第九幕


 第九幕



 天を突くようにそびえ立つ鉄とコンクリートの塊に視界の大半を遮られて、見上げた夜空に輝く月もまた、その半分方が隠れてしまっている。

「わお。こりゃまた、随分とでっけえマンションだな」

 まるで白痴か痴呆症患者の如くぽかんと口を開けて夜空を見上げながら、相変わらず『くまのプーさん』もどきの着ぐるみパジャマに身を包んだままの健蔵が、誰に言うでもなく独り言つように呟いた。彼の眼前に天高くそびえ立つのは、人の手によって造られた、巨大な鉄とコンクリートの塊。それは地上三十六階建てで床面積も広く、都心の一等地に建てられた上に築年数も未だそれほど経っていない、見るからに高級そうなタワーマンション。そのタワーマンションの脇を走るコンクリートブロック敷きの遊歩道を健蔵と美綺と海老名警部補の三人は並んで歩きながら、マンションのエントランスを目指す。

 今現在の時刻からほんの少しだけ時間を遡った、欠けた月がちょうど夜空の天辺に差し掛かった頃。警察署の駐車場を出立した覆面パトカーとバイクが都心でも比較的地価の高い地域へと至り、やがて目的地である一棟のタワーマンションの脇を走る市道で減速すると、車体を道路の左端に寄せてからゆっくりと停車した。すると覆面パトカーからは海老名警部補が、それに追従していた大型二輪車であるヤマハYZF-R1からは健蔵と美綺の桑島兄妹が、それぞれ地面へと降り立つ。

「外観から予想はしていたが、やっぱりこのマンション、オートロックか。まったく、防犯意識が高いのは結構だけれど、面倒臭え世の中になったもんだなあ、おい」

 そしてまさに今、タワーマンションの正面玄関に辿り着いた三人の先頭を歩く海老名警部補が、行く手を阻む分厚い強化ガラス製の自動ドアの前で舌打ちを漏らしながら呟いた。と言うのも、彼が呟いた言葉通りタワーマンションの正面玄関はオートロック機構によって施錠されていたがために、鍵を持ったマンションの居住者か、もしくは居住者に許可された者でなければエントランスに入る事すら出来ないからだ。

「入れないじゃん。どうすんだよ、おっさん?」

「今考えてんだから、ちょっと待ってろ。それと何度も言うが、歳上を気安くおっさん呼ばわりすんじゃねえよ」

 再び舌打ちを漏らしながら健蔵の問いに答えた海老名警部補は、首を傾げて考えあぐねる。それにしても健蔵の態度は完全に人任せで、自分達がこれから如何に行動すべきか、自分で考える気はまるで無いらしい。そして残念ながら、海老名警部補の頭の中にも特にこれと言った妙案は浮かばなかったようだ。

「こうなりゃ仕方がねえ。一か八か、正面突破で行くぞ」

 そう言った海老名警部補は、自動ドアの横手の壁に設置されたインターホンの端末に目的の部屋の部屋番号を入力すると、最後に呼び出しボタンを押した。するとプルルルルと言う電子音が鳴ってから暫しの間を置いた後に、スピーカーから聞こえて来た若い女性の声が、事務的な口調でもって尋ねる。

「ありがとうございます、こちらは株式会社ファラエノプシスでございます。お客様のお名前と、ご用件をどうぞ」

「あー……警視庁の者ですが、こちらに諏訪と言う方は居りますかね? もしくは彼が今どこに居るのか、その所在を知っている方は?」

 ジャケットの胸ポケットから取り出した警察手帳をインターホンの端末のカメラに近付けながら、その端末に内蔵されたマイクに向かって海老名警部補が尋ね返した。するとカメラ越しにこちらを見ている筈の若い女性は、少しばかり口篭る。

「……少々お待ちください」

 インターホンの向こうの若い女性が再び事務的な口調でもってそう言うと、どうやら上役か誰かに警視庁を名乗る者の突然の来訪に関して相談しているらしく、海老名警部補と桑島兄妹の三人は自動ドアの前で待たされた。そしてたっぷり五分間ばかりも待たされたかと思えば、素っ気無い「どうぞ」と言う返答と共に強化ガラス製の自動ドアが開いたので、三人はそのドアを潜る。

「この手の気取った高級マンションって奴は、どうも苦手でしょうがねえや」

「奇遇だな、おっさん。俺も苦手だ」

 タワーマンションのエレベーターホールへと続くエントランスを横断しながら、海老名警部補の嫉妬じみた言葉に健蔵が同意した。そしてガスマスクに隠れてその表情はうかがい知れないが、多分警部補と実の兄の貧乏性と僻み根性に呆れながら、無言のまま二人の後について歩く美綺。するとエントランスに設けられたフロントの中に立つ、おそらくはこのマンションの管理会社に雇われているのであろう二人の初老の女性職員が、彼女ら三人を怪訝そうに横目で見ながらひそひそと耳打ちし合っているのが眼に留まる。

「おいババア! 何見てやがる! 見せモンじゃねえぞ! ファック!」

 健蔵が威嚇するように怒鳴りながら舌出しダブル裏ピースでもって挑発すると、初老の女性職員達はそそくさと眼を逸らし、見て見ぬふりを決め込んだ。しかし、誰が彼女達の行為を責められようか。自分達の職場に突如として、いい歳をしながら間抜けな着ぐるみパジャマに身を包んだニート一歩手前の成人男子と、ヘルメットとガスマスクで頭部を完全に覆った女子高生が現れれば、注目するなと言う方が無理であろう。

「まったく、これだからババアは嫌いなんだよ! くせえ香水の匂いをプンプンさせやがって! 絶滅しろ! ファック!」

「やめなよ、健兄ちゃん。健兄ちゃんのその格好が、目立ち過ぎなんだってば。もっと大学生らしく、年相応のちゃんとした格好をしなくっちゃ」

 苦々しげに悪口雑言を垂れ流す健蔵を諭すように美綺は苦言を呈するが、ガスマスク姿の美綺の目立ちっぷりもまた、異様な格好と言う意味では着ぐるみパジャマ姿の健蔵とさほど大差は無い。しかしどうやら健蔵も美綺も自分の格好の異様さには互いに無頓着らしく、たまたまエントランスに居合わせた無関係なマンションの住民による衆人環視の中、海老名警部補と共に堂々とエレベーターホールまで歩き続けた。そしてエレベーターホールに辿り着いた三人は上昇ボタンを押してエレベーターを一階まで呼び出すと、やがて到着した鉄の箱に揃って乗り込む。

「それで、おっさん。ファラエノプシスが在るのは何階なんだ?」

「ネットに載っていた住所によれば三十六階、最上階だ。そのファラ……何とかって言う芸能事務所が在るのはな」

 健蔵の問いにそう言って答えた海老名警部補は、エレベーターの操作パネルに並んだボタンの内の、『36』と書かれたボタンを押した。するとゆっくりとエレベーターは上昇を開始するが、そこで不意に、健蔵の身体を再びニコチン中毒の禁断症状が襲う。

「ちょっと健兄ちゃん、大丈夫?」

 上昇するエレベーターの中で、隣に立っていた実の兄が突然しゃがみ込んだかと思えばガタガタと震え始めたので、彼の背中をさすりながら心配そうな声でもって美綺が尋ねた。

「我が妹よ、やっぱり兄ちゃんは、もう駄目だ」

 掠れ声でそう答えた健蔵の顔面は蒼白で、歯の根は合わずにガチガチと鳴り、額や首筋にはじっとりと脂汗が浮いている。どうやら警察署の取調室での時よりも、今回の方が症状が重いようだ。すると彼は着ぐるみパジャマのポケットからニコチンガムであるニコレットクールミントの紙箱を取り出し、ぶるぶると震える手でもって粒ガムを一粒摘み取ると、口の中に放り込んだそれをクチャクチャと咀嚼する。

「はあああぁぁぁ……」

 前回同様、ニコチンガムに含まれていたニコチン成分が口膣粘膜から体内へと吸収された事によって禁断症状が緩和された健蔵は、恍惚の表情を浮かべながら安堵の溜息を漏らした。先程までは蒼白だった彼の顔色も、今は幾分か血色が良くなっている。

「おいおい、健蔵よお。本当に大丈夫か、お前?」

 なんとかその場で立ち上がりはしたものの、未だ少し足元が覚束無い健蔵の身を案じて、海老名警部補もまた心配そうに尋ねた。すると健蔵は、少しばかり無理のある強引な作り笑顔でもって、右手の親指を立てながら答える。

「大丈夫だよ、おっさん。このニコレットさえあれば……って、おい! 糞! ファック! これ、最後の一粒じゃねえかよ! ファック! ファック! ファック! 予備なんか持って来てねえぞ! 糞! ファック!」

 謙蔵が空になったニコチンガムの紙箱を逆さにして振りながら、やはり語彙が貧困な悪態を吐いた。彼の顔は再び蒼白の色に染まり、その表情は極刑を宣告された大罪人の様に恐怖と絶望の色を隠せず、膝はガタガタと震え始める。どうやら今しがた口に放り込んで咀嚼した一粒を最後に、健蔵が常時携帯していたニコチンガムは底を突いてしまったらしい。

「マジかよ……やべえよ……マジでやべえよ……マジでマジでやべえよ……マジでマジでマジでやべえよ……」

「おい健蔵、お前、本当に大丈夫か? 今にも死んじまいそうな顔してんぞ?」

 か細い声でぼそぼそと弱音を吐き続ける健蔵の身を案じて、海老名警部補が再び尋ねた。しかし尋ねられた当の健蔵はと言えば、死んだ魚の様に光を失った虚ろな眼でもって虚空を見上げるばかりで、まるで要領を得ない。心なしか、彼の伸び放題の髪の毛に、少し白髪が混じったようにも見える。

「おいおいおい、参ったな。お前がそんな有様じゃあ、話になんねえんだがよ」

「こうなっちゃうともう、健兄ちゃんは何の役にも立たないからなあ」

 廃人同然の健蔵を前にして、困惑するやら呆れ果てるやらの海老名警部補と美綺。すると彼らの頭上、エレベーターの天井に設置されたスピーカーがポーンと言うチャイム音と共に、上品そうな女性の声で「三十六階です」と告げた。そして上昇を止めたエレベーターの扉が開くと、健蔵達三人の眼前にはタワーマンションの最上階の廊下がその姿を現す。

「もう着いたか。……ここまで来ちまったからには仕方がねえ。おい健蔵、さっさとその芸能事務所まで行くぞ。背筋を伸ばして、しゃんとしろ。ほら、しっかり前見て歩け。なあに、大丈夫だ。さっき喰った最後のガムの効果が切れる前に、ちゃっちゃと諏訪って奴をしょっ引いちまえばいいだけの話だ。だろ?」

「そうだよ健兄ちゃん。こんな面倒な事件はとっとと解決させて、早く家に帰ろうよ」

 急かす海老名警部補と美綺が半ば強引に健蔵の背を押し手を引く格好でもって、なんとか三人はタワーマンションの廊下を歩き始めた。ニコチンガムの効果で一時的に禁断症状は治まっているが、それでもガムがもう底を突いてしまったショックから立ち直り切っていない健蔵の足取りはよろよろと覚束ず、なんとも心許無い。しかしそれでも、歩き続ければいつかは必ず目的地に辿り着く。気付けば三人はマンションの廊下に並ぶいかにも高級そうなドアの一つの前に立っており、そのドアに貼られたネームプレートには、『株式会社ファラエノプシス』と書かれていた。

「よし、行くぞ。お前ら、覚悟はいいな?」

 海老名警部補がそう言うと、美綺は大きくこくりと、健蔵は弱々しく顎を上下させて頷く。するとそれを確認した海老名警部補は、ドアの脇に設置されたインターホンのボタンを押した。ピンポーンと言う電子的なチャイム音が、広々としたマンションの廊下に響き渡る。

「どうぞ。お待ちしておりました」

 ドアを開けた髪が短くてブラウス姿の若い女性が、そう言って健蔵達三人を出迎えた。おそらくは先ほど正面玄関のオートロック越しに応対したのも、この女性なのだろう。

「どうも、初めまして。警視庁から来ました、海老名と言います。今こちらに、諏訪と言う方は居られますかな?」

「初めまして。当社で社長秘書を務めております、新堀しんぼりと申します。残念ながら諏訪本人は席を外しておりますが、彼に代わりまして、当社の東雲社長が是非とも皆様にお会いしたいそうです」

「なるほど。それでは少しばかり、お邪魔させていただくとしましょうか」

「はい。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」

 応対する社長秘書の新堀に促されて、先頭を歩く海老名警部補とそれに続く桑島兄妹の計三人は、株式会社ファラエノプシスの社屋であるタワーマンションの最上階の一室へと足を踏み入れた。新堀秘書は着ぐるみパジャマ姿の健蔵とガスマスク姿の美綺を眼の前にしても眉一つ動かさず、彼らに対しても丁寧に応対しているあたりはさすが上場企業の社長秘書と評すべきか、もしくは芸能関係の会社なので珍奇な格好の人間には慣れているのかもしれない。とにかく彼女の客人に対する所作は、大人の対応と言うべきだろう。

「うわ、なんか、花くせえ」

 社屋に足を踏み入れた健蔵がそう言うと、眉根を寄せながら鼻を摘んだ。さほど広くない社屋の玄関から廊下にかけて多くのプランターや花瓶が並び、そこに生けられた大量の花がこれでもかとばかりに咲き乱れている。

「この花は?」

「蘭の花を集めるのが、東雲社長の趣味でして。また蘭の花は当社のシンボルであると同時に、トレードマークともなっております。ご存知ですか? 『ファラエノプシス』の言うのは、蘭の花の名前なんですよ?」

 海老名警部補の問いに答えた、新堀秘書。彼女の言う通り、そこに並んでいる花々は、確かにどれも蘭科の花だった。エピデンドルムやゼフィランサス、それにオルキスやシンビジウム、勿論社名の由来であるデンドロビウム・ファラエノプシスも並んでいる。

「俺、花の匂いって嫌いなんだよ。なんか青臭いって言うか、生臭いじゃん」

 鼻を摘んだままの健蔵が、忌々しそうに鼻声で言った。そして隣を歩くガスマスク姿の妹を見遣ると、彼女を羨む。

「我が妹よ、お前はいいよな。ガスマスクのおかげで、このくっせえ匂いを嗅がなくても済んでるんだもんな」

「蘭の花がどんな匂いかは知らないけれど、たぶん、健兄ちゃんのヤニ臭い体臭よりはマシだと思うよ」

 相変わらずガスマスクの吸排気口から「コー、パー、コー、パー」と言う不気味な呼吸音を響き渡らせながら、美綺が愚鈍な兄でも理解出来るような分かり易い皮肉を漏らした。するとその皮肉によってプライドが傷付いたらしい健蔵は、舌出しダブル裏ピースを実の妹に向けながら「ファック!」と叫んで威嚇する。そんな健蔵の幼稚な仕草を他の三人が無視しながら歩き続けると、やがて一行は、豪奢な一枚板で出来たドアの前に辿り着いた。

「東雲社長、お客様をご案内しました」

 マンションの廊下の最奥、掲げられたネームプレートに『社長室』と書かれたドアを新堀秘書がノックしてからそう言うと、低く落ち着いた女性の声が室内から返って来る。

「ああ、お通ししろ」

 返事を確認した新堀秘書が社長室のドアを開いて入室すると、健蔵達三人もまた、彼女に続いて社長室に足を踏み入れた。高級そうで趣味の良い家具が並んだ社長室は広く、またウッドデッキに面した部屋の奥の壁は一面のガラス張りで、そこからは爛々と輝く東京の街の夜景が一望出来る。

「ようこそいらっしゃいました。社長の東雲です」

 部屋の中央に立っていた背が高くて髪の長い女性が右手を差し出しながら名乗ると、こちらへと歩み寄って来た。

「どうも。警視庁から来ました、海老名です」

 海老名警部補もまた名乗りながら右手を差し出し、東雲と名乗った妙齢の女性と握手を交わす。東雲社長はスタイルの良い器量良しだが、既に結構な高齢らしく、深く刻まれた目尻の皺やほうれい線を厚化粧とサングラスによって隠している事は彼女自身も否定出来ない。そして海老名警部補と握手を交わし終えた東雲社長は、警部補の背後に立つ健蔵と美綺を一瞥してから尋ねる。

「そちらのお二人は?」

「こいつらは、まあ、俺が追っている事件の目撃者と言うか、証人みたいなもんですかね。男の方の名前は健蔵。それとガスマスクの嬢ちゃんの名前は……美綺……だっけ?」

 桑島兄妹の二人を指差しながら、海老名警部補が言った。ガスマスクの印象が濃過ぎたせいか、どうやら彼は美綺の名前はうろ覚えだったらしい。

「あ、ちーす。桑島健蔵です」

「妹の美綺です」

 ぺこりと小さく頭を下げながら、自己紹介する桑島兄妹。すると東雲社長は彼ら二人の珍奇な格好を前にしても嫌な顔一つせず、むしろニコリと微笑みながら、来客に椅子を勧める。

「どうぞ皆さん、お掛けください」

 勧められるがままに、海老名警部補と桑島兄妹の計三人は、マホガニー材のフロアテーブルを挟んで向かい合うように置かれた一対の革張りソファの片側に並んで腰を下ろした。すると東雲社長もまた彼らの対面のソファに腰を下ろすが、秘書の新堀だけは上司である社長の背後の壁際に静かに立ち、出来るだけ目立たないようにそっと気配を消す。先程の来客に対する所作と言い、どうやらこの会社では、礼儀作法に関する教育は徹底されているようだ。

「これはまた、見事な花ですな。確か、蘭の花でしたっけ?」

 フロアテーブルの中央の花瓶に生けられた満開の花を指差しながら海老名警部補が尋ねると、それを聞いた東雲社長は再びニコリと微笑みながら、嬉しそうに答える。

「ええ、そうですの。あたしは下の名前が蘭子と言いまして、そこから蘭の花が自分のラッキーアイテムだと信じておりましてね? ですから若い頃から、身の回りから蘭の花を絶やした事がありませんの」

 そう答えた東雲社長に向かって海老名警部補もまたニコリと微笑み返したが、その笑みは少し引き攣った、出来の悪い即席の作り笑いだった。どうやら彼は、あまり他人に対して愛想良く接すると言う状況には慣れていないらしい。するとそんな海老名警部補に、今度は東雲社長が尋ねる。

「それで、刑事さん。わざわざ当社の社屋にまで足を運んでいただいて、どのようなご用件でしょうか? 確か、当社の諏訪を探しているとか仰ってましたっけ?」

「まさにその通りですよ、社長さん。こちらの会社に所属している諏訪と言う男に、ちょっと聞きたい事がありましてね。彼が今どこに居るのか、ご存知でしたら是非とも教えていただけませんかな?」

「申し訳ありませんが、今現在の諏訪の所在は、あたしにも分かりかねます。彼の携帯電話も電源が落とされているようでして、先程から何度か通話を試みたのですが、一向に繋がりませんの。……それで刑事さん、諏訪に聞きたい事とは、一体何でしょうか?」

 再び、東雲社長が海老名警部補に尋ねた。すると何かの駆け引きでもするかのような含みを持たせた口調で、海老名警部補は答える。

「実は彼には、こちらの桑島健蔵くんとその妹の美綺さんに対する殺人未遂の嫌疑がかけられておりましてね。それで、その件でちょっとお話を聞かせていただけたらと思っていたんですが、不在でしたら仕方が無い。他をあたるとしましょう。……ああそうだ、よろしければ社長さん、あなたにも是非観ていただきたい動画があるんですよ。この動画を観た上で、少しばかり質問させていただきたいんですが、よろしいかな? ……おい健蔵、この社長さんに、例の動画を観せてさしあげろ」

「え? ああ、おう、分かったぜおっさん」

 海老名警部補に肘で小突かれた健蔵はそう言うと、背負っていたデイパックの中から自身のノートPCを取り出し、それをマホガニー材のフロアテーブルの上に置いた。そしてOSを起動させるとHDD内のマイドキュメントを漁り、液晶画面を東雲社長の方に向けてから、件の動画を再生させる。すると中野ブロードウェイの近くの路地裏を歩く着ぐるみパジャマ姿の健蔵が大写しになった後に、やがて動画は問題の箇所に差し掛かった。

「どうですか、社長さん? こちらに映っているのは御社の諏訪と、彼がマネージャーを務めている芹澤とか言うアイドルではありませんかな?」

 動画に映る諏訪と、彼の隣でタバコをくゆらせている芹澤芹華を指差しながら東雲社長に問う海老名警部補。すると東雲社長は微笑みを絶やさず、まるで動じていないかのように眉一つ動かさないまま、涼しい顔で答える。

「ええ、確かにこれは当社の諏訪と、当社に所属するアイドルの芹澤に間違いありません。あらあら、いけませんね。未だ未成年だと言うのに、公共の場でこんなに堂々とタバコを吸うなんて」

 この動画の存在を知っていた筈なのに、東雲社長は白々しくもとぼけたような口調でもって、そう言ってのけた。そして彼女は着ていたビジネススーツの胸ポケットからタバコの紙箱とガスライターを取り出すと、海老名警部補に喫煙の可否を尋ねる。

「お客様の前で失礼とは存じますが、吸ってもよろしくて?」

「どうぞ、お気になさらずに。俺もここに居る健蔵も喫煙者ですからね。この場所が正確にはあんた個人の個室ではなくても、留め立てなんて野暮な真似はしませんよ」

「それはそれは。それでは刑事さん、遠慮無く吸わせていただきます」

 海老名警部補の返答を待ってからタバコを一本咥えた東雲社長は、彫金が施された愛用のガスライターでもって、その先端に火を着けた。タバコの銘柄は相変わらずの、マルボロライトメンソール。そして肺の奥深くまで息を吸い込んでタールとニコチンの風味を味わってから、海老名警部補に当て付けるかのように、天井に向かってゆっくりと紫煙を吐き出す。それはまるで、自分は警察官を前にしてもまるで動じていない事を誇っているかのような素振りだった。

「ちょっと健兄ちゃん、大丈夫?」

「おい、どうした健蔵?」

 海老名警部補と美綺に挟まれてソファに座る健蔵がにわかにガタガタと震え始めたので、二人は心配して声を掛けたが、健蔵の震えは治まらない。すると東雲社長もまた声を掛けるが、それは純粋に心配していると言うよりも、むしろ健蔵の奇行を訝しんでいると言った風な口調である。

「あら、どうされましたの? 何か、持病でもおありで?」

「健兄ちゃんは、重度のニコチン中毒なのだ」

「そうなの。ニコチン中毒なのに自由にタバコが吸えないなんて、ご愁傷様」

 そう言うと再び、今度は健蔵に対して当て付けるかのような素振りでもって、東雲社長はタバコの煙を天井に向かって吹かして見せた。

「あああぁぁぁ、タバコが吸いたいタバコが吸いたいタバコが吸いたいタバコが吸いたいタバコが……」

 東雲社長が余裕綽々とでも言いたげにタバコを吹かす眼前で、ソファの上で身体を丸めて頭を抱えた健蔵は、まるで怨嗟の言葉の様に「タバコが吸いたい」と言う一言をブツブツと呟き続ける。しかし勿論、ここは彼の個室ではない。故に、たとえ地権者である東雲社長と警察官である海老名警部補が許したとしても、この部屋でタバコを吸えば国民健康増進法違反にあたる事は明々白々であった。そして何があろうとも決して法は犯さないと固く心に誓っている健蔵は、蒼白の顔面にじっとりと脂汗を浮かせ、膝と顎をガタガタと震わせながらも、頭を抱えてジッと禁断症状に耐え続ける。

「……それで、刑事さん。今日ここにいらしたのは、公共の場で、しかも未成年だと言うのにタバコを吸った罪で芹澤を逮捕するためでしょうか? それとも管理不行き届きの罪で、諏訪を逮捕するためでしょうか?」

 禁断症状に耐え続ける健蔵は一旦無視して、東雲社長は改めて、海老名警部補に来訪の主旨を尋ねた。すると海老名警部補は何か含みがありそうにほくそ笑みながら、健蔵のノートPCの液晶画面で再生されている動画の一部分を指差すと、問う。

「ここに映っている、この男。御社の諏訪と何やら密談を交わしているようにも見えるこの白人の男に、見覚えはありませんかな?」

「?」

 問われた東雲社長は眉間に皺を寄せながら液晶画面に顔を近付けると、海老名警部補が指差す白人の男をジッと凝視した。今の彼女の表情からは、先程までの余裕綽々とでも言いたげな鷹揚の色が消えている。どうやら警部補の問いと動画に映った白人男性の存在は、彼女にとっても予想外の事案だったらしい。

「……いえ、存じ上げませんね。どなたですか、この男性は? 当社の諏訪とこの男性との間に、何か関係が?」

「本当に知りませんか? 過去にこの男が、御社の諏訪と一緒に居る姿を見かけた事は?」

「いいえ、存じ上げません」

 海老名警部補の問いを、東雲社長は繰り返し否定した。そんな彼女に、警部補は彼が追っている事件の要旨を説明する。

「俺は別に、ちょっとばかしタバコを吸ったからってアイドルを逮捕する気も無いし、管理不行き届きでその保護者であるマネージャーを逮捕する気もさらさら無い。そんな案件は、点数稼ぎが大好きな交番勤務の巡査にでもやらせておけばいい事だ。事実、厳密に言えば眼の前のあんたも国民健康増進法違反だが、別に俺はあんたを現行犯逮捕する気は無いからな。そんな事よりも重要なのが、ここに映っている白人の男が何者かと言う事と、その男を拳銃で射殺した嫌疑がかけられている御社の諏訪の動機、そして犯行に使われた拳銃の入手先でしてね。……どうですか、社長さん? 何か思い当たる節は?」

「……いいえ、何度も言いますが、存じ上げません。この男性に関しては、本当に何も知りませんの」

 そう返答した直後、東雲社長はハッと息を呑み、「しまった」とでも言いたげな表情を浮かべた。そして彼女とは真逆に、海老名警部補はその顔に浮かんだ笑みを深くする。

「ほう? 「この男性に関しては」ですか? ……と言う事は、他の男性については何かを知っておられるんですかな?」

 それは海老名警部補が会話の中に仕掛けた、至極基礎的で初歩的なブラフだった。彼が追っているもう一つの事件、つまりフリーのジャーナリストである箕輪宏が射殺された事件にはあえて触れない事によって、相手が先にその件に触れてしまうのを待つと言った姑息なやり口である。そしてその基礎的で初歩的なブラフに、東雲社長はまんまと引っ掛かる格好となっていた。

「おや、どうしました社長さん? 顔色が優れませんよ?」

「……」

 罠に嵌まった獲物を追い詰める猟師ハンターの様な表情の海老名警部補とは対照的に、その顔から余裕の笑みが完全に消え失せた東雲社長は言葉も無く歯噛みするばかりで、二の句が継げない。すると海老名警部補は彼女の顔を覗き込むようにしてずずいと顔を近付けると、追及の手を休ませる事無く問い質し続ける。

「どうやらあんたは、諏訪がやらかした殺しに関して何かを知っているようだな。もしかすると、あんたがこの一連の事件の黒幕か? ……まあ、詳しい事に関しては諏訪の所在をハッキリさせてから、彼と一緒に署の方でお聞きする事にしましょう。いいですね、社長さん?」

「……くっ……」

 手玉に取られた屈辱でもって紅潮した顔を俯かせ、肩をわなわなと震わせながら、悔しそうに歯噛みするばかりの東雲社長。こうなってしまっては、彼女にはもう潔く観念する以外の道は残されていない。するとその時、広壮な社長室の中でも出入り口に近い壁沿いに設けられた観音開きの扉が、小さなきいと言う音と共にゆっくりと開いた。その扉はソファに腰を下ろした海老名警部補と桑島兄妹の三人からは背後の死角に位置するために、彼らは未だ扉が開いた事には気付いていない。そしてその観音開きの扉の奥から、二つの人影が姿を現す。

「まったく、無様なものだな、社長。任せておけと言うから任せておいたら、結局はこのザマか。嘆かわしい」

 二つの人影の内の背の高い方の一人が、溜息混じりに呟いた。その呟きに、ようやく背後の扉が開いた事と新たな闖入者の存在に気付いた健蔵達三人が振り返る。するとそこに立っていた二つの人影は、オールバックの髪の男こと諏訪秀巳と、今売り出し中のアイドルせりりんこと芹澤芹華の二人であった。そして相変わらず歯を剥いてニタニタと笑っている諏訪の手には消音装置サイレンサーが装着された自動拳銃オートピストル、つまり健蔵が解説するところのスチェッキンAPBが握られており、当然ながらその銃口はこちらへと向けられている。

「あんたが諏訪か。直接会うのはこれが初めてだから、一応は初めましてと挨拶させてもらおうか。俺は警視庁から来た海老名ってモンだが、今後ともよろしくな。……ところで、そんな物騒なモンをこっちに向けないでくれるかい? それと出来れば、こちらの社長さんとそちらのアイドルの嬢ちゃんと一緒に大人しく署まで来てくれると助かるんだが、まあ、その気は無いんだろうな」

「良く分かっているじゃないか。日本の刑事にしては、話が早い。お前らと一緒に警察署に出頭するなんて、まっぴらご免だからな」

 海老名警部補の要請を、さも当然と言った口ぶりでもって諏訪は拒否した。そして手にした自動拳銃オートピストルの照準を海老名警部補に合わせると、くいっくいっと銃口を数回上下させ、彼にソファから立ち上がるように促す。促された海老名警部補は諏訪の要請に素直に従い、ゆっくりと立ち上がると、軽く両手を挙げて降参の意思を示した。現役の警部補とは言え、実弾が詰まった実銃の銃口を向けられては抵抗の仕様も無い。

「それにしても、まさかそんな所に二人揃って隠れていたとはね。息苦しくはなかったのかい?」

 そう言った海老名警部補が観音開きの扉越しに、諏訪と芹澤の二人が先程まで身を隠していた部屋の中を一瞥すると、嘲笑するかのようにくっくとほくそ笑む。東雲社長の私物と思しき衣服や靴や鞄等が所狭しと並んだその部屋は、どうやら社長室に付随した四畳半程度の広さのウォークインクローゼットらしく、確かにそんな狭い部屋に身を隠していてはさぞや息が詰まったに違いない。

「黙れ。何がおかしい。笑うな」

「おっと、気に障ったかい? そんなにカッカするなよ。だいたい、笑ってるのはお互い様じゃねえか」

 ほくそ笑みながらそう言った海老名警部補と、歯を剥いてニタニタと笑ったまま凄んでみせた諏訪とが対峙した。そして海老名警部補は、改めて諏訪に問う。

「警察が来たら慌てて身を隠したって事は、それだけ疚しいところがあるんだろう? するってえとやっぱり、お前さんが一連の殺しの犯人って事で間違い無いんだな? だとしたら、是非とも知りたいね。アイドルのマネージャーのお前さんが、何故ジャーナリストの箕輪宏を殺したのか。それと箕輪宏の前にお前さんが殺したあの白人の男は、一体全体、どこの誰なのか。そしてそんな物騒なロシア製の拳銃なんかを、お前さんがどこで手に入れたのか。この三点について、わざわざこんな所にまで訪ねて来てやったんだから、教えてくれてもいいだろう?」

「……そうだな。少しくらいなら、お前の疑問に答えてやってもいいだろう」

 自動拳銃オートピストルを構えたままの諏訪が、その顔に浮かべた笑みをより一層深めながら、海老名警部補の要請を了承した。

「ご推察の通り、あの箕輪とか言うデブを殺したのも、フェドート……お前らの言う白人の男を殺したのも、どちらも私だ。そして箕輪を殺したのは、奴が芹華が喫煙する姿を映した動画の存在に気付いたから、口封じとして殺した。フェドートは、迂闊にも公安に正体が知られたから、証拠隠滅のために殺した。その二つの事実は認めてやろう。だがしかし、教えてやるのはそこまでだ。お前には今ここで、すぐにでも死んでもらう。もたもたしている内に万が一にも逃げられて、仲間を呼ばれでもしたら厄介だからな」

 そう言った諏訪は腰だめで構えていた自動拳銃オートピストルを構え直し、海老名警部補の胸にぴたりと照準を合わせる。

「おいおい、随分とせっかちな奴だな。まだ全部の質問には答え終わってねえのに、もう俺を殺そうってのかよ。だったらせめて、撃ち殺す前に一本だけタバコを吸わせてくれねえか? 後生だから、頼むよ? な?」

「駄目だ。私は人前で平気でタバコを吸うような、礼儀作法のなっていない奴は大嫌いなんでね」

 そう言い終えるや否や、諏訪は手にしたスチェッキンの引き金を躊躇無く引き絞った。すると消音装置サイレンサーによって減衰された「プシュッ」と言う銃声と共に発射された拳銃弾が、タバコを取り出そうとワイシャツの胸ポケットに手を延ばしかけていた海老名警部補の胸に穴を穿ち、着弾の衝撃でもって彼の身体がビクッと跳ねる。

「ぐっ……」

 苦悶の呻き声を喉から漏らしながら、銃撃を受けた海老名警部補ががくりと膝を突いた。そしてそのまま力無く、穴が穿たれた胸を押さえたまま前のめりに崩れ落ちると、まるで諏訪に向かって土下座をするかのような体勢でもって板敷きの床に倒れ伏す。倒れ伏した海老名警部補の身体はぴくりとも動かず、諏訪が構えたスチェッキンから排出された真鍮製の空薬莢が、紫煙を纏いながらころころと床を転がった。

「おっさん!」

「警部補さん!」

 健蔵と美綺が叫び、倒れ伏したまま動かない海老名警部補の元へと駆け寄ろうとする。

「おっとお前ら、勝手に動くんじゃないぞ? お前らもすぐにその刑事の後を追わせてやるから、それまでは大人しく手を挙げて、後ろに下がっていろ」

 そう警告した諏訪が健蔵と美綺にスチェッキンの銃口を向けたので、桑島兄妹の二人は不本意ながらも大人しく彼に従い、両手を挙げたまま後退る。すると彼ら桑島兄妹とは逆に、スチェッキンを構えた諏訪の元へと歩み寄る人影があった。その人影は、紙箱から取り出した二本目のマルボロライトメンソールを咥えた東雲社長。つい先程までは海老名警部補の追及によって余裕の色を失い、顔面を紅潮させて歯噛みするばかりだった彼女の表情は、今はまた以前の鷹揚さを取り戻している。

「よくやったぞ、諏訪。見事な働きだ」

 武勲著しい兵卒を労う将官の様な仕草でもって、東雲社長は諏訪の肩をぽんと叩いて彼を褒め称えた。既に勝利を確信しているのか、彼女はタバコをくゆらせ、真っ赤なルージュで濡れた唇の隙間からゆっくりと紫煙を吐き出す。するとそんな彼女の態度が癪に障ったのか、歯を剥いてニタニタと笑い続ける諏訪の表情が僅かに引き攣ったのだが、昂然とするばかりの東雲社長はその事実に気付かない。

「ところで諏訪、さっきこの刑事が執拗に正体を聞き出そうとしていたが、例の動画の中でお前の隣に立っていた白人の男は誰なんだ? 刑事の口ぶりからすると、どうやらお前はその男もデブのゴシップ記者と同じように始末したらしいが、一体その男との間に何があった? 公安に正体が知られたからとは、どう言う意味だ? あたしはそんな男を始末するように命令した覚えは無いのだから、何か、事務所とは関係の無い個人的なトラブルか?」

 東雲社長が、諏訪に問い質した。すると諏訪は、健蔵達に向けていたスチェッキンを構え直すと、消音装置サイレンサーが装着された銃口を東雲社長の豊満な胸におもむろに押し当てる。

「そこまで知ってしまったからには、もうお前らともお別れだ。それに、さっき言ったろう? 私は人前で平気でタバコを吸うような、礼儀作法のなっていない奴は大嫌いなんだよ。それを理解したら、さっさと死ねよ、ババア」

「……何だと?」

 東雲社長が困惑の声を上げるのとほぼ同時に、諏訪がスチェッキンの引き金を引き絞った。すると「プシュッ」と言う消音装置サイレンサーによって減衰された銃声と共に拳銃弾が発射され、今度は東雲社長の胸に穴を穿つ。

「え……?」

 驚愕と困惑、そして狼狽と混迷が入り混じった声と表情の東雲社長は、穴が穿たれた自身の胸を手で押さえながらよろよろと後退った。彼女が着ているワイシャツとビジネススーツの胸元が、溢れ出る鮮血でもって見る間に赤く染まる。

「社長!」

 そう叫びながら、銃撃された東雲社長の元へと誰よりも早く駆け寄ったのは、社長室の壁際で静かに立ち続けていた秘書の新堀だった。彼女は今にも床に崩れ落ちてしまいそうな東雲社長の身体を支えながら、意識を失わないように、また外傷性ショックでもって死に至らないように、必死で雇い主を鼓舞する。

「社長! しっかりしてください! ほら、しっかり息を吸って! 吐いて! あたしの眼を見て、気を確かに持ってください!」

 新堀秘書は必死で東雲社長を鼓舞し続けるが、鼓舞される側の東雲社長の顔面は蒼白で、血の気を失った唇から漏れる呼吸は荒く、浅い。不幸中の幸いか、至近距離から胸を撃たれながらもなんとか即死だけは免れ得たようだが、それでも致命傷を負っているであろう事は誰の眼にも明らかだった。そしてそんな新堀秘書と東雲社長の二人を、健蔵と美綺の桑島兄妹はぽかんとした表情で見つめながら、眼の前で何が起きているのかが理解出来ずに呆けている。

「諏訪! 貴様、一体何故こんな事をする!」

 死に行く東雲社長の身体を支えながら、相変わらず歯を剥いてニタニタと笑ったままの諏訪をキッと睨み付けた新堀秘書が、怒声を浴びせるように問い質した。すると諏訪は彼女の問いには答えずに、手にしたスチェッキンの銃口を今度は新堀秘書へと向ける。

「黙れ、この糞レズビアンのメス豚が。お前もそのババアと一緒に死ぬんだよ」

 そう言い終えるや否や、再び一切の躊躇無く、諏訪はスチェッキンの引き金を引き絞った。すると「プシュッ」と言う銃声と共に銃口から射出された拳銃弾は新堀秘書の顔面を直撃し、左の眼球を貫通した後に眼底を貫いて頭蓋骨の内部へと侵入すると、生命維持機能と運動機能を司る脳幹と小脳をぐちゃぐちゃに破壊する。そして鮮血と脳漿を纏った銃弾が後頭部から抜けると同時に、新堀秘書は絶命した。

「新堀!」

 今度は東雲社長が新堀秘書の名を叫び、床に崩れ落ちて行く彼女の身体を支えようとする。しかし既に絶命している新堀秘書の身体は重く、それを支えようとする東雲社長の腕をすり抜けるかのように崩れ落ちると、板敷きの床に力無く転がった。断末魔の悲鳴を上げる事も、最後の言葉を残す事も無く、今しがたまで生きていた筈の新堀秘書は物言わぬ死体と化す。

「ひっ!」

 眼の前で立て続けに三人の人間が銃撃された事に、間抜けな着ぐるみパジャマ姿の健蔵もまた驚愕と恐慌の悲鳴を禁じ得ないが、彼の隣に立つ美綺の表情はガスマスクに隠されていてうかがい知れない。

「新堀! おい新堀! しっかりしろ! 眼を開けろ!」

 東雲社長は尚も新堀秘書の名を叫び続けながら床に崩れ落ちた彼女の肩をがくがくと揺するが、当然ながらもう二度と、瞳孔が開き切った瞳で虚空を見つめる新堀秘書の死体が息を吹き返す事は無かった。そして東雲社長自身は、ごふっごふっと咳き込みながら鮮血の混じった吐息を漏らし、彼女もまた死の淵に立たされている事を如実に語る。

「おい諏訪! お前、一体何やってんだよ! 社長と新堀を撃つなんて、あたしは聞いてねえぞ? 刑事とそこの間抜けな格好の兄妹の三人を殺して、証拠隠滅するだけじゃなかったのかよ!」

 諏訪の背後に立っていた芹澤芹華が、何故自分のマネージャーの諏訪が彼の上司である東雲社長と新堀秘書を銃撃したのか、その理由が理解出来ずに問い質した。すると諏訪は彼女の方に向き直り、スチェッキンを持った右手を振りかぶる。

「黙れ、メスガキ」

 そう言った諏訪は、手にしたスチェッキンのグリップの底の部分、刀や槍で言う所の柄尻にあたる部分でもって芹澤芹華の鼻っ柱をしたたかに殴り付けた。

「痛っ!」

 ゴツッと言う鈍い衝撃音と共に、鼻っ柱を潰された芹澤芹華。彼女はその場に蹲ると、苦痛の呻き声と共に真っ赤な鼻血を左右両方の鼻腔から漏らし、その鼻血がぽたぽたと垂れて板敷きの床の上に小さな血溜まりを作る。

「せりりん!」

 流血しながら呻き声を上げる芹澤芹華の姿を眼にした健蔵が、さすがに駆け寄って抱きかかえこそしなかったものの、反射的に彼女の名を呼んでその身を案じた。どうやら彼は芹澤芹華の下劣で下品な本性を知ってしまった今も尚、彼女の大ファンであった頃の想いを完全には捨て切れずにいるらしい。そして当の芹澤芹華は、自分を殴り付けた諏訪をキッと睨み据える。

「コラ諏訪! てめえ、このあたしに向かって何しやがんだ! 痛えじゃねえか!」

「黙れと言ったんだ、このメスガキが! お前には、今日の今日まで散々こき使われて来た恨みがあるからな! しかもこの私の前で、遠慮もせずに臭いタバコをスパスパと吹かしやがって! 少しは目上の人間に対する礼儀と言うものを学んでから、ゆっくりと苦しんで死ぬがいい!」

 諏訪は怒気の混じった声でもってそう言うと、蹲った体勢のままこちらを睨み据えて来る芹澤芹華の顔面を、再びスチェッキンのグリップの底でもってしたたかに殴り付けた。潰れた鼻っ柱に続いて今度は左瞼の上の皮膚がざっくりと切れ、傷口から流れ出た鮮血が彼女の左目を塞ぎ、頬を濡らす。

「痛え! 糞! 糞、糞、糞!」

「ははは、いい気味だ! せいぜい痛がって泣き喚いて、私を恨むがいいさ! どのみちお前らは、ここで全員死ぬんだからな! そしてその後で、私は悠々と祖国に帰らせてもらうとするよ!」

「……祖国? それは一体、どう言う意味だ?」

 諏訪が発した『祖国』と言う、日常会話ではあまり聴き慣れない単語に、既に虫の息の東雲社長が呼吸を荒げながら問うた。すると問われた諏訪は、その顔に浮かべた笑みをより一層深めながら答える。

「そうとも社長、我が祖国だ。……実はね、私は日本人ではないのだよ。とある国からこの平和ボケした日本と言う国に、ちょっと安っぽい言葉ではあるが、ある種の政治スパイとして送り込まれて来た諜報員なのさ。そして日本を中心に東アジア全域の情報を祖国に提供していたのだが、そこの馬鹿が撮った動画が原因で警察に眼を付けられてしまったからには、どうやらもう潮時らしい。運悪く公安に正体を知られたフェドートを始末したばかりだったから、引き際としてはちょうどよかったんだろうさ。……入国管理局に怪しまれる事無くアジア中を飛び回れるアイドルのマネージャーと言う立場を捨てるのは、少しばかり勿体無いがね」

「……つまりお前は、その祖国とやらから送り込まれた政治スパイで、我が社の社員を装いながらスパイ活動をしていたと言う事なのか?」

「そうとも、まさにその通りだよ、社長。しかし困った事に、さっきお前が素性を知りたがっていた白人の男、つまり私の諜報員としての部下のフェドート・ニマエフと言う男が迂闊にも日本の公安に正体を知られてしまってね。それで公安の追及の手が私にまで伸びて来る前にこの手で始末したんだが、まさかフェドートと私が密会している現場を、そこの馬鹿に動画で撮影されているなんて思いもしなかったよ。まったく、世の中は何が起こるか分かったもんじゃない」

 そう言った諏訪は、彼の言うところの『そこの馬鹿』、つまりは間抜けな着ぐるみパジャマに身を包んだ健蔵を指差しながらくっくと笑った。

「しかし社長、お前もよくよく運が無い。そこの馬鹿の始末と動画の元データの回収を私だけに任せておいてくれれば死なずに済んだのに、よりにもよって始末屋を雇ったんだからな。その結果としてお前はフェドートの存在を知ってしまい、始末屋が派手に暴れ回ったせいで、警察にも動画の内容を知られてしまった。こうなってしまってはもう、事の真相を知る者を全て殺して、状況をリセットするしか方法は無いのだよ」

 笑いながらそう言った諏訪は、手にしたスチェッキンの銃口を芹澤芹華の頭部に押し付ける。

「それじゃあ芹華、特に名残惜しくも無いが、これでお別れだ。……そうそう、はっきり言ってお前の歌は、何が言いたいんだかさっぱり訳が分からなかったよ。もしもお前がまた人間に生まれ変わる事が出来たなら、来世ではもうちょっとマシな歌を歌うんだな」

「嫌だ嫌だ! こんな所で、こんな若さで死にたくないいいぃぃぃっ! やめてやめて! 何でもするから、何でも言う事を聞くから、お願いだから殺さないでええぇぇっ! お願いだからああああぁぁぁぁっ!」

 頭部に銃口を押し付けられた芹澤芹華は恥も外聞も無く、見目麗しい筈のその顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡らしながら失禁すると同時に、大音量の涙声でもって往生際の悪い命乞いの言葉を漏らした。ジョボジョボと言った音を立てながら零れ落ちた小便が脚を伝って床に広がり、小さな黄色い水溜りを作る。そして当然ながら、命乞いの言葉も失禁した事実も、彼女の生殺与奪の権限を握った諏訪にとっては何の意味も為さない。

「駄目だね。お前はここで頭を吹っ飛ばされて、惨めに死ぬんだよ、芹華」

「嫌だああああぁぁぁぁっ!」

 芹澤芹華の命乞いも空しく、諏訪がスチェッキンの引き金に掛けた指に力を込めた。だが次の瞬間、不意にピンポーンと言う電子的なチャイム音が社屋の玄関の方角から聞こえて来たので、彼は指に込めた力を緩める。

「誰だ、こんな時に?」

 話の腰を折られる格好になった諏訪が、舌打ちを漏らしながら忌々しそうに呟いた。すると健蔵が手を挙げたまま、彼に向かって間抜けな問いを投げかける。

「なあ諏訪さん、誰が来たか、確認しねえの?」

「するか、この馬鹿! いいから無視しろ、無視だ」

 その場に居合わせた全員に、チャイムは無視するように命令する諏訪。しかし彼の命令も空しく、その後もピンポンピンポンと、チャイムはしつこく何度も連打された。その喧しさと鬱陶しさに、さすがの諏訪も苛立ちを隠せない。

「ええい、喧しい! 一体どこの馬鹿だ!」

 痺れを切らした諏訪がそう叫んだ、その直後。バキンと言う一際大きな破砕音がドアの向こうから聞こえて来たかと思えば、一拍遅れてからガランガランと何か大きくて硬い物体が廊下を転がる轟音がマンション中を響き渡り、その衝撃でもって建屋自体が僅かに揺れる。すると破砕音を銃声と勘違いし、自分が撃たれたと思った芹澤芹華が「ひっ!」と言う小さな悲鳴と共に、再びジョボジョボと小便を漏らした。しかし勿論その音は銃声ではなく、どうやら想像するに、最初の破砕音は誰かが玄関の分厚いドアを力任せに蹴破った音らしい。そしてそれに続く轟音は、おそらくは蹴破られたドアが廊下を転がる音だろう。

「何だ?」

 連続して響き渡った二度の轟音に驚き、その出所を訝しむ諏訪。すると彼の耳にゴツンゴツンと板敷きの床を底の硬い革靴で歩く足音が届いたかと思えば、その足音は次第に大きくなり、社長室のドアの前で止まった。その場に居合わせた全員が、ドアに注目する。そしてノックすらせずに、玄関のドアに続いて、廊下に立つ何者かは社長室のドアをも力任せに蹴破った。蹴破られたドアが建材として使われていたコンクリート片や木片を周囲に撒き散らかしながら、再びの轟音と共に社長室の床を転がる。

「……お前か」

 そう言って得心した諏訪が、社長室に足を踏み入れた新たなる闖入者に向かってスチェッキンを構え直した。ドアを蹴破って入って来たその闖入者とは、もはや言わずもがなの、トレンチコートの大女こと始末屋である。

 今ここに、全ての役者が揃った。

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