第十幕


 第十幕



 都心の一等地に建つタワーマンションの最上階の最奥に位置する、株式会社ファラエノプシスの豪奢で広壮な社長室の中央。そこに立つ諏訪が構え直した自動拳銃オートピストルスチェッキンの照準が、身長二mを越える始末屋の大柄な体躯にピタリと合わされる。しかし銃口を向けられた当の始末屋はと言えば、やはり淡々と仕事をこなす職人の様な無表情を崩さずに、慌てる様子も身を隠す素振りも見せない。どうやら今の彼女にとってはたとえ銃口を向けられていようがそうでなかろうが、諏訪の存在自体が全く眼中に無いようだ。

 すると始末屋はぐるりと首を巡らせて室内を睨め回し、壁際に置かれたソファの前に立つ健蔵の姿を確認すると、着ているトレンチコートの懐に両手を差し入れる。そしてすらりと抜いた左右の手にはそれぞれ一本ずつ、彼女の愛用の得物である片手用の斧、いわゆる『手斧』が握られていた。目の細かいダイヤモンド砥石で丹念に研がれたそれらの手斧は下ろしたての剃刀の様に鋭利で、黒い皮手袋を穿いた始末屋の手の中でぎらりと光る。

「ここに居たか、桑島健蔵」

 そう言った始末屋は手にした手斧を構えると、健蔵に向かって一歩を踏み出した。

「ひいいいぃぃぃっ!」

 恐れおののいた健蔵は恐慌の悲鳴を漏らしながらソファの陰に身を隠し、頭を抱えてガタガタと震え始める。すると彼の元へと歩み寄っていた始末屋は、鮮血で塗れた胸の銃創を押さえながら床にへたり込む、既に息も絶え絶えな東雲社長の姿を視界に捉えた。破壊、殺害、回収を生業とする始末屋を雇い、桑島健蔵の殺害と彼が持つ動画の元データを回収するように命じた張本人こそが、まさに今彼女の眼前で死にかけている東雲社長に他ならない。そして瀕死の東雲社長は最後の力を振り絞って震える手を持ち上げると、肺に穴が開いているために喉からゴボゴボと血の泡を漏らしながら諏訪を指差し、始末屋に命ずる。

「始末屋、獲物ターゲットの変更だ。桑島健蔵は、もう狙わなくてもいい。倍の金を払うから、そこに居る諏訪秀巳を殺せ」

 虫の息の東雲社長が改めて下した、獲物ターゲット変更を意味する命令。その命令が鼓膜に届いた瞬間、ソファの陰でガタガタと震える健蔵の元へと歩み寄りつつあった始末屋の足が、ぴたりと止まった。そして彼女はゆっくりと、東雲社長が新規の獲物ターゲットとして指名した諏訪の方へと向き直る。

「お前が、諏訪秀巳か?」

 どうやら始末屋は、諏訪を殺せと言う東雲社長の命令を受諾したらしい。そして屠るべき獲物ターゲットを桑島健蔵から諏訪秀巳へと切り替えた彼女は、新たなる獲物ターゲットに向かって、両手に持った手斧を改めて構え直した。

「糞っ! この死に損ないのババアが! とっととくたばればいいものを、最後の最後で面倒臭い事をしやがって!」

 今この瞬間から、始末屋と言う名の暴虐の徒から命を狙われる身となった諏訪は、東雲社長に向かって悪態を吐きながらスチェッキンの引き金に掛けた指に力を込める。しかし彼の指が引き金を引き切るよりも早く、黒い三つ揃えのスーツと駱駝色のトレンチコートに包まれた始末屋の巨体が躍動した。彼女が振るう手斧の切っ先が、衝撃波を伴いながら超音速でもって諏訪に迫る。

「糞っ!」

 再び、悪態を吐く諏訪。しかし彼とて、只易々と殺されるような素人ではない。今や殺し合うべき敵となった始末屋に先手を取られたと判断するや、一旦銃撃を諦めて素早く後方に飛び退り、手斧による必殺の一撃を紙一重でもって回避してみせた。そして諏訪は始末屋から一定の距離を取ると、再びスチェッキンを構え直し、改めて引き金を引き絞る。銃口から火を噴くスチェッキン。すると攻守が入れ替わり、今度は諏訪の銃撃を回避すべく、始末屋が背後へと飛び退る番であった。

 諏訪が手にしたロシア製の拳銃スチェッキンAPBは、自動拳銃オートピストルであると同時に機関拳銃マシンピストルでもある。つまり片手で取り扱える9㎜口径の拳銃でありながら、機関銃マシンガンの様にフルオートでの連射が可能だ。そして今、諏訪はまさにそのフルオート射撃でもって、飛び退った始末屋を追撃する。

 銃口に装着された消音装置サイレンサーによって減衰された「シュシュシュシュシュッ」と言う銃声と共に、次々と射出される銃弾。すると始末屋は、諏訪を中心とした孤を描くように社長室の中を駆け抜ける事によって、迫り来る銃弾の雨を回避する事に努めた。彼女を狙った銃弾の何発かが流れ弾となり、ソファの陰に隠れた健蔵と美綺の頬や頭を掠めてから壁や床に着弾し、その度に健蔵がビクッと身を竦ませながら「ひっ!」と小さな悲鳴を漏らす。

「どうした始末屋! 逃げ回るだけか? いくらお前でも、銃で撃たれれば只じゃ済まないからな!」

 連射が可能なスチェッキンで追撃しながら、逃げ回る始末屋を諏訪が嘲笑した。彼が言う通り、確かに逃げ回っているだけではいずれ追い詰められた始末屋が、遠からず凶弾に倒れるであろう事は想像に難くない。すると社長室の中をぐるりと半周し、部屋の中央に立つ諏訪から見てちょうど健蔵達とは点対称の位置にまで至った始末屋は、そこに備え付けられていたバーカウンターの中へと身を隠す。彼女を狙った銃弾が数発ばかり、蘭の花を象った彫刻が施されたバーカウンターの前板に撃ち込まれると、板の奥深くまでめり込んでからその動きを止めた。

「ちっ!」

 好機を逃し、舌打ちを漏らす諏訪。彼は始末屋が身を隠したバーカウンターに向かってもう数発ばかり銃弾を撃ち込むが、9㎜口径の拳銃弾では分厚いオーク材のバーカウンターの前板を貫通する事は適わず、その奥に隠れた標的を捉える事が出来ない。また同時に、身を隠しているばかりでは始末屋の手斧も諏訪を捉える事が出来ず、暫しバーカウンターを挟んで諏訪と始末屋が互いの出方をうかがう。

「健兄ちゃん、ちょっと、少しは手伝ってよ」

 睨み合う諏訪と始末屋の背後で、ガスマスク姿の美綺がマホガニー材のフロアテーブルを横倒しにしながら、床にへたり込んで身を竦ませている健蔵に要請した。どうやら彼女は、横倒しにしたフロアテーブルの天板を床に対して垂直に立て掛け、その陰に身を隠して流れ弾を遣り過ごす魂胆らしい。しかし実の妹に手伝うように要請された健蔵はと言えば、始末屋に追い掛け回されていた時の恐怖が蘇ったのかそれともニコチン中毒の禁断症状によるものか、焦点の合わない眼で虚空を見つめたままガタガタと震え続けている。しかも彼の顔面は蒼白な上に脂汗でびっしょりと濡れ、上下の歯の根は合わず、ブツブツと小声で何事かを呟くばかりで埒が明かない。

 するとそんな桑島兄妹の視界の隅で、睨み合ったまま互いの出方をうかがっていた諏訪と始末屋に動きがあった。スチェッキンの銃口を始末屋が身を隠したバーカウンターに向けたまま、諏訪がゆっくりと忍び足でもって、社長室の奥のガラス壁の方へと移動し始める。どうやら膠着状態に痺れを切らした彼はバーカウンターを迂回し、身を隠す場所の無い横手から始末屋を追い詰める気でいるらしい。

「待ってろよ、始末屋。今すぐ殺してやるからな」

 歯を剥いてニタニタと笑ったままの諏訪はそう呟くと、社長室の中をゆっくりと移動しながら、再装填のためにスチェッキンの弾倉マガジンを抜いた。装弾数二十発のスチェッキンの中には未だ弾倉マガジンに二発、薬室チャンバーに一発の銃弾が残っていたが、万難を廃す事を良しとした諏訪は弾切れを起こす前にさっさと再装填する案を採択したのだ。しかしジャケットのポケットから取り出した予備の弾倉マガジンを装填しようと諏訪の視線がバーカウンターから外れた瞬間、まさにその隙を狙っていた始末屋が反撃に打って出る。彼女は身を隠していたバーカウンターの陰から一瞬にして躍り出るや否や、愛用の得物である手斧を、諏訪に向かって次々と投擲し始めた。

「おっと、そんな鈍重な鉄の塊が当たるものか!」

 始末屋によって投擲され、回転しながら飛び来たる手斧の数々を回避するために、社長室の中央に置かれたこれまた豪奢な造りのデスクの陰に素早く潜り込む諏訪。すると諏訪を狙った手斧は標的を捉え切れず、彼が身を隠したデスクの前板や天板に、ザクザクと言った斬撃の音を轟かせながら続けざまに突き刺さる。

 果たしてトレンチコートの懐の中に何本の手斧を隠し持っていたのか、始末屋による投擲はいつまでも続き、まるで止む気配が無い。すると投擲された数多の手斧の内の一本が僅かに狙いを逸れ、頑丈な一枚板で出来たデスクの天板に弾かれて宙を舞うと、流れ弾ならぬ流れ斧となって健蔵と美綺が身を隠すフロアテーブルの天板にドスンと突き刺さった。更にその後も幾本もの手斧が室内を舞い飛び、桑島兄妹達の周囲の壁や床に次々と突き刺さる。そして気付けば、諏訪が身を隠したデスクはまるでハリネズミかハリセンボンかサボテンか、もしくは文字通りの意味での針のむしろさながらに、山の様な手斧が四方八方から突き刺さった無残な姿へと変貌していた。

「出て来い、諏訪秀巳」

 やはり仕事を淡々とこなす職人の様な無表情のままそう呟いた始末屋は、次なる手斧を投擲するために、トレンチコートの懐に手を差し入れる。しかしその時、彼女の動きがぴたりと止まった。そして手を差し入れたトレンチコートの懐を、ごそごそと探る。どうやら無限に備蓄されているかと思われた始末屋愛用の手斧も、その全てを投擲し終えたのか、ここに来てとうとう底が尽きたらしい。

「残念だったな始末屋! 俺の勝ちだ! お前を殺してから、そこに隠れているガキ共やババアも殺してやる! 覚悟しろ!」

 始末屋の手斧が尽きた事を察した諏訪は、勝ち誇るかのようにそう宣言しながら、身を隠していたデスクの陰から姿を現した。すると得物であるスチェッキンの照準を始末屋の胸の中央に合わせた彼は、勝利を確信した事によって気を良くしたのか、より一層歯を剥いてニタニタと笑う。つい今しがた弾倉マガジンを交換したばかりのスチェッキンには二十発、薬室チャンバーの中の一発も含めれば最大で二十一発もの9×18㎜マカロフ弾が装填されており、その全てをフルオートで撃ち込まれれば如何に常人離れした女偉丈夫の始末屋と言えども只では済まない。そして始末屋を無残な蜂の巣へと変貌させた後に、諏訪は改めて健蔵と美綺の桑島兄妹と、更には芹澤芹華をも亡き者にするであろう事は明々白々であった。

 しかしその時、立て掛けられたフロアテーブルの陰でガタガタと震えるばかりだった健蔵が突如として立ち上がったかと思えば、下品な声でもって絶叫する。

「ああああああああっ! 糞! 糞! 糞! 糞! 畜生! 畜生! 畜生! 畜生! ファック! ファック! ファック! ファック! てててててめえら! いいいいいい加減にしやがれ!」

 どもり気味にそう叫んだ健蔵は、彼の傍らの床に土下座するような体勢で倒れ伏したままの海老名警部補のジャケットを乱暴に捲り上げた。するとジャケットの下から姿を現した警部補の腰のベルトには合皮製のホルスターが装着されており、その中には一挺の小さな回転式拳銃リボルバーが納められている。そして健蔵はその小さな回転式拳銃リボルバー、北米コルト社製のディテクティブ・スペシャルを警部補のホルスターから引き抜くと、それを構えながらガラス壁の前に立つ諏訪の方へと早足で歩み寄り始めた。どうやら健蔵は極度の怒りと苛立ちでもって正気を失っているらしく、焦点の合わない眼で諏訪を睨み据えた彼の足取りは妙に浮き足立っていて、雲の上を歩くかのようにふわふわとしている。

「てめえ! 諏訪! こうなったのも全部てめえのせいだ! 俺はこんな場所からはさっさと立ち去ってとっととアパートに帰って、今すぐにでもタバコが吸いてえんだ! だから死ね! 死にやがれ! ファック!」

 ずかずかと大股で歩きながら再び絶叫した健蔵は、手にした回転式拳銃リボルバーの引き金を何度も続けざまに引き絞った。するとパンパンパンと言う乾いた銃声とマズルフラッシュと共に、38口径の銃弾が次々と射出される。しかし健蔵の手は只でさえニコチン中毒の禁断症状でぶるぶると震えていると言うのに、そこに発砲時の反動が追い討ちをかけ、まるで狙いが定まらない。結果として回転式拳銃リボルバー輪胴シリンダーに装填された計六発の銃弾を全て撃ち尽くしても、ほんの数m先の標的である諏訪の身体には、只の一発も命中しなかった。そして的を外れた六発の銃弾は諏訪の背後のガラス壁に全て命中し、サッシに嵌め込まれた頑丈な強化ガラスに蜘蛛の巣状のヒビがびっしりと走る。重度のFPS厨を自称する健蔵の射撃の腕前は、ヴァーチャルでもリアルでも糞エイムと言わざるを得ない。

「この馬鹿が脅かしやがって! お前から先に死ね!」

 絶叫する健蔵に虚を突かれた諏訪は出遅れ、結果的には一発も当たらなかったとは言え一方的に銃弾に身を晒す格好となっていたが、そんな彼も気を取り直すと怒声を浴びせながらスチェッキンの銃口を健蔵に向けた。幾本もの手斧が突き刺さったデスクを挟んで対峙する始末屋よりも先に、諏訪は健蔵を射殺する気である。すると銃口を向けられた健蔵は早足で歩きながら、諏訪に照準を合わせた回転式拳銃リボルバーの引き金を更に引き絞るが、既に輪胴シリンダーは空っぽなのでガチンガチンと撃鉄ハンマーが空撃ちするばかりで銃弾は射出されない。

「弾切れかよ! 畜生!」

 罵声と共に、健蔵は手中の回転式拳銃リボルバーその物を、諏訪に向かって投げ付けた。勿論それは苦し紛れの投擲だったのだが、偶然にも投げ付けた回転式拳銃リボルバーは、スチェッキンのグリップを握った諏訪の右手の指にガツンと直撃する。

「痛っ!」

 小型の回転式拳銃リボルバーとは言え、硬くて重い鋼鉄の塊によって指を潰された諏訪は、苦悶の声を漏らした。すると、さすがに手にしたスチェッキンを取り落とすような初歩的なヘマこそしなかったが、健蔵に向けられていた照準が逸れて隙が生まれる。

「喰らえ! この野郎!」

 そう叫んだ健蔵は、残り僅かな諏訪との距離をダッシュでもって一気に詰めると、可能な限り高く跳躍した。そして一流のルチャ系プロレスラーさながらの、高さも角度も完璧な全身全霊のドロップキックを、諏訪の顔面に蹴り込む。

「ぷお」

 健蔵の渾身の一撃を顔面に喰らった諏訪の喉から、驚愕の叫びとも苦悶の嗚咽ともつかない奇妙な声が漏れた。するとドロップキックの衝撃でもって後方に吹っ飛んだ彼は、健蔵の回転式拳銃リボルバーから射出された流れ弾によってヒビが入っていたガラス壁に突っ込み、そのままの勢いでもって強化ガラスを突き破る。そしてガシャンと言う甲高い破砕音とキラキラと光るガラス片を纏いながら、諏訪はガラス壁の向こうに広がっていたタワーマンションのウッドデッキに転がり出た。ごろりと一回転しながらウッドデッキを転がる彼の姿は、ひどく間抜けで滑稽である。

「ざまあ見ろ! ファック!」

 ドロップキックのための跳躍から受身を取って床に着地した健蔵が、ウッドデッキに転がった諏訪の醜態を確認すると、舌出しダブル裏ピースでもって嘲笑した。するとそんな彼の背後からこちらへと向かって、先程までの健蔵と同じようにずかずかと大股で歩きながら、始末屋が接近して来る。どうやら彼女は、ウッドデッキに転がったまま動かない諏訪にとどめを刺す気でいるらしい。

「おいコラ! 始末屋だか殺し屋だか知らねえが、てめえも諏訪と一緒にここで死にやがれ! ファック!」

 健蔵は叫びながら、先程まで諏訪が身を隠していたデスクとセットになった豪奢な革張りのオフィスチェアを掴むと、それを頭上高く持ち上げた。普段のひ弱なオタク青年である彼からは考えられない膂力であるが、おそらくは極度の興奮と禁断症状によって正気を失っているために、火事場の馬鹿力の様な作用が働いているのだろう。

「喰らえ!」

 気合いの掛け声と共に、こちらへと歩み寄って来る始末屋の頭部目掛けてオフィスチェアを振り下ろす健蔵。するとゴキンと言う鈍い衝撃音を従えて、彼が振り下ろしたオフィスチェアの一番硬くて重い土台部分が始末屋の顔面に直撃した。確かな手応えを感じた健蔵が、勝利を確信したかのようにニヤリとほくそ笑む。しかし残念ながら、その笑みはすぐに曇った。と言うのも、オフィスチェアによる一撃をまともに喰らった筈の始末屋はびくともせず、まるで蚊にでも刺されたかのように平然とした無表情のまま、彼女は眼前に立つ健蔵をジッと見据えている。

「おいコラ! 糞! この! 倒れろ! 倒れろってば!」

 怒声を浴びせながら、繰り返し何度も、健蔵はオフィスチェアの土台部分でもって始末屋の顔面を殴り付け続けた。しかしその程度の攻撃では始末屋にダメージを与える事は適わず、健蔵の体力がいたずらに消耗されるばかりで、まるで埒が明かない。このままでは、どうやら気を失っているらしい諏訪が眼を覚ましてしまい、健蔵も始末屋も再び命の危機である。すると始末屋は、突然健蔵が着ている着ぐるみパジャマの腰と襟首の部分を左右の手でもって鷲掴みにすると、そのまま彼の身体を軽々と持ち上げた。

「ひええええぇぇぇぇっ!」

 持ち上げられた健蔵がみっともない悲鳴を漏らしながら、ばたばたと暴れて抵抗する。しかしそんな健蔵の抵抗も空しく、彼を頭上高く持ち上げた始末屋は割れたガラス壁を乗り越えてウッドデッキに足を踏み入れると、そのままデッキの縁に向かって歩き始めた。

「え? ちょっと、何? 俺をどうする気?」

 困惑する健蔵。彼の脳裏に、嫌な予感とそのイメージが想起される。

「ちょっと待て! まさか、まさか俺をここから放り落とす気じゃないよな?」

 彼の予感通り、どうやら始末屋はこのタワーマンションの最上階のウッドデッキから、遥か彼方の地上に向かって健蔵を放り落とす気でいるらしい。感情を表に出さない彼女も、オフィスチェアで何度も顔面を殴られて、少しばかり怒りを覚えたのだろうか。

「やめ、やめて! お願いだからやめて! お願いだから殺さないで! 誰か、誰か助けて! たーすーけーてー!」

 より一層ばたばたと暴れながらみっともない命乞いの言葉を漏らし、誰にともなく助けを求める健蔵だったが、当然ながら始末屋は聞く耳を持たない。そして彼女は健蔵を持ち上げたままウッドデッキを縦断すると、遂にその縁へと辿り着く。縁に設けられた強化ガラス製の柵の向こうは、およそ百m下の地上まで何も無い虚空が広がるばかりで、そこから放り落とされれば即死は免れ得ない。

「ごめんなさい! ごめんなさい! 謝るから許して! お願いだから殺さないで! こーろーさーなーいーでー!」

 この期に及んでもばたばたと暴れながら、命乞いを続ける健蔵。そんなものはまるで意に介さない始末屋。すると彼らの背後のウッドデッキ上に転がる、健蔵が放ったドロップキックを顔面に喰らって一時的に気を失っていた諏訪が、ゆっくりと起き上がった。そして彼は視線を巡らせ、背後のウッドデッキの縁で始末屋が健蔵を放り落とそうとしているのを確認すると、手にしたスチェッキンの銃口を二人に向ける。

「お前ら、二人揃って死ね!」

 そう叫んだ諏訪は、ウッドデッキの縁の柵ギリギリに立ち、頭上高く持ち上げた健蔵を今まさに放り落とそうとしている始末屋の背中にフルオートで銃弾を撃ち込んだ。夜空に連続して鳴り響く銃声と、ウッドデッキを転がる金色の空薬莢。すると着弾の衝撃でもって健蔵を持ち上げたままの始末屋が体勢を崩し、また同時に、始末屋に当たらなかった流れ弾が強化ガラス製の柵を粉々に砕く。どうやら諏訪は、始末屋と健蔵の二人を、このままタワーマンションの最上階から転落死させる魂胆らしい。そしてその頑丈さゆえに即死こそしなかったものの、背中を撃たれた事によって体勢を崩す始末屋。彼女が咄嗟に何かに掴まろうと手を放した事によって、着ぐるみパジャマの腰と襟首を鷲掴みにされていた健蔵の身体が、再び自由を取り戻した。

「あ、あぶ、危ねえ! た、たす、助けて!」

 半ばパニック状態になりながらも、必死で足掻くようにして、なんとかウッドデッキの方角へと這い進んで転落を免れようとする健蔵。ばたばたと暴れる彼の身体が、すぐ下に立っていた始末屋の身体と絡み合い、このままでは二人揃って転落してしまう。

「とう!」

 すると妙な掛け声と共に、自分の下になった始末屋の顔面を踏み台にして、ウッドデッキの方角へと健蔵が跳躍した。そして彼は無様に足掻きながらも、這い蹲るようにしてウッドデッキに転がり込み、命からがらタワーマンションからの転落を回避する。その一方で始末屋はと言えば、健蔵に顔面を踏み台にされたのが決定打となって更に体勢を崩し、粉々に割れた強化ガラス製の柵の向こうへとその姿を消した。

「はぁーっ! はぁーっ! はぁーっ! はぁーっ!」

 ギリギリのタイミングでもって、なんとか一命を取り留めた健蔵。彼はウッドデッキの端で呼吸を荒げながら安堵の溜息を漏らすと、その場でごろりと大の字になって寝転び、天を仰ぐ。すると次の瞬間、仰向けになって寝転んだままの彼の視界が、こちらへと迫り来る硬質ゴム製の靴底で埋め尽くされた。

「ぷぎゅる!」

 迫り来る靴底の正体は、諏訪が履いた革靴の靴底。そして諏訪の全体重を乗せたその靴底でもって顔面を踏み潰された健蔵は奇妙な声を漏らし、更に繰り返し何度も何度も、諏訪はニタニタと歯を剥いて笑いながら健蔵の顔面を踏み潰す。

「ちっ! この死に損ないが! とっとと転落していれば良かったものを!」

 舌打ちを漏らしながら、諏訪は悪態を吐いた。彼の足元では顔面を執拗に踏み潰され続けた健蔵が、大量の鼻血で真っ赤に濡れた鼻っ柱を押さえながら呻き声を漏らし、意識を混濁させた彼の眼の焦点ははっきりとしない。

「やれやれ、まあそれでも、始末屋を殺れたのは御の字か」

 一通り健蔵の顔面を踏み潰し終えた諏訪はそう言うと、ウッドデッキの縁の、始末屋が姿を消した箇所へと近付く。そして転落死した筈の始末屋の死体を確認するために、粉々に砕けた強化ガラス製の柵から身を乗り出して、遥か彼方の地上を覗き込んだ。するとその刹那、一本の腕がぬっとウッドデッキの縁の下から伸びて来て、その手が諏訪の左の足首をがっしと鷲掴みにする。

「何だ?」

 突然足首を掴まれて、驚愕と困惑の声を漏らす諏訪。彼の足首を掴んでいる手の主は、言わずもがなの始末屋。彼女は未だタワーマンションから転落してはおらず、ウッドデッキを支える土台の縁に手を掛け、ギリギリのところでもってその身を支えていた。そして今、始末屋は諏訪を道連れにして自らもまた果てる気なのか、鷲掴みにした諏訪の足をウッドデッキの外の虚空へと引っ張り始める。

「痛っ!」

 左の足首を引っ張られた諏訪は体勢を崩して転倒し、ウッドデッキの床に背中をしたたかに打ち付けた。ドスンと言う音と振動が、板敷きのウッドデッキを揺らす。また転倒した衝撃でもって彼の得物であるスチェッキンが取り落とされ、それはカラカラとウッドデッキ上を転がると、一足先にタワーマンションから地上に向かって落下した。そしてスチェッキンに続いて諏訪の身体もまたずるずると、無表情の始末屋によって、次第にデッキの外へと引き摺り出されて行く。勿論諏訪も、何もせずに只大人しく、一方的に引き摺られている訳ではない。彼は掴まれていない右足の踵でもって始末屋の手や指を蹴り付けて必死に抵抗するが、いくら蹴り付けても始末屋はびくともせず、このままでは二人揃っての転落は時間の問題だ。

「糞! 放せ、この糞女くそあま! このままだと、お前も死ぬんだぞ!」

 ずるずると少しずつ、ウッドデッキの外へと引き摺り出されつつある諏訪。彼は悪態を吐きながら、文字通り溺れる者が藁をも掴むかのように周囲を漁り、掴むべき藁を探す。すると諏訪の手が何かに触れたので、彼は遮二無二それを掴んだ。そしてその掴んだ何かを手掛かりにして、このままではタワーマンションの最上階から転落してしまう自分の身体を支えようと、孤軍奮闘する。

「……え? 何これ? え? え?」

 諏訪に顔面を踏み潰された事によって意識が混濁していた健蔵が、不意に頓狂な声を上げると、意識を覚醒させた。と言うのも、彼は自分の身体が何者かによって、ウッドデッキの外に向かってずるずると引き摺られている事に気付いたからである。そこで彼は、仰向けになって寝転んだ状態から半身を起こした。そして彼は、気付く。自分の左の足首を諏訪の両手が掴んでおり、その諏訪の左の足首は、始末屋の両手が掴んでいる事に。つまり今、健蔵と諏訪と始末屋の三人は数珠繋ぎの様な格好でもって、三人揃ってタワーマンションの最上階から転落しつつあった。

「ひええええぇぇぇぇっ!」

 自分達が置かれた状況をようやく理解した健蔵がみっともない悲鳴を上げながら、先程までの諏訪がそうしたように、自分の身体を支えるための手掛かりを探す。しかし丹念に磨かれた艶のある杉板が敷かれたウッドデッキ上には溺れる者が掴むべき藁は無く、健蔵が手掛かりを探している間にも、彼の身体はタワーマンションの外へと向かってずるずると引き摺られて行くばかりだ。

「たす、たすけ、助けてええええぇぇぇぇっ!」

 必死で助けを求める健蔵だったが、当然ながら彼の腕力だけでは、彼自身と諏訪と始末屋の合計三人分の体重を支える事は出来ない。そして既に、始末屋と諏訪の二人の身体の殆どは、ウッドデッキの外へと引き摺り出されている。

「糞! こんな所で死んでたまるか! おい、この糞ガキ! 壁でも柱でも何でもいいから、とにかく何かを掴んで身体を支えろ! 私はお前らと一緒に死ぬ気は無いんだ!」

 始末屋に足首を掴まれ、また同時に健蔵の足首を掴んだままの諏訪が、苦し紛れにそう叫んだ。彼の言う『糞ガキ』とは、おそらく健蔵の事であろう。しかしそんな諏訪の眼前に、ガスマスクを装着した小さな人影が、不意にぬっと現れて視界を覆った。勿論それは健蔵の実の妹の美綺であり、彼女はその手に持った始末屋の手斧を、頭上高く振りかぶっている。

「……おい、待て。お前、一体何をする気だ? おい! 待て! やめろ! やめてくれ! 頼む!」

 これから我が身に降りかかる惨状を察した諏訪が、懇願した。しかし美綺は無情にも、ガスマスクの奥の眉一つ動かさずに、それを躊躇無く拒否する。

「駄目だね。健兄ちゃんは、あたしのもんだ。あたしの健兄ちゃんに手を出す奴は、絶対に許さないんだから」

 そう言い終えるのと同時に、美綺は手斧を振り下ろした。すると始末屋がダイヤモンド砥石でもって丹念に研ぎ上げたのであろう鋭利な切っ先が、諏訪の左腕をいともあっさりと、手首の少し下の辺りから切断する。

「あ……」

 左手首を切断された諏訪の喉から、驚愕と困惑の声が漏れた。手斧による切断面からは、骨や筋肉や皮膚、それに血管や腱などの人体を構成する要素の断片が垣間見える。そしてその切断面が噴出した鮮血でもって真っ赤に染まり、左手首から先を失った諏訪が残された右腕一本だけで二人分の体重を支えなければならなくなった直後、美綺は再び手斧を振りかぶった。その切っ先は、諏訪にとってはまさに最後の生命線とも言える命綱である、彼の右手首に狙いを定めている。

「やめ……」

 諏訪が最後の懇願、もしくは命令の言葉を言い終えるよりも一瞬だけ早く、ガスマスク姿の美綺によって振り下ろされた手斧が彼の右手首をも切断した。すると健蔵の足首を掴んでいた両の手首から先を失った諏訪は、彼自身と、彼の足首を掴んだまま宙吊りになった状態の始末屋の、計二人分の体重を支え切れない。そしてずるずると次第にウッドデッキの外へと引き摺り出されつつある諏訪は、手首から先が無い両腕でもってデッキ上を這いずるようにして必死で足掻くが、それらの行為は全て無駄な努力に終わる。

「あ……」

 再び驚愕と困惑の声を漏らしながら、とうとう諏訪は、タワーマンションの最上階のウッドデッキからその身を完全に引き摺り出された。すると、まるで映画『ダイ・ハード』の終盤でアラン・リックマン演ずる悪役ハンス・グルーバーがナカトミビルから落下する時の様な呆然とした表情のまま、彼は遥か彼方の地上に向かって落下して行く。勿論その顔には、普段の彼の、ニタニタと歯を剥いた不敵な笑みは見られない。また一方で諏訪と一緒に落下して行く始末屋の表情はと言えば、こちらは相も変わらずの、淡々と仕事をこなす職人の様な無表情を貫いていた。そして夜風の吹く東京の空の下、二人の姿は見る間に小さくなって行く。

 やがて数秒の時間が経過した後に、ウッドデッキから身を乗り出した美綺の視線の遥か先で、諏訪と始末屋の二人が地面に落着した。そして落着から更に数拍の後に、ドスンと言う小さな衝撃音が、美綺が立つ最上階のウッドデッキにまで届く。

「ふう」

 ようやく、全ては終わった。そう確信した美綺は安堵の溜息を漏らすと、ウッドデッキ上にぺたんとトンビ座りで座り込み、天を仰ぐ。頭上に広がる夜空には月と星が輝き、ガスマスクを装着した彼女と、彼女の背後でぐったりと仰向けになって寝転んだままの健蔵とを優しく照らしていた。そして健蔵は、未だ少し意識を混濁させながらも、実の妹に問う。

「……我が妹よ、兄ちゃん達は助かったのか?」

「そうだよ、健兄ちゃん。あの諏訪も始末屋も、もうここには居ないよ」

「そうか、そいつは僥倖だ。もうファックじゃないな」

 妹の返答に安堵したらしい健蔵は、諏訪によって踏み潰されたせいで鼻血まみれの顔を着ぐるみパジャマの袖で拭いながら、立ち上がろうとした。しかし心なしか、なんだか少しばかり足が重いような気がする。

「健兄ちゃん、足首に未だ残ってるよ」

「え?」

 こちらを指差しながら指摘する美綺の言葉に、一体何が残っているのだろうかと思った健蔵は、自分の足元に眼を向けた。すると彼の両の足首には、美綺が振るった手斧によって切断された諏訪の左右の手首から先だけが残されており、それらは未だ生きているかのように健蔵の足首をしっかと掴んでいる。

「うわっ! キモッ! 放せよコラッ! あっち行け!」

 そう言って気色悪がりながら、健蔵は脚をぶんぶんと勢いよく振って、自身の足首に残されていた諏訪の手首を強引に振り払った。すると振り払われた左右の手首は宙を舞い、床にぼとりと落下すると、てんてんとその場で静かに転がる。そしてよく見れば、ウッドデッキの床板の上には諏訪の左右の手首から先と、彼がデッキの外まで引き摺られて行った痕跡が血で描かれた二本の腺となって残されていた。その光景はまるで出来の悪いホラー映画のワンシーンか、悪趣味な前衛芸術のオブジェの様にも見える。

「さてと、それじゃあそろそろ帰るとしようか、我が妹よ。こんな所に長居は無用だ。兄ちゃんはさっさとアパートに帰って、思う存分タバコを吸ってやるのだ」

 健蔵はそう宣言すると、割れた強化ガラスの破片が散乱するウッドデッキからタワーマンションの室内へと引き返し始めた。彼に少し遅れて、妹の美綺もまたトンビ座りの状態から腰を上げると、実の兄の後を追う。

「ああそうだ、社長さん。あんたのために、救急車を呼んでやらねえとな。……ん? えっと、社長さん? おいあんた、大丈夫か? もしもーし? 聞こえてますかー?」

 室内へと引き返した健蔵が、諏訪によって撃ち抜かれた胸の銃創を押さえながらへたり込んだままの東雲社長に近付き、問い掛けた。しかし東雲社長からの返事は無く、どこか遠くを見つめているかのような虚ろな彼女の瞳には、既に生者の光は宿っていない。

「そんな事しても無駄だよ、健兄ちゃん。その人、もう死んでる」

「あらら」

 東雲社長が既に死んでいる事を教えられた健蔵は、少しばかり残念そうにそう言うと、社長の亡骸に向かって「ナムアミダブツ」と唱えながら合掌する。お世辞にも信心深いとも敬虔とも言えない健蔵だったが、やはり少しでも見知った者が眼の前で亡くなれば、少なからず喞々とした気持ちにもなるらしい。そして板張りの床にへたり込んだまま息を引き取った東雲社長の亡骸の膝の上には、まるで安らかに膝枕で眠るような格好でもって、秘書の新堀女史の亡骸が横たわっていた。そんな二人の姿を見て、そう言えば諏訪が新堀秘書をして『糞レズビアンのメス豚』と冷罵していた事実を健蔵は思い出したが、果たして東雲社長と新堀秘書は只の社長と秘書の関係だったのだろうかと彼は訝しむ。どちらにしても、今の健蔵にはその真相を知る術は無いし、特に知りたいとも思わないのだが。

「おっさんも死んじまったから、やっぱりこれ、警察に通報しないで逃げたら不味いんだろうなあ。でもこの状況を、警察に何て言って説明したらいいんだろう?」

「正直に説明しても、信じてもらえないかもね。特に健兄ちゃんはいつもそんな変な格好をしてるから、何を言っても説得力が無いしさ。だから健兄ちゃんももうちょっとまともな服を着て、タバコを吸うのもやめなよ。もういい歳なんだしさ」

 自分達兄妹が置かれた状況を鑑みて困り果てる健蔵と、そんな兄の着ぐるみパジャマ姿と喫煙癖を、ガスマスクを装着した自分の格好の異様さは棚に上げた上で咎める美綺。彼らの足元には、やはり土下座をするような体勢で倒れ伏したままの海老名警部補の身体が、物言わぬ亡骸となって転がっている。

「……おい、勝手に殺すんじゃねえよ。生憎だが、俺は未だ生きてるからな?」

 亡骸だと思われていた海老名警部補が、少しばかり苦しそうな声でもって言った。

「おっさん! 生きてたのか!」

「ああ、そうだ。未だ死んじゃいねえよ。……ところで健蔵とガスマスクの嬢ちゃん、すまねえが、ちょっと起き上がるのに手を貸してくれねえか? どうやら胸の骨が折れたらしくて、手足に力を入れようとすると痛くてたまんねえんだ」

 海老名警部補の要請を、健蔵は快諾する。

「了解だ、おっさん。おい、我が妹よ。俺はこっちの腕を持つから、お前はそっちの腕を持て。そんじゃ起こすぞ。……せーの、よっと!」

 健蔵の掛け声を合図にして、桑島兄妹の二人は海老名警部補に肩を貸すと、板敷きの床に倒れ伏していた彼を立たせる事に成功した。そして肩を貸してもらいながらふらふらと社長室を横断した海老名警部補は、革張りのソファにゆっくりと腰を下ろすと、安堵の溜息を漏らす。

「ふう。今回ばかりはさすがの俺も、マジでヤバかったな」

「お? おっさんのくせに「マジでヤバい」とか、今時の流行り言葉を使ってんじゃねーかよ、おっさん。いい歳して、若者気取りか?」

「そんなんじゃねーよ。今回は本気で死ぬかと思ったのを、ちょいとばかり省略して言ってみただけだ。……それと健蔵、歳上の人間を気安くおっさん呼ばわりすんじゃねえって、何度言えば分かるんだ、お前は?」

「へいへい、分かりましたよ、おっさん。……ところでおっさん、なんであんた、生きてんだ? 確か胸を撃たれて、死んだんじゃなかったっけ?」

 首を傾げながら、疑問を呈する健蔵。彼の言う通り、至近距離から諏訪によって銃撃された筈の海老名警部補は何故か死んではいないし、よく見ればワイシャツに空いた穴から出血してもいない。

「ああ、それなら、こいつのおかげさ」

 そう言って、海老名警部補は着ているワイシャツの胸元を開いてみせた。するとワイシャツの下に着込んでいた、白字のゴシック体で『警視庁』と書かれた濃紺色の分厚いベストがその姿を現す。そしてそのベストの胸の部分に出来た窪みには小さな金属片がめり込むようにして埋まっていたが、どうやらそれは、諏訪によって撃ち込まれた銃弾らしい。

「警察署を出る時に、ちょっと取って来る物があるって言って一旦引き返しただろ? あの時に署の一階のマル組織犯罪対策課に寄って、この防弾ベストを拝借しといたのさ。なんせ、あの諏訪って奴が拳銃を持っている事が事前に分かっていたからな。このぐらいの備えはさせてもらうさ。……まあ、シャツの下に着込むために一番薄手の奴を選んだから、いざ銃弾を食らっちまったら胸の骨が折れた上に気を失っちまったがよ」

「やるじゃねえか、おっさん。少しばかり、見直しちゃったね。……ん? ちょっと待てよ? おっさん、なんで自分一人だけがそんな便利なモンを着込んで、俺と我が妹の分は用意してねえんだ? もしも俺達二人の方が撃たれたら、どうするつもりだったのさ? もしかして、自分一人だけが助かるつもりだったのかよ! ファック!」

 海老名警部補の準備万端ぶりに、最初はひゅうと口笛を吹きながら感心していた健蔵だったが、自分と美綺の身の安全がないがしろにされていた事に気付くと悪態を吐いた。勿論彼は悪態を吐きながら、舌出しダブル裏ピースでもって警部補を挑発する事を忘れない。するとそんな健蔵と美綺に対して小さく頭を下げながら、海老名警部補は素直に謝罪する。

「そいつは確かに、申し訳ねえ事をしちまったな。一端の警察官としては、あるまじき行為だ。反省している。しかしなんせ、最初はお前らには外で待っていてもらって、俺一人だけでこのマンションまで乗り込むつもりだったからよ。まあ、結果としては撃たれたのは俺だけだったんだから、無駄な努力をしなくて済んだって事で笑って許してくれよ。な?」

 そう言った海老名警部補は大口を開けてガハハと笑ったが、笑うと折れた胸骨だか肋骨だかが痛むのか、苦しそうにゴホゴホと咳き込んだ。そしてゆっくりと呼吸を整えながら痛みに耐えている警部補に、健蔵は問う。

「あれ? そう言えば、せりりんは?」

「あ? そう言えば、いつの間にか居なくなっちまってるな。どこに行っちまったんだ、あのアイドルの嬢ちゃんは?」

 健蔵の問いに、妹の美綺も含めた彼ら三人は広壮な社長室の各所を探して回るが、家具の陰にもウォークインクローゼットの中にも芹澤芹華の姿は見当たらない。そしてよく見れば、どうやら彼女の置き土産と思われる鼻血と小便の痕跡が、社長室から社屋の廊下、そして玄関からマンションの共用廊下へと点々と続いていた。どうやら諏訪に潰された鼻っ柱からは大量の鼻血を滴らせ、死への恐怖によって弛緩した排泄器官からは大量の小便を漏らしながら、芹澤芹華は一人でさっさと逃げ去ったらしい。

「あーあ、一千万円は貰い損ねるし、動画は削除させられるし、愛しのせりりんの本性はとんだ糞ビッチだったし、諏訪と始末屋には何度も殺されかけるし、それになんと言ってもタバコが吸えねえしで、今日は本当に最悪の一日だったな。早くアパートに帰って、タバコが吸いてえよ。ファック!」

「本当に、今日は最悪の一日だったねえ、健兄ちゃん。あたしも早く帰って、お風呂に入りたいなあ」

 革張りのソファに並んで腰を下ろすと、この半日ばかりの生々流転とした慌しさとめまぐるしさを反芻しながら、安堵の溜息を漏らし合う健蔵と美綺の桑島兄妹。するとそんな二人に向かって、対面のソファに座った海老名警部補は、自身の携帯電話でもって所轄の警察署に応援を要請しながら水を差す。

「申し訳ねえがお前らには、一連の事件の聴取のために、もうちょっとだけ付き合ってもらわなきゃならねえんだ。今夜は署の方に泊まってもらって、たぶん家に帰れるのは、明日の朝になるだろうよ」

「おいおいおい、冗談だろ? 冗談じゃないの? うっそマジかよ! 糞! ファック!」

 絶望と失望に顔を歪めながらも、これで何度目になるのか、健蔵は舌出しダブル裏ピースでもって海老名警部補を挑発した。

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