第十二幕


 第十二幕



 白んだばかりの空に昇った太陽は未だ角度が浅く、霞の様に薄い雲が天を覆うかの如く広がっている。そしてそんな朝靄に霞む空の下、都内某所に建てられたコンクリート造り六階建ての警察署は未だ朝の静寂に包まれており、そろそろ夜勤の署員達も帰宅の徒に就く頃に違いない。

 現在の時刻は、午前六時を少し回った頃。警察署の前を走る市道も未だ交通量は少なく、車道沿いに立てられた電柱から伸びる電線の上では、何羽もの雀達がちゅんちゅんと呑気に鳴いていた。そして朝日に照らされた警察署の正面玄関の自動ドアがモーターの駆動音と共に開くと、珍妙な恰好をした二つの人影が戸外へとその身を晒す。その人影の一つは『くまのプーさん』もどきの着ぐるみパジャマにその身を包み、もう一つの人影は首から下は普通の女子高生らしいブラウスとカーディガンとミニスカートに身を包みながらも、首から上はヘルメットとガスマスクによって隙間無く覆われていた。つまりその二つの人影とは、健蔵と美綺の桑島兄妹に他ならない。

「ふわああああぁぁぁぁ……」

 警察署から戸外へと足を踏み出した健蔵が大口を開けながら盛大なあくびを漏らし、眠たそうに眼を擦る。

「ふう、長かった事情聴取も、これでやっと終わりか。結局おっさんが言っていた通り、朝までかかっちまったよ。ファック」

 健蔵達が諏訪と始末屋に殺されかけてから既に半日が経過し、日付は翌日となっていた。そしてどうやら桑島兄妹の二人は、たった今しがた事情聴取を終え、警察から解放されたところらしい。

「そうだねえ、長かったねえ、健兄ちゃん。でも事情聴取は未だこれで終わりじゃなくって、今後も何度か警察署に来なきゃならないって、お巡りさんも言ってたよ? とりあえず今日はこれで帰れるけれどね」

「我が妹よ、それを思い出させるな。ニート一歩手前の兄ちゃんは只でさえ昼日中ひるひなかに出歩くのは苦手な上に、よりにもよって大嫌いな警察に足を運ばなきゃならないなんて、これは拷問にも等しい責め苦なのだぞ。……あーあ、今日はもうとっととアパートに帰って、思う存分タバコを吸ってからもう一眠りするとするか」

「それじゃあ、アパートまで送って行ってあげるよ。駐車場からバイクを取って来るから、健兄ちゃんはここでちょっと待っててね」

 そう言い残すと、妹の美綺は警察署の裏手の駐車場の方角へとその姿を消す。するとそんな殊勝な妹に向かって兄の健蔵は「へいへい」と生返事を返すばかりで、兄想いの妹に対して特に感謝しているような素振りは無く、再び大口を開けてあくびを漏らすばかりだ。

「ふわああああぁぁぁぁ……。あー、ファックだ、ファック」

 ちなみに今現在の健蔵の背後に建っている警察署は始末屋によって炎上させられたそれではなく、また別の警察署である。


   ●


 朝の住宅街を走る一台のバイクが、まるで戦車でも突っ込んだかのように跡形も無く壊れ果て、もはや瓦礫の山と化したコインランドリーの店舗の前を通過した。バイクを運転するのはミニスカートから覗く生脚の太腿も眩しい、ガスマスクを装着した女子高生。彼女の背後のタンデムシートに座るのは、着ぐるみパジャマに身を包んだみすぼらしい成人男子。彼ら桑島兄妹が二人乗りする大型自動二輪車YZF-R1は、下町の住宅街を縫うように走る道幅の狭い市道をゆっくりとした徐行運転でもって、行き交う歩行者と接触しないように細心の注意を払いながら走り続ける。

 やがて二人が乗ったバイクは一棟の古ぼけた木造アパートの前に辿り着くと、ドッドッドッドッと言う四ストローク並列四気筒エンジンから重低音を発しながら減速し、美綺がイグニッションキーを引き抜くと同時にキュッと音を立てて停車した。長時間の走行によって過熱したエンジンとマフラーから、チリチリと言った鉄が焼ける音と匂いが発される。

「よっしゃ、運転ご苦労だったな、我が妹よ」

 ここまで送ってくれた妹の美綺を労った健蔵は、バイクのタンデムシートから「よっ」と言いながら地面に降り立つと、彼の住処である築四十年の木造アパートの一室へと足を向けた。するとサイドスタンドを立てて愛車YZF-R1をアパートの敷地の端に駐輪し終えた美綺もまた、実の兄の後を追って歩き始める。

「健兄ちゃん、ちょっと疲れちゃったから、帰る前に休憩させてもらってもいいでしょ?」

「おお、勿論だ、我が妹よ。茶でも飲んで行くがいい。……まあ、我が家にはペットボトルの茶しか無いがな」

 どうやら美綺は自宅へと帰る前に、健蔵の部屋で小休止するつもりらしい。

「ただいま、我が城よ。……って、ひでえな、おい」

 約十八時間ぶりに懐かしの我が家へと帰宅した健蔵が、その我が家の惨状を嘆きながら、溜息混じりにそう言った。ボロアパートの彼の部屋は、昨日の午後二時過ぎに始末屋の襲撃を受けた健蔵が遁走した時のまま放置されており、始末屋に蹴破られて廃材と化した玄関ドアも壁際に転がったままである。

「これやっぱり、俺が弁償しなきゃならねえのかなあ? 警察とか役所とか、金出してくんねえの? 俺は被害者なのに?」

 安っぽくて薄っぺらい合板製の、今は真っ二つになった玄関ドア。その玄関ドアを踏み越えながら愚痴を漏らした健蔵は、履いていたサンダルを脱ぐと、上がり框を越えて自室である六畳間へと足を踏み入れた。ちなみに彼が自室から遁走する際には裸足だったので、このサンダルは警察で借りた官給品である。

「おお、スジャータ! 我が愛猫よ!」

 自室に足を踏み入れた健蔵は、部屋の隅に置かれた犬猫用のキャリーバッグの中ですやすやと眠る猫のスジャータの姿を確認すると、大仰に手を広げて再会の喜びを表現してみせた。しかし当のスジャータはと言えば、面倒臭そうに片眼を開けてちらりと健蔵を一瞥しただけで、特に何の感慨も沸かないらしい。

「おいおいスジャータ、随分と冷たいなあ。お互いこうして、生きて再び巡り会えた事をもっと喜び合おうじゃないか!」

 やはり大仰な口調でもってそう言いながら部屋を縦断した健蔵は、キャリーバッグの中で眠る猫のスジャータを強引に抱きかかえると、無精髭の浮いた頬を無理矢理擦り付けて愛猫を愛でる。しかし頬擦りされているスジャータは当然の様に、やはり何の感慨も沸かなげな仏頂面のまま、飼い主である筈の健蔵を可能な限り無視しようと努めていた。

「やめなよ、健兄ちゃん。スジャータも嫌がってるじゃん。そもそも健兄ちゃんは昔っから動物には嫌われてばっかりなんだから、いい加減に猫を飼うのもやめて、スジャータも実家に預ければいいのに。ちょうどお母ちゃんが、小型犬か猫を飼いたいって言ってたからさ。いい機会だよ」

「なんと酷い事を言うか、我が妹よ! 俺とスジャータはこんなにもラブラブで相思相愛だと言うのに、そんな二人の仲を引き裂こうと言うのか、この鬼! 悪魔! 人でなし! ファック!」

 兄に続いて部屋に上がった美綺の忠告に腹を立てた健蔵は、実の妹を悪し様に罵ると、益々をもって強引に猫のスジャータを抱きかかえて頬擦りを繰り返す。すると突然、今の今まで我が身に降りかかる由無し事を全て無視していた猫のスジャータが、カッと眼を見開いた。そして自分を抱きかかえる健蔵と美綺の背後を凝視しながら全身の毛を逆立てると、牙を剥いて爪を立て、「シャーッ!」と威嚇の声を上げる。

「え? 何?」

 猫のスジャータが威嚇しながら凝視する先、つまり自分達二人のすぐ後ろに何者かの気配を感じ取り、ゆっくりと背後を振り返る健蔵と美綺。するといつの間に部屋に上がり込んだのか、彼らの背後には二mを越える長身の、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ浅黒い肌の大女が立っていた。勿論言うまでもなく、その大女の正体は始末屋である。どうやらやはり、タワーマンションの最上階からおよそ百m下の地上へと転落しても、彼女は無事だったらしい。

「ひいいいいぃぃぃぃっ!」

 突然の始末屋の登場に驚いた健蔵が恐慌の悲鳴を上げながら、文字通りその場でぴょんと飛び上がった。すると意気地の無い健蔵と始末屋の間に割って入った美綺は、見よう見真似の素人臭いファイティングポーズでもって身構えると、身を挺して実の兄を守ろうとする。そんな兄妹の姿は、まるで兄と妹の立場が逆転したかのようにも見えた。

 しかし身構えられた当の始末屋はと言えば、やはり淡々と仕事をこなす職人の様な無表情のまま、健蔵と美綺の脇を素通りして部屋の奥へと歩を進める。そして部屋の最奥の壁に突き刺さっていた手斧、つまり昨日彼女がこの部屋を襲撃した際に投擲したままになっていた手斧を壁から抜き取ると、それをトレンチコートの懐へと仕舞い直した。すると始末屋はくるりと踵を返し、改めて健蔵と美綺の二人と対峙する。

「な、なんだよこの野郎! やんのかコラ! やるってんなら、やってやんぞ! かかって来いやコラ! ファック!」

 眼前に立ちはだかったトレンチコートの大女に向かって、妹の美綺と同様に見よう見真似のファイティングポーズでもって身構えながら、精一杯の虚勢を張ってみせる健蔵。そんな健蔵を無表情のままジッと見据える始末屋の頬には大きな医療用の絆創膏が張られており、よく見ればマンションからの転落の際に負ったらしい擦過傷が額に刻まれ、やはり常人離れして頑丈な彼女も全くの無傷ではないようだ。そして始末屋は、着ているスーツの内ポケットに手を差し入れながら口を開く。

「安心しろ、桑島健蔵。お前はもうあたしの獲物ターゲットではないから、殺さない。しかし今回の依頼は、依頼主が死んでしまったので失敗だ」

 そう言った始末屋は、内ポケットからいかにも高級そうな革製の名刺入れを取り出した。

「何か依頼がありましたら、是非ともご用命ください」

 ぺこりと小さく頭を下げながら、名刺入れから抜き取った二枚の名刺を健蔵と美綺のそれぞれに差し出す始末屋。すると桑島兄妹の二人は少しばかり呆気に取られながらも、素直に「あ、はい」と言って、差し出された名刺を受け取る。その名刺には『破壊・殺害・回収承ります 始末屋 グリズリー後藤』と言う一文と共に、始末屋の連絡先と思しき電話番号とメールアドレスが記載されていた。果たして本名か偽名かは分からないが、どうやら『グリズリー後藤』と言うのが始末屋の名前らしい。

 そして名刺を渡し終えた始末屋ことグリズリー後藤は再び健蔵と美綺の脇を素通りすると、そのまますたすたとアパートから立ち去り、その姿を消す。ちなみにこの間、たとえ畳敷きの部屋の中であっても、彼女はずっと土足のままだった。

「……今時の殺し屋って、名刺とか配って営業活動してるんだな。これって普通の事なんだろうか、我が妹よ?」

「……さあ?」

 始末屋の名刺を持ったまま呆気に取られていた健蔵と美綺は互いの顔を見合わせながらそう言うと、やはりぽかんとした表情で立ち尽くす。勿論妹の美綺の表情は、ガスマスクに隠されていて確認する事は出来ないのだが。

「……とにかく、どうやら俺はもう、諏訪にも始末屋にも命を狙われる事はなくなったようだな。まあその、なんと言うか、とりあえず一安心だ」

 そう独り言ちた健蔵は部屋の奥の壁沿いに置かれた机に歩み寄り、その天板の上に置かれていたタバコの紙箱とマッチ箱を手に取る。タバコの銘柄は勿論、彼が愛飲している赤マルボロ。そして紙箱から取り出した紙巻タバコを一本口に咥えてからマッチを摺った健蔵は、タバコの先端に火を着けるとマッチの火を消し、まずはマッチの頭薬の原料である塩素酸カリウムが不完全燃焼する匂いを楽しむ事を忘れない。それから改めて紙巻タバコを咥え直すと、深く息を吸い込んで肺胞の奥底でタールとニコチンの風味を味わってから、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「くあー……たまんねえ……。やっぱり、タバコは至高の娯楽だね」

「最悪」

 約十八時間ぶりのタバコの味に恐悦至極この上無い表情の健蔵と、彼が吐き出すタバコの煙をパタパタと手で振り払って嫌悪感を露にする美綺。チリチリと焼ける一本のタバコに対する兄妹の反応は、極めて対照的である。

「そう言うなよ、我が妹よ。兄ちゃんはタバコと共に生き、そしてタバコと共に死ぬのだ。そう、タバコあってこその我が人生! タバコ無くして、我が人生無し! ノースモーキング・ノーライフ!」

 紫煙を吐き出しながら、健蔵は高らかに宣言した。着ぐるみパジャマに身を包んだ彼は今日もまたタバコを吸いながら閲覧者の少ない木っ端動画を投稿し、妹の美綺はガスマスクを装着したまま、ニート一歩手前の社会不適応者である兄の面倒を見る事に余念が無い。彼らの下らなくも波乱に富んだ愉快な人生は、これからも続くだろう。

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