第十一幕


 第十一幕



 都心の一等地に建てられたタワーマンションの外壁を、無駄にけばけばしくて挑発的な赤色灯パトランプの光が赤く染め上げている。既に夜も深いこの時分に、海老名警部補からの要請を受けて出動したパトカーと警察官の一団がマンションをぐるりと取り囲み、黄色いテープでもって規制線を張って人の出入りを制限していた。

 すると制服を着た一人の若い巡査がその規制線を越え、タワーマンションのエントランスへと足を踏み入れる。そして途中ですれ違った上司や同僚に軽く会釈をしながらエレベーターに乗り込んだ彼の手には、真新しい小さな紙袋が抱えられていた。やがてタワーマンションの最上階である三十六階でエレベーターを降りた巡査が辿り着いたのは、そのフロアの最奥に位置する、株式会社ファラエノプシスの社屋の社長室。その社長室とそれに続くウッドデッキには多くの警官や鑑識官等が忙しなく行き来し、がやがやと喧しい室内で各自の業務を粛々と遂行している。

「警部補殿、買ってまいりました」

「おう、ご苦労さん」

 社長室の壁際に置かれた革張りソファに歩み寄った巡査は敬礼と共に、抱えていた小さな紙袋を、そこに腰を下ろしていた海老名警部補に手渡した。すると警部補は受け取った紙袋の中から更に小さな紙箱を取り出し、それを対面のソファの上で膝を抱えたままガタガタと震えている、着ぐるみパジャマ姿の健蔵に向かって投げ渡す。

「ほらよ、健蔵。買って来てやったぞ」

「おおおおう、おおおおおっさん、サササササンキューな」

 紙箱を受け取った健蔵の声はどもるように震えており、その原因はニコチン中毒の禁断症状の痙攣によって、ガチガチと歯の根が合わないためだった。そして健蔵は受け取ったニコレットクールミントの紙箱を開けると、中から取り出した粒ガムを一粒口に放り込み、クチャクチャと咀嚼する。

「はあああぁぁぁ……」

 暫しの間を置いた後に、血色が良くなった顔に恍惚の表情を浮かべながら、安堵の溜息を漏らす健蔵。どうやらニコチンガムに含まれていたニコチン成分が口膣粘膜から体内へと吸収され、ニコチン中毒の禁断症状は緩和されたらしい。

「健兄ちゃん、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ、我が妹よ。出来ればタバコを思うさま吸いたいところだが、とりあえずこのニコチンガムさえあれば、なんとか明日までは耐えられそうだ」

 妹の問いに、兄である健蔵は多少無理のある作り笑いで虚勢を張りながら答えた。その返答を聞いて少しばかり安堵したらしい美綺は、相変わらずヘルメットとガスマスクを装着しており、そのガスマスクの吸排気口からは「コー、パー、コー、パー」と言う不気味な呼吸音が漏れている。

「どうやら、禁断症状は治まったようだな。それじゃあ健蔵とガスマスクの嬢ちゃん、改めて、事情聴取の続きを始めるぞ」

「へいへい。まったく、面倒臭えなあ。さっさと終わらせて、俺も我が妹も家に帰らせてくれよ、おっさん」

「そう文句を垂れるなってばよ、健蔵。これでもお前ら兄妹が事件に一方的に巻き込まれた被害者だって事を俺が知っているから、他の署員も出来得る限り優しくしてやってるんだからな? そうでなかったらそんなふざけた格好をしたガキ共なんてのは、今頃は芸能事務所の社長と秘書を殺害した事件の犯人扱いされて、怖いおっさん共に囲まれて尋問されてるところなんだぞ?」

 事情聴取を面倒臭がる健蔵に、海老名警部補が苦笑いと共に苦言を呈した。よく見ればソファに腰を下ろした桑島兄妹と海老名警部補の三人は幾人もの刑事に取り囲まれており、どうやら彼らに対する事情聴取は今も継続されているようだ。そしてまた、諏訪によって胸の骨を折られた海老名警部補と鼻を潰された健蔵は、警察と共に駆けつけた救急隊員による応急処置も受けている。ちなみに東雲社長と新堀秘書の遺体は司法解剖のために既に警察病院に搬送されており、この現場にその姿は無い。


   ●


「さてと、そろそろこのお高くとまったマンションからは引き上げて、聴取の続きは署に戻ってから再開するとしようか。……おっと、その前に俺と健蔵は、一旦病院に寄って本格的に治療してもらう必要があるな。特に俺は胸の骨が折れているから、たぶん数日は入院する事になるだろうよ」

 暫し聴取を継続した後にそう言った海老名警部補は、ソファから腰を上げると、同僚の手を借りながら救急隊員が用意した担架に横になった。そして担架ごと持ち上げられた彼は、健蔵と美綺の二人を従えて、事件現場である社長室から出て行こうとする。するとそこに、背中に黄色字で『警視庁』と書かれた紺色の作業着に身を包んだ男が近付いて来た。

「ああ、ちょっと、海老名さん。少し待ってください。一つだけ、お聞きしたい事があるんですが……」

 近付いて来た男は、海老名警部補の同僚である寺脇鑑識官。彼は眉間に皺を寄せ、その表情はなにやら釈然としない。

「何だ、寺脇? 聞きたい事ってのは?」

 担架に乗せられたままの海老名警部補に、寺脇鑑識官は問う。

「聴取によるとマンションから転落したのは、諏訪と言うこの会社のマネージャーの男と、始末屋と呼ばれる黒人の女の二人なんですよね? この点に、間違いはありませんか?」

「ああ、そうだ。それがどうかしたのか?」

「いや、それがですね? マンションの前の歩道には、確かに人間が落下した痕跡は二つ確認されたんですが、肝心の遺体は男性一名分しか確認されていないんですよ。仮にこれが諏訪と言う男の遺体だとしたら、残りのもう一人、始末屋と呼ばれる女の遺体はどこに消えたんでしょうか?」

「なんだと?」

 寺脇鑑識官の問いに、海老名警部補は困惑の声を漏らした。そして彼は背後を歩く健蔵を見遣ると、自身の疑問をぶつける。

「なあ、健蔵。生身の人間がマンションの三十六階から落っこちて、生きてその場を立ち去る事が出来ると思うか?」

「そんな事、俺が知るかよ。まあ、少なくとも俺やおっさんみたいな普通の人間は、こんな高さから落っこちたら確実にお陀仏だろうさ」

「だよなあ。普通は死ぬよなあ」

 同意する海老名警部補と健蔵、それに寺脇鑑識官の三人は頭の上に大きな疑問符を浮かべながら考えあぐねるが、始末屋の遺体がどこにも存在しないと言う事実は覆らない。果たしてタワーマンションの最上階から転落した筈の始末屋は生き永らえ、今この時も、どこかで生存し続けているのだろうか。そして始末屋の遺体の有無に関する疑問は解消されないまま、寺脇鑑識官は別件を報告する。

「それともう一つ、これは質問ではなく報告なんですが、現場から逃走していた重要参考人の芹澤芹華が無事に確保されました。ここから少し離れた駅前の繁華街を泣きながら徘徊していたところを、巡回中の警察官が発見したとの事です。ちなみにこの芹澤芹華と名乗るアイドルですが、身元を照会したところ、本名は大藪芳江おおやぶよしえと言う家出少女と言う事が判明しました。それで本人曰く、諏訪との関係も含めて事件に関しては全て白状ゲロするから、もう福井県の実家に帰らせてほしいそうですよ。なんかよく分かりませんが、よっぽど怖い眼に遭ったんでしょうね」

「そうか。あのアイドルの嬢ちゃんも自分が殺されかけた事で、少しは自分の過去の行いを反省したんだろうさ。しかし諏訪や東雲社長と同様に、これから本格的に捜査が進展すれば余罪がぼろぼろ出て来るだろうから、無罪放免って訳にはいかんな。情状酌量の余地はあるが、それでも少なくとも数ヶ月は刑務所ムショに入ってもらう事になるだろうよ。まあ、身から出た錆と言うか、自業自得だな」

 そう言った海老名警部補は、自分の発言に対して一人納得するようにほくそ笑みながら、担架の上でこくこくと顎を上下させた。事件の詳細を知る重要参考人が生きて確保された事に満足した彼は、至極ご満悦なのだろう。

「せりりん……はあ……なんでこんな事になっちゃったんだろうなあ……」

 芹澤芹華が警察に確保されたと言う一報を聞いた健蔵は、ほくそ笑む海老名警部補とは対照的にがっくりと項垂れると、寂しげな表情と声と共に深い溜息を漏らした。どうやら彼は未だ、憧れのアイドルであった芹澤芹華、つまり偶像としての彼女への未練を完全には断ち切れずにいるらしい。

「元気出しなよ、健兄ちゃん。結局あんな女には、健兄ちゃんが憧れるほどの価値は無かったんだってば」

 慰めるようにそう言った美綺は、隣を歩く兄の健蔵の手をそっと握り、彼の背中を優しくぽんぽんと叩いてやる。そんな二人の姿はまるで幼い息子とその母親の様でもあり、実際には彼らは兄と妹の関係なのだが、その立場が逆転しているようにも見えた。

「そうだな、我が妹よ。兄ちゃんだって、いつまでも落ち込んでられないよな」

 慰められた健蔵は自分自身を奮い立たせるようにそう言うが、その眼にはうっすらと涙が滲んでいる。

「ほら、泣かない泣かない」

 涙ぐむ健蔵の頭を、やはり子煩悩な母親の様に優しく撫でてやる美綺。彼ら兄妹には未だこれから、警察署での事情聴取に応じなければならないと言った面倒臭い責務が残されているのだが、とにかく一連の事件に解決の目処が立った事は喜ぶべき事実に違いない。

「うん、兄ちゃんはもう泣かない」

 そう言って顔を上げた健蔵の頭上に広がる夜空には、月と星が輝いていた。

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