの中に芽生える。

その隣でルティアと一緒に戦闘を眺めていたアイラは、現在の戦況に対してとある違和感を感じていた。


「・・・妙ですね」

「アイラさん?」

「旦那様が優勢なのは当然なのですが、今の状況で一つ解せない事があります」

「どういう事ですか」


ルティアの問いにアイラは自身が感じた違和感について口にする。


「あの邪精霊、グレイギンとの戦闘時は魔法を連発していた様なのですが、旦那様との戦闘になってからほとんど魔法を使っていないのです」

「そういえば・・・」


確かに言われてみればアイラの言う通りだ。

相手の邪精霊は先程から防御に一度だけ魔法を使った以外でその他には一切使っていない。


「何かを狙っているのでしょうか?」

「その可能性はありますが・・・」


ただなんとなくだがアイラは他に理由がある様な気がした。


「この事、クロードさんに伝えた方が!」

「その必要ありません。旦那様も当然気付いています」


いや、むしろ直接戦っているクロードの方が自分達が気付いてない部分まで理解している可能性もある。

余計な口出しは帰って彼の邪魔になるかもしれない。


「私達は黙って結末を見届けましょう」

「・・・はい。分かりました」


アイラに言われてルティアは小さく頷きつつも、やはり気になって物陰からこっそりとフィーベルトの様子を窺う。

視線の先のフィーベルトはというと壁に寄りかかったまま目の前の戦いを眺めている。

その表情は微かな喜びと憂いを帯びている様に見えた。


「第七区画最強と呼ばれる人物がどれ程かと思ってましたが、期待以上ですね」


今までの相手であれば最初の一撃までは耐えられてもニ撃目で終わっていた。

しかしクロードはニ撃目も耐えるどころか無手で邪精霊と互角以上に渡り合っている。


「これほどの相手であれば・・・・」


フィーベルトは何かを期待する様な視線をクロードへと向ける。

その時だった。遠くの方から複数の笛の音が響く。


「この音は?」

「チッ、憲兵隊か。思ったよりも早いな」


どうやら騒動を聞きつけた憲兵隊がこちらに向かってきている様だ。


(このままだと面倒な事になるな)


駆けつけてきた憲兵隊が邪精霊と出くわせば、邪精霊はフィーベルトを守るべく憲兵隊と戦闘を開始するだろう。

そうなれば憲兵隊から間違いなく犠牲者が出るのは必至。

その様な事態を避けるには今すぐ目の前の邪精霊を片付けるしかないのだが・・・。


「仕切り直すか」


ポツリとそう呟いたクロードは邪精霊が放った回し蹴りを姿勢を低くして躱した後、続けて繰り出された膝蹴りを右腕で受けてカウンターに左の掌底を相手の腹部に叩きこむ。


「アッグゥアッ!」


呻き声を上げた邪精霊は後方の壁面へと叩きつけられる吹き飛ばされた邪精霊はフィーベルトの目の前に着地する。

すぐさま顔を上げて突進しようとする邪精霊に向かってクロードは人差し指を突き付ける。


「このままここでやりあっていると間もなく邪魔が入る。俺としてもそんな中途半端な結末は望む所ではないから日を改めるぞ」


邪精霊に向かってそう宣言するクロードに向かってフィーベルトは苦笑を浮かべる。


「無駄ですよ。今の彼女に言葉など通じはしない」

「果たしてそうかな?」


クロードの言葉を受けた邪精霊は低い唸り声を上げゆっくりと拳を下ろす。


「・・・・そんな馬鹿な」


今までフィーベルトの制御を離れた邪精霊が迄攻撃を止めた事等一度もなかった。

その衝動が収まるとしたら相手が死んだ時だけ。

にも関わらず目の前の男は数度拳を交えただけで邪精霊に言う事を聞かせた。

驚きのあまり呆然とするフィーベルトにそんな事情を知りもしないクロードは皮肉の言葉を口にする。


「どうやらそっちの邪精霊はお前が思っているより物分かりが良さそうだな」


クロードは不敵に笑うとポケットから取り出したシガーケースからタバコを一本取り出す。


「ここから南東に以前金属加工をやっていた工場の跡地がある。明日の正午そこで待っているから戦う気があるなら来るがいい」


タバコを口に咥え、一息吸ったクロードは思い出したように付け加える。


「念の為に言っておくが余計な事は考えるなよ。明日の定刻までの間にこの街の人間に危害を加えようものなら俺の方からお前達を潰しに行くからな」


既にこの場で一度会った以上、この第七区画にいる限りいつでも補足可能となった。

最早この街から出る以外にこの男に逃げ場などない。


「分かったなら行け」

「・・・・・」


クロードの言葉に邪精霊は何も答えず茫然とするフィーベルトの方へと移動すると、壁に寄りかかる彼を抱えて上空へと飛び去る。

その姿をタバコを咥えたまま見送るクロードにアジールが影の中から囁く。


「良かったのかい逃がしてしまって?」

「ああ、問題ないだろう」


彼等は再び自分の前に現れるとクロードは確信している。

それに先程の様子なら暴走して無関係な者を襲う心配もないだろう。


「ヤツの居所はいつでも掴めるようになった事だし、今日はこのままアイラ達を送って一度家に帰るとするか」


クロードは宙空に向かってタバコの煙を吐き出すと踵を返してアイラ達のいる方へと向かうのだった。

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