第八幕
第八幕
宵闇が迫りつつある、茜色の夕焼け空。その夕焼け空から差し込むオレンジ色の光に照らされた、都内某所の警察署。そんな警察署の四階にずらりと並ぶ取調室の一室に、トラックの衝突事故の重要参考人として、任意同行を求められた健蔵と美綺の桑島兄妹は拘留されていた。勿論拘留とは言っても、容疑者として逮捕された訳ではない。しかし仮に任意同行であれ、実質的には強制的に連行されて来て取調を受けているので、事実上の拘留と表現しても過言ではないだろう。しかし今現在の二人の立場はあくまでも重要参考人なので、取調室のドアは施錠されていない。しかし施錠されていないからと言って無断で出て行けば、却って彼らの立場の方が危うくなる事は火を見るよりも明らかだ。場合によっては、参考人から容疑者へと、悪い意味でグレードアップしてしまう。それ故にニート一歩手前の愚者である健蔵もまた、今は国家権力の横暴に対して反旗を翻す事無く、彼らをここまで連れて来た警察官の命令に大人しく従っているのだ。
「健兄ちゃん、大丈夫?」
「駄目だ、我が妹よ。兄ちゃんはもう限界だ」
隣に座る、警察署内でも堂々とガスマスクを装着したまま事情聴取に応じた美綺の問いにそう答えた健蔵は、着ぐるみパジャマのポケットを探った。そしてポケットからニコチンガムのニコレットクールミントの紙箱を取り出すと、中に入っていた粒ガムを一粒口に放り込み、クチャクチャと咀嚼する。
「はあああぁぁぁ……」
暫しの間を置いた後に、血色が良くなった顔に恍惚の表情を浮かべながら、安堵の溜息を漏らす健蔵。どうやらニコチンガムに含まれていたニコチン成分が口膣粘膜から体内へと吸収され、ニコチン中毒の禁断症状は緩和されたらしい。
「健兄ちゃんのニコチン中毒、どんどん酷くなるね。いい加減に、タバコなんか吸うのやめたらいいのに」
「黙るがいい、我が妹よ。兄ちゃんはもう既に、タバコ無しでは生きられない身体なのだ。このままタバコと共に滅び行く
「自分では格好良い事言ったつもりなのかもしれないけれど、今時流行んないよ、そう言うの」
取調室の中で美綺が健蔵に苦言を呈した、ちょうどその頃。彼らに対して事情聴取を行なった取調官は所属する捜査一課の自身の席で供述調書の内容を確認しながら、何やら渋い顔をしていた。するとその様子に気付いた一人の中年男性が近付いて来て、取調官に声をかける。
「どうした、難しい顔をして? 何か気になる事でもあったのか?」
「ああ、海老名さん。いえちょっと、下の取調室に今、変な二人組が来てましてね」
「変な二人組?」
「ええ、変な二人組です。兄と妹の兄妹で、交通事故の重要参考人として事情聴取したんですけれど、格好も変なら言ってる事もなんだか色々とおかしいんですよ。これって、薬物の検査もした方がいいですかね?」
そう言いながら取調官が差し出したプリントアウトされた供述調書を、海老名と呼ばれた中年男性は受け取った。この中年男性こそは、フリーのゴシップ記者である箕輪宏が射殺された事件を追っている、海老名警部補その人である。そして彼の白髪交じりの頭髪は今日もボサボサで、顎には無精髭が浮かび、安物のスーツとワイシャツはネクタイも締めずにだらしなく着崩れていた。
「それで、具体的にそいつらの言ってる事の、どこら辺がおかしいんだ?」
受け取った供述調書をぱらぱらと流し読みしながら海老名警部補が尋ねると、取調官は一度深く嘆息してから説明する。
「なんでもですね、アイドルの芹澤芹華が路上でタバコを吸っているところをたまたまビデオで撮影したら、住んでいるアパートに黒人の女殺し屋がやって来て殺されかけて、その殺し屋から逃げたら今度は芹澤芹華とそのマネージャーに拳銃で射殺されかけたって言うんですよ。で、肝心の交通事故に関しても、ダンプに撥ねられて死んだ筈の黒人の女殺し屋が実は生きていて、そいつがトラックに乗って追いかけて来たんだそうで。やっぱりこいつら、薬物かシンナーでもやってラリって、妄想と幻覚で頭がおかしくなってるんですかね?」
「ふうん。最近の若い奴らが一体何を考えてんのか、俺みたいなおっさんにはさっぱり分かんねえや。まあ多分、大麻か合成麻薬でも吸ってたんだろうさ」
海老名警部補はさほど興味なさげにそう言うと、供述調書を取調官に返した。すると取調官は、ふと思い出したように付言する。
「ああ、そう言えばですね。なんだかこいつらの話も、変なところの描写が細かいんですよ」
「例えば?」
「自分達を射殺しようとした芹澤芹華のマネージャーが持っていた拳銃が、スチェ……何とかとか言うロシア製の拳銃だったって、兄の方がやけに力説していましてね。まあそれも、ただの妄想だとは思いますけど」
「ロシア製の拳銃?」
取調官が発した単語に、海老名警部補の眉がぴくりと反応した。
「ええ、ロシア製の拳銃だそうです。それがどうかしましたか、海老名さん?」
「ああ、ちょっと気になる事があってな。……なあ、すまんが、その変な二人組とやらに対する事情聴取の続きは俺にやらせてくれんか?」
「え? ええ、別に構いませんけど、どうしてです?」
「もしかしたら俺が追っている事件とその変な二人組に、何か関係があるかもしれんのでな。その点を、問い質したい」
「ベテラン刑事の勘ってやつですか?」
「そんな大層なもんじゃねえよ。ちょっとだけ、気になる事があるだけさ。それじゃあ、続きは俺に任せてくれ」
そう言った海老名警部補は再び取調官から供述調書を受け取ると、捜査一課のオフィスを出て階段へと向かう。そして階段を下りて警察署の四階に辿り着いた彼は、健蔵と美綺の桑島兄妹が待つ取調室へと足を向けた。廊下を歩く海老名警部補のワイシャツの胸ポケットには、彼が愛飲するセブンスターのソフトパックが、安物のジッポライターと共に納められている。
「おいおいおい、何だお前らのその格好は? チンドン屋か?」
それが、取調室に足を踏み入れた海老名警部補の第一声だった。事前に変な二人組とは聞かされていたが、部屋に入った途端に眼の前のパイプ椅子に座っていたのが『くまのプーさん』もどきの着ぐるみパジャマを着た男とガスマスクを装着した女子高生だったのだから、彼が驚くやら呆れるやらでそんな言葉を漏らしたのも至極当然と言える。
「何だと? 初対面の人間を『お前』呼ばわりするとは、なんと無礼な! この国家権力の犬め! 恥を知れ! ファック!」
「ねえ、健兄ちゃん。『ちんどんや』って何?」
海老名警部補の発言に対して少しばかり見当外れな怒りを露にする健蔵と、今時の若者らしく『チンドン屋』の意味が分からなかったらしい美綺。彼ら兄妹に不審げな眼差しを向けながらも、海老名警部補は取調室の中央に置かれた簡素な事務机を挟んで、健蔵と美綺の向かいに置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。そしてクチャクチャとガムを咀嚼する健蔵の姿を見た彼はひゅうと口笛を吹き、皮肉を述べる。
「へえ、警察官の前で堂々とガムを噛みながら事情聴取に臨むなんて、お前、未だ若いくせしてずいぶんといい度胸してるじゃねえか。しかも俺の事を、国家権力の犬呼ばわりとはね。お前こそ、歳上に対して無礼なんじゃねえの? ……まあ、俺はそう言う無駄に元気な若造も嫌いじゃねえがな」
「ふん! 俺だって、噛みたくて噛んでんじゃねーよ。これはニコチンガムだっつーの。ファック」
「健兄ちゃんは重度のニコチン中毒だから、タバコが吸えない時にはニコチンガムを噛んでないと禁断症状が出てしまうのだ」
海老名警部補の皮肉に対して健蔵が舌出しダブル裏ピースと共に抗言し、美綺が事情を説明した。するとそれを聞いた警部補は、益々をもって呆れ果てる。
「なんだお前? 見たところ未だ二十歳そこそこだろうに、その若さでもう禁断症状が出るほどのニコチン中毒かよ。今年で五十一歳になるこの俺だって、未だニコチンガムのお世話にはなってねーぞ? ……ほら、そんなに辛いんだったら、我慢してねえで吸っちまえよ」
そう言った海老名警部補はワイシャツの胸ポケットから自分のタバコを取り出すと、それを健蔵に向かって差し出した。どうやら彼は、ニコチン中毒の禁断症状で苦しむぐらいなら、我慢しないでこの取調室の中でタバコを吸ってしまえと言っているらしい。しかしそのタバコの銘柄を見た健蔵は、海老名警部補の趣味嗜好を嘲笑する。
「よりにもよってセブンスター! おっさんかよ! ファック!」
「……そうだよ、俺はおっさんだよ。悪かったな、セッタなんか吸っててよ。……それで、吸うのか? 吸わないのか?」
健蔵に向かって問いかけながら、海老名警部補は再びタバコを差し出した。当然ながら個人の個室以外での喫煙を禁じた国民健康増進法に照らせば、桑島兄妹と海老名警部補の三人しかこの場に居ないとは言え、取調室の中での喫煙は違法である。その事実は、居合わせた三人全員が熟知している事は言うまでもない。するとニコチンと言う名の悪魔に誘惑された健蔵はそのタバコに手を伸ばしかけたが、吸い口のフィルターに指が触れる寸前で、その手を引っ込めた。そして自らを律し戒めるかのように、伸ばしかけた手を反対の手でもって激しく叩きながら、ぶんぶんと頭を振って邪念と誘惑を脳裏から追い払おうと努める。
「駄目だ! 駄目だ! 駄目だ! 確かに俺は引き篭もりでニート一歩手前の社会不適応者かもしれないが、犯罪だけは決して犯さないと固く心に誓っているんだ! そう、決して俺は、法を犯さない! それこそがこの俺、桑島健蔵に残された最後の正義であり、矜持なのだ! ファック!」
何故最後がファックなのかはよく分からないが、健蔵は高らかにそう宣言すると、海老名警部補の申し出を拒否した。
「何だ何だ? ふざけた見かけによらず真面目なんだか何なんだか、面倒臭え奴だな、おい。そんなに堅っ苦しく考えなくたって、俺だってこのご時勢に喫煙者って意味では同じ穴のムジナなんだから、ちょっとぐらい法を犯したって黙っててやるし見逃してやるよ。だからほら、我慢してねえで吸っちまえよ? な?」
そう言って更にタバコを差し出す海老名警部補に、健蔵は舌出しダブル裏ピースでもって応える。
「嘘だ! そんな事を言っておいて、本当はタバコを吸った途端に国民健康増進法違反で逮捕する気なんだろ! 俺は知ってるんだ! 騙されないぞ! スピード違反のネズミ捕りでもアキハバラでのオタクを狙い撃ちした職務質問でも、警察はいつもそうやって点数稼ぎをするんだ! ファック!」
「そりゃまた、警察も随分と嫌われたもんだな。……まあいいさ、そこまで頑なに拒むんだったら、何も無理して吸えとは言わねえからよ。それじゃあこれは、もう仕舞っちまうぞ? いいんだな?」
タバコをワイシャツの胸ポケットに仕舞うような素振りと共に、海老名警部補はそう問うた。そんな悪魔の誘惑に、健蔵は再び警部補の手中のタバコに手を伸ばしかけたが、その手を引っ込めて自らを律する。
「ううううう……。いや、駄目だ! たとえ警察が許しても、お天道様が許しても、この俺自身が許せないのだ! だから絶対に、俺は法を犯さない! この犯罪教唆の不良警官め! ファック!」
犯罪者にだけは絶対にならないと言う健蔵の決意は固いらしく、差し出されたタバコから眼を背けた彼は、それを吸う事を頑として拒否した。その姿に、さすがの海老名警部補もやれやれとでも言いたげな面持ちで深く嘆息すると、差し出していたセブンスターのソフトパックをワイシャツの胸ポケットに仕舞う。
「さてと、それじゃあ改めて事情聴取の続きを始めるが、その前に一応自己紹介をさせてもらおう。さっきまで聴取を行なっていた取調官から仕事を引き継いだ捜査一課所属の警部補で、名前は海老名だ。ええと……桑島健蔵と、その妹の美綺さんだな? これから幾つか質問をさせてもらうから、正直に答えてくれ。いいね?」
供述調書に記載された桑島兄妹の名前を確認しながら、海老名警部補が念を押した。
「はあ」
「はい」
さほど気の無い返事を返す、健蔵と美綺。彼らに向かって、警部補は尋ねる。
「調書によると、お前らは芹澤芹華とか言うアイドルのマネージャーの、諏訪って男に殺されかけたらしいな。で、その男が持っていた拳銃が、ロシア製の拳銃だったと。これは、間違い無いのか?」
「そうそう、あの拳銃は間違い無く、ロシア製のスチェッキンだった! しかもサイレンサー付きだったから、APSじゃなくてAPBだよ! 超レアな稀少種だよ! いやあ、まさかあんな珍しい銃を生で見られる日が来ようとは、思ってもみなかったね! いい経験をさせてもらったよ、うん」
眼を閉じて腕を組み、こくこくと何度も頷きながら、満足そうに健蔵は語った。すると海老名警部補は少し怪訝そうな顔で、再び尋ねる。
「ふうん。その『すちぇっきん』とやらがどんな拳銃なのかは知らねえが、とにかくロシア製の拳銃なんだな? ……それにしてもお前さん、随分と銃に詳しいじゃねえか。ガンマニアか何かか?」
「へっへーん。こう見えても俺、自称FPS厨だからね。銃の種類ぐらい、一目見りゃばっちり区別が付くのさ」
「えふぴーえすちゅう? 何だそりゃ? ……まあ、今時の若い奴らの流行り言葉なんてさっぱり分かんねえから、どうでもいいけどよ。それよりも、そのロシア製の拳銃がどんな弾丸を使っているか、分かるか?」
「ん? 確かスチェッキンの弾丸は9×18㎜マカロフ弾の筈だけれど、それがどうかしたのか、おっさん?」
「悪かったな、おっさんで。それにたとえ事実でも、歳上を気安くおっさん呼ばわりするもんじゃないぞ、若造」
礼儀を知らない健蔵に苦言を呈しながら、海老名警部補はジャケットの内ポケットから取り出した手帳に書かれた覚え書きを確認した。そこには以前、遺体安置所で寺脇鑑識官から教えてもらった、フリーのゴシップ記者の箕輪宏が射殺された事件に使われた弾丸の名称が記されている。健蔵が言うスチェッキンに使われているのと全く同じ弾丸である、『9×18㎜マカロフ弾』と。
「繋がったな」
海老名警部補がニヤリとほくそ笑みながら、独り言つように呟いた。そんな警部補の声と表情に気付いた健蔵が、尋ねる。
「ん? 何か言ったか、おっさん?」
「何でもねえよ。それに、歳上を気安くおっさん呼ばわりするんじゃねえって言ってんだろ」
再び健蔵に苦言を呈しながら、海老名警部補はぱたんと閉じた手帳をジャケットの内ポケットに仕舞い直した。そして改めて、パイプ椅子に座った健蔵と美綺の桑島兄妹に向き直ると、事情聴取を再開する。
「さてと、次の質問だ。これも調書によるとだが、お前らがその諏訪とか言うアイドルのマネージャーに殺されかけたのは、アイドルがタバコを吸っている姿をたまたまビデオカメラで撮影しちまったからなんだな?」
海老名警部補の問いに、こくこくと顎を上下させて頷く健蔵と美綺。
「そのビデオカメラで撮影した映像ってのは、今ここで観れるのか?」
「ああ、観れるよ。……それにしてもおっさんは、やっぱりおっさんだな。今時の若者は、わざわざ専門のビデオカメラなんて持ち歩かねーよ。スマホのカメラか、パソコンに接続する小型のWebカメラで撮影するのさ。ほら、これだよこれ。分かる?」
小馬鹿にするような笑みをその顔に浮かべた健蔵は、海老名警部補の眼前に、デイパックから取り出した自身のスマートフォンとWebカメラを差し出しながらそう言った。そんな健蔵の態度に、警部補は苦虫を噛み潰したような顔で呆れ果てる。
「スマホやパソコンに繋げるカメラくらい、俺だって知ってるよ。年寄りだからって、あんまり馬鹿にしてんじゃねえぞ? ……それで、その撮影したビデオの映像ってのを観せてくれるか?」
「今時は『ビデオの映像』じゃなくって、『動画』って言うんだぜ、おっさん」
再び小馬鹿にするような笑みと共にそう言うと、健蔵はデイパックの中から自身のノートPCを取り出し、それを取調室の中央に置かれた事務机の上に広げた。そして電源を入れるとOSを起動し、HDDに保存された未編集の動画の一覧の中から目当ての動画を探す。
「えーと、どれだったかな? 一年前に中野ブロードウェイの近くで撮った動画だから、この辺に保存されている筈だけど……ああ、これだこれだ」
そう呟きながら、健蔵は保存されていた動画ファイルの一つをダブルクリックした。するとアプリケーションが起動し、選択された動画がノートPCの液晶画面上で再生され始めたので、桑島兄妹と海老名警部補の三人はジッと食い入るようにそれを視聴する。
動画の序盤は、着ぐるみパジャマ姿のままJR中野駅前に降り立った健蔵が、撮影に使用したスマートフォンのカメラやマイクが正常に動作しているかどうかのチェックを行なっている様子が録画されていた。15.6インチの液晶画面に大写しにされた彼の顔はみすぼらしく、観ていて好感が持てる被写体とはお世辞にも言えない。しかもそんな健蔵の顔のどアップが延々と続くものだから、観ている方は嫌悪感で胸が悪くなる。
「ねえ、健兄ちゃん。こんな関係無いシーンはどうでもいいから、問題のシーンまで早送りしてよ」
「ん? ああ、うん」
美綺の要請に従い、健蔵は動画再生アプリのシークバーの上のスライダーをゆっくりと右にスライドし、動画を早送りさせた。すると中野駅前で動画の序盤を撮影し終えた健蔵は、中野ブロードウェイの脇を抜け、目的地である家系ラーメンの店へと向かうための近道である裏路地に差し掛かる。そこで動画は、一時停止された。
「お、これだ、これこれ。この路地を歩いているシーンの、俺の後ろに映ってる看板の陰の、ここんところ」
そう言いながら一時停止された動画の片隅を健蔵が指差すと、海老名警部補がノートPCの液晶画面にグッと顔を近付けて眼を凝らし、指差された箇所を凝視する。ワクワク動画にアップロードされていた編集済みの動画では解像度が低くて判別が難しかったが、今現在彼が凝視しているのは4K画質で撮影された編集前の動画なので、そこに映っている人物の人相を特定する事も容易い。
「俺はよく知らねえんだが、ここに映っているこの女が、お前らの言う芹澤芹華って名前のアイドルなんだな?」
健蔵が指差す動画の片隅に映る、路上でタバコを吸っている芹澤芹華。彼女の姿を凝視しながら、海老名警部補が尋ねた。すると突然、健蔵が両手でもって自分の顔を覆ったかと思うと顔を伏せて身体を小さく丸め、パイプ椅子の上でうずくまる。涙こそ流れてはいないが、その姿はまるで泣きじゃくる子供の様だ。
「どうしたの、健兄ちゃん?」
「ああああぁぁぁぁっ、喫茶店での彼女を、思い出しちまった! あの天使の様に可愛いせりりんが、大ファンであるこの俺に向かって、あんな汚い言葉を吐くなんて! しかも彼女が俺よりも歳上の、二十六歳のババアだっただなんて! 信じられない! 信じたくない! 我が妹よ、兄ちゃんはもう死んでしまいたいよ……」
「死んじゃ駄目だよ、健兄ちゃん。アイドルなんて、所詮は幻想の産物なんだからさ。それに二十六歳でババアだなんて言ってたら世の女性の半分以上を敵に回す事になるから、死ぬ前に殺されたくなかったら口は慎んだ方がいいよ」
実の妹である美綺が、ガスマスクを装着したままの異様な姿にそぐわない常識的な指摘でもって、ニート一歩手前の駄目人間である兄を諭した。しかし諭された兄は未だ自分の気持ちの整理がつかないのか、手で顔を覆ってうずくまったまま動かない。それによく聞けば、静かにすすり泣くようなしくしくと言った声が、健蔵の喉から微かに漏れている。
「で、その芹澤って女の隣に二人の男が立っているが、どっちがそのロシア製の拳銃を持ってた諏訪って奴なんだ?」
すすり泣く健蔵の事はとりあえず無視して、海老名警部補はガスマスク姿の美綺に尋ねた。
「こっちの丸い眼鏡を掛けている背の高い方が、あたしと健兄ちゃんを殺そうとした諏訪って男だから」
「そうか」
ノートPCの液晶画面に映った諏訪を指差しながら美綺が答えると、海老名警部補は指差された諏訪の人相風貌を記憶に留めるために、その姿をジッと凝視する。そして彼は、諏訪の隣に立つもう一人の男の顔に、何やら見覚えがあった。
「見たところ外人っぽいが、こいつ、どっかで見た事あるな……」
海馬の海に潜り、おぼろげな記憶の糸を手繰る海老名警部補。彼が凝視する諏訪の隣に立つもう一人の男は大柄な白人の中年男性で、禿げているのか剃っているのか、つるりと輝くようなスキンヘッドが特徴的である。
「思い出した! これはあいつだ、以前寺脇に見せられた検死体の写真の、身元不明の白人の男だ!」
独り言つように、海老名警部補が小さく叫んだ。確かにそこに映っていた白人の中年男性は、先月新宿区の路地裏で射殺体として発見されたと言う、身元不明の白人男性に間違い無かった。そして寺脇鑑識官によればその白人男性の殺害現場にも9×18㎜マカロフ弾の空薬莢が残され、事件に関する捜査資料は全て公安によって回収されたと言う。ここまで来れば、これらの事件とそれに関与する人物達に相関関係が無いと考える方がおかしい。
「いよいよもって、きな臭くなって来やがったな」
再び独り言つように、海老名警部補が呟いた。健蔵は未だ、パイプ椅子の上で身体を丸めながらしくしくとすすり泣いている。
●
海老名警部補が呟き、健蔵がパイプ椅子の上で身体を丸めてすすり泣いている、ちょうどその頃。警察署の一階の、正面玄関のガラス戸に向かい合うように位置する受付のカウンターの中で、眼鏡を掛けた小太りな警察官があくびを噛み殺していた。既に陽は落ちて空は暗く、もう半時も経てば彼の今日の勤務時間も終わるので、ちょうど今時分が最も睡魔に襲われ易い頃合なのだろう。そして少しばかり眠気でぼーっとしていた小太りな警察官は、不意に眼前のカウンターの天板をコンコンとノックされ、その音でハッと我に返った。見れば受付のカウンターの前には駱駝色のトレンチコートを羽織ったやけに長身で浅黒い肌の女が立っていて、頭上から彼を見下ろしている。
「ここで事情聴取を受けている筈の桑島健蔵は、どこだ?」
そのトレンチコートの大女、つまるところの始末屋は、特に感情の機微をうかがわせない声でもって小太りな警察官に尋ねた。彼女に対して何も知らない小太りな警察官は、多少訝しみながらも、受付の斜め向かいの待合室を指差しながら事務的に淡々と返答する。
「身元引受人の方ですか? でしたらそこの待合室で、名前を呼ばれるまで暫くお待ちください」
するとその返答を無視した始末屋は、ジロジロと値踏みするかのように、首をぐるりと巡らせて警察署の中を睨め回した。そして腰を屈め、受付の小太りな警察官に向かってボソリと言う。
「また来る」
そう言った始末屋は踵を返し、正面玄関のガラス戸から警察署の外へと静かに退出した。その後姿を見届けた小太りな警察官は、再び受付のカウンターの中で、あくびを噛み殺す作業に専念する。しかしやはり終業時間も間近なこの時間は眠くて仕方が無いのか、再び睡魔に襲われた彼は、うとうととカウンターの中でうたた寝を始めてしまった。そして首をこっくりこっくりと上下させ、舟を漕ぐ事に余念が無い。それはともすれば職務怠慢とも受け取られかねない行為であったが、その程度の失態を笑って許してあげられるほどの心の余裕を持つ事も、成熟した社会には必要なのであろう。だが次の瞬間、何か眩い光が接近する気配を感じ、小太りな警察官は受付のカウンターの中で意識を覚醒させた。すると眼前の正面玄関のガラス戸の向こうから、受付の在るこちらへと向かって、一対の車のヘッドライトがエンジン音を唸らせながら高速で接近して来るのが眼に留まる。
「ひっ!」
小太りな警察官は思わず息を飲んで身を竦ませたが、時既に遅し。ディーゼルエンジンの駆動音と排気音を声高に唸らせ、ブレーキを一切掛ける事無く突進して来た一台の車輌が警察署の正面玄関のガラス戸を突き破ったかと思えば、そのまま受付に真正面から激突してようやくその動きを止めた。周囲に轟く、ガラスが割れる破砕音と石膏ボードで覆われた壁が砕け散る轟音と、人々の悲鳴。受付の中で車輌が激突したカウンターに押し潰されて内臓が破裂し、即死こそしなかったものの致命傷を負って口から血反吐をドボドボと漏らして悶え苦しむ、小太りな警察官。更に警察署に突っ込んで来たのが只の乗用車ではなく大型車輌、しかもガソリンを満載したタンクローリーだったのだから、周囲に居合わせた一般市民や警察官達も騒然とならざるを得ない。
「ガソリンだ! 逃げろ!」
警察官の一人が叫び、一般市民を誘導するようにして警察署からの避難を開始する。我先にと駆け出し、逃げ惑う一般市民。警察署の一階の半分あまりは各種の対外的な部署の窓口と、手続きや申請のためにそこを訪れた一般市民が待機する待合室となっていたので、こんな時間でも多くの人々が居合わせていた。そんな人々の足元に、破損したタンクローリーのタンクから漏れ出た薄オレンジ色の液体、つまり精製されたガソリンが見る見る内に広がって、リノリウム製の床板をしとどに濡らす。そして床板上を広がったガソリンの匂いが充満する警察署の待合室に、受付に正面衝突して車体が『く』の字に折れ曲がったタンクローリーの運転席から、一人の人物がゆっくりと降り立った。それは誰あろう、トレンチコートの大女こと始末屋である。彼女は再び警察署の中をぐるりと睨め回すと、ガソリンで濡れた床板の上を悠々と歩き出した。その両の手には、トレンチコートの懐から取り出した手斧が握られている。
「おい、何だお前は! 止まれ!」
一般市民が逃げ惑う待合室を縦断し、関係者以外は立ち入り禁止の警察署の奥へと足を踏み入れた始末屋に向かって、騒ぎを聞きつけて集まって来た警察官の一人が叫んだ。両手に手斧を持った身長二m超の黒人女など、現代の日本においては、どこからどう見ても不審者以外の何者でもない。
「桑島健蔵は、どこだ?」
「は? お前、何を言って……」
健蔵の所在を尋ねる始末屋の問いに対して警察官が問い返した、次の瞬間。横薙ぎに振るわれた始末屋の手斧が、その警察官の頭部をちょうど眼球の高さでもって真っ二つに両断し、彼は痛みを感じる間も無く絶命した。上下に二分割された頭部からは真っ赤な鮮血と共に薄ピンク色の脳髄がぼろりと零れ落ち、リノリウム製の床板の上でべちゃりと潰れる。
「ひいっ!」
頭部の上半分を失った同僚の死体が力無く床板の上に崩れ落ちるのを目の当たりにした別の警察官が、酔っ払ったアバズレ女の様な上ずった声でもって、小さな悲鳴を漏らした。すると始末屋は手斧を構え直しながら、その警察官に接近する。
「桑島健蔵は、どこだ?」
「う、動くな! お、おお、大人しく武器を捨てろ!」
未だ少し上ずった声でもってどもり気味に警告すると、警察官は腰のホルスターに手を伸ばし、拳銃を抜こうと試みた。しかし常日頃から拳銃を抜き慣れていない事に加えて、突然現れた凶賊にどう対処すべきか混乱した彼の手はもたつき、なかなかホルスターを開ける事が出来ない。すると今度は大上段の構えで振りかぶった手斧の切っ先を、拳銃を抜こうと奮闘する警察官の脳天に向かって、一直線に振り下ろす始末屋。彼女が渾身の力で振り下ろした手斧は警察官の頭蓋骨だけにとどまらず、更に背骨と胸骨も切り裂いて腹腔を貫き、骨盤をも叩き割って真っ二つにした。要するにたったの一撃でもって、一人の人間を右半身と左半身の二つに両断してみせたのである。
「そこのお前、何をしている! 動くな!」
「大人しく、武器を捨てろ!」
正面玄関にタンクローリーが突っ込んだ事故現場で救命活動や避難誘導をしようと集まって来た、署内各部署の警察官達。彼らもようやく始末屋の存在に気付き、各自の腰のホルスターから抜いた拳銃の銃口を彼女に向けながら、警告の言葉を発した。警察署の一角で、およそ二十丁あまりの拳銃の照準が始末屋に合わせられている。しかし拳銃を向けられた当の始末屋はまるで慌てた素振りも無く、手斧を切り払って付着していた血脂を落とすと、周囲を取り囲む警察官達に向かってその手斧を構え直した。この期に及んでも彼女の顔に浮かぶ表情は、淡々と仕事をこなす職人の様な無表情である。
「桑島健蔵は、どこだ?」
始末屋が改めてそう問うた、次の瞬間。ショートした照明器具が散らした火花が引火し、破損したタンクローリーのタンクから漏れ出ていたガソリンが火柱を噴き上げながら、文字通り爆発的に燃焼した。爆音と熱風に煽られた警察官達が身を竦ませると、その隙を逃さずに、始末屋は拳銃を構えたそれら警察官達との距離を一気に詰める。するとその後は只ひたすらに、血生臭くも一方的な殺戮劇であった。始末屋が手斧を振るう度に切り落とされた警察官達の手足や生首が血飛沫と共に飛び交い、死に損なった者の悲鳴がこだまして、狭い署内での混戦の最中に拳銃が発砲されれば警察官同士での同士討ちとなるばかりである。そしてその間も始末屋は手斧を振るい続け、たとえ相手がうら若い婦警であろうが年老いた老巡査であろうが一切の容赦をせずに、行く手を阻む者はすべからく血の海に沈めるばかりであった。
そしてまた同時に、引火したガソリンによって発生した火事は雪崩か津波の如く堰を切って燃え広がり、コンクリート造り十二階建ての警察署は火の海にも沈んで行く。最早その光景は、阿鼻叫喚の地獄絵図と言う外に例える言葉を持たない。
●
ドンと言う衝撃音と共に建物が揺れたので、警察署の四階に並ぶ取調室の一つで事情聴取中だった桑島兄妹と海老名警部補の三人は、互いの顔を見合わせた。
「何だ?」
衝撃音に続いて階下から人々の悲鳴が聞こえ、更には銃声と思しき破裂音も散発的に聞こえて来たので、さすがにこれは只事ではないと判断した海老名警部補が腰を上げる。
「ちょっと見て来る。お前達は、ここで待っていろ」
桑島兄妹にそう言い残し、海老名警部補は廊下へと続く取調室のドアを開けた。すると幾人もの署員が、慌てながら廊下を走っているのが眼に留まる。
「おい、これは一体何の騒ぎだ? 下で何が起こっている?」
廊下に出た彼は階段を目指してバタバタと廊下を走る署員の中から、一人の若い巡査に尋ねた。すると巡査は未だ幼さの残る顔を緊張で強張らせながら返答するが、よく見れば彼は制服の上から青いベスト、正式名称は耐刃防護衣と言う防刃ベストを羽織っている。
「正面玄関にガソリンを積んだ大型車輌が突っ込んで、一階の待合室付近で火災が発生しています! それに刃物を持った女が暴れて、多数の負傷者が出ているとの連絡もありました! 警察を狙ったテロの可能性も考えられるとの事で、手の空いている署員は全員出動し、拳銃の発砲も許可するとの事です! 警部補殿も取調べ中でしたら、被疑者を連れて早く避難してください!」
若い巡査はそう言い残すと、警察署の階段の方角へとその姿を消した。おそらく彼はこれから一階へと下りた後に、手斧を振るって嵐の様に暴れ狂う始末屋に屠られて命を落とすか、少なくとも四肢の一本は失う程度の重傷を負う事になるだろう。しかし今の海老名警部補には巡査の安否を心配する以前に、一人の警察官としてやるべき事があった。
「おい、お前ら。どうやら下の階が火事らしいから、今すぐに避難するぞ」
取調室の中で待っていた健蔵と美綺の桑島兄妹にそう告げると、海老名警部補もまた彼らと共に、警察署からの避難を開始する。今の警部補が先ず第一にやるべき事とは、重要参考人として実質的に拘留しているとは言え、一応は無辜の一般市民である健蔵と美綺の二人を無事にこの場から避難させる事であった。たとえ彼らが、着ぐるみパジャマとガスマスクに身を包んだあからさまな不審者だったとしてもである。
「何? 火事? おいおいおいおい、マジかよ! 警察署が火事なんて、ちょっと危機管理意識が低いんじゃないの? ファックだぜ、ファック!」
ひどく不満げに、また同時に警察を嘲笑するかのような口調でもってそう言った健蔵は、実の妹である美綺と共にパイプ椅子から腰を上げた。そしてノートPCを納めたデイパックを背負った彼は、先導する海老名警部補の後に続いて取調室を退出すると、先程若い巡査が向かった階段とは逆方向に在る非常階段を目指して廊下を歩き始める。勿論この段階では未だ警部補も桑島兄妹も、まさか始末屋が生きていた上に、健蔵の命を狙ってタンクローリーで単身警察署に乗り込んで来たなどとは夢にも思っていない。
「なあ、変な格好のニコチン中毒の兄ちゃんの方よ……えーと、確か名前は、健蔵だっけか? お前をロシア製の拳銃で撃ち殺そうとした、その、何てったっけ? ああ、そうそう、その諏訪って奴が今どこに居るのか、見当はつくか? これからそいつに事件の詳細を聞いて、出来れば任意同行なり何なりで署までしょっ引いて来たいんだが」
警察署の廊下を歩きながら振り返った海老名警部補が、背後を歩く健蔵に尋ねた。
「え? 諏訪さんが、今どこに居るか? うーん……どこだろうな……? まさか、未だあの喫茶店に居るって事は無いだろうし……」
海老名警部補の問いに、着ぐるみパジャマ姿の健蔵は無い知恵を絞り出そうとするかのように眉間に皺を寄せて首を傾げながら、腕を組んで考え込む。ちなみに健蔵が諏訪をさん付けで呼んでいるのは、彼を命の恩人だと勘違いしていた初対面の時の名残であって、諏訪に対して敬意を払っている訳では決してない。そして健蔵の、容量も処理能力も平均的な成人男性にすら遠く及ばない無学無教養で無知蒙昧な脳味噌では、いくら考えたところで妙案が思い浮かぶ筈も無かった。
「ねえねえ、健兄ちゃんと警部補さん。とりあえずは、あの諏訪って男と芹澤ってアイドルの女が所属する芸能事務所に行ってみたら? 芸能事務所の名前は、健兄ちゃんも知ってるんでしょ?」
「お? 兄貴以上に変な格好をしている割には、ガスマスクの嬢ちゃんの方は冴えてじゃねえか。それじゃあ健蔵、その芸能事務所の名前と住所を教えてくれ」
美綺の返答を受けて、名前を呼び捨てにしながら海老名警部補が健蔵に尋ねると、彼は小さな舌打ちを漏らしてからスマートフォンで芸能事務所の住所を調べ始める。
「えーと、『ファラエノプシス 芸能事務所』で検索検索っと……。ああ、出た出た。はいよ、おっさん。これがその芸能事務所の住所だってさ」
「だから、歳上を気安くおっさん呼ばわりするなって言ってんだろ。……それで、どれどれ? ああ、この住所なら、ここからそれほど遠くはないな。今から車で向かえば、たとえ諏訪本人は居なかったとしても、誰か奴の所在を知っている社員が一人ぐらいは残ってるだろ」
健蔵が差し出したスマートフォンの液晶画面に表示された内容を確認しながら、海老名警部補が独り言つように呟いた。液晶画面には諏訪と芹澤芹華が所属する芸能事務所、つまり株式会社ファラエノプシスの公式サイトのトップ画面が表示され、そこには会社の所在地も明記されている。
「それじゃあ今からその芸能事務所とやらに向かうから、一応面通しの意味も含めて、お前らも一緒に来てくれ。もう二度とその諏訪と芹澤って奴らに会いたくないってんなら、今回は車の中で待っているだけでも構わんからさ。……まあ、ここで同行を拒否したところで、どうせまた後日お前らを署まで呼び出す事にはなるんだろうがな。二度手間になるのが嫌だったら、一緒に来た方が多少は楽かもしれんぞ?」
「はいはい、分かったよ。死ぬほど面倒臭えけど一緒に行ってやるよ、おっさん。まったく、これだから警察は嫌いなんだ。ファック!」
海老名警部補の要請を、健蔵が渋々ながら承諾した。すると彼の隣を歩く妹の美綺が、バイクのハンドルを握るような仕草をしながら警部補に問う。
「あのさ、警部補さん。あたしのバイクは、今どこに停めてあるの? もう返してもらえるんでしょ?」
「ん? ああ、そう言えばそうだな。ガスマスクの嬢ちゃん自身がそのバイクで事故を起こしたってんじゃないんだったら、俺の判断ですぐに返却しても問題無い筈だ。多分バイクは裏の駐車場に停められているだろうから、これから俺達が向かう先にも、そのバイクで一緒に来てくれればいい」
そう答えた海老名警部補と桑島兄妹の三人は廊下の最奥の鉄扉を潜ると、やがて建屋の外に設置された非常階段を下りて地上へと至り、警察署の裏手の駐車場に避難した。駐車場の周囲には既に野次馬の人垣が出来上がっており、ガヤガヤと喧しい。そしてふと健蔵が背後を振り返れば、オレンジ色に輝きながら激しく炎上する警察署はまるで巨大な松明の様に夜空を照らし、また同時にそこから立ち上る黒煙と白煙が夜空を焦がしてもいる。
「うっひゃあ、燃えてる燃えてる。すっげえ火事だな」
炎に包まれる警察署を見上げながら、興奮気味な健蔵がワクワクと心を躍らせるような声でもって言った。するとそんな彼に向かって、海老名警部補が苦言を呈する。
「おい、健蔵。お前にとっちゃこの火事も他人事かもしれねえけれど、俺や周りに居る署員にとっちゃ、自分の身に降りかかった災難なんだ。だからせめて、当事者の前でくらいは神妙な顔でもしやがれってんだ、畜生め」
再び健蔵を呼び捨てにした海老名警部補は、小さく舌打ちを漏らしながら苦々しげにそう言った。
「おっと、そりゃ済まなかったな、おっさん。ところでおっさんは、火事を消しに行かなくてもいいのか? 当事者なんだろ?」
「ボヤ程度ならともかく、こんなに盛大に燃え広がっちまったら、もう俺みたいな一介の刑事の出る幕なんかねえよ。後は、消防士の仕事さ。それよりも刑事としては、今はその諏訪って奴を一刻も早くしょっ引いて来たくって仕方無いね。……まあ、しょっ引いて来たら警察署が丸焼けになってましたってのも、洒落にならねえけどな」
健蔵の問いにそう答えると、何かを達観するような苦笑いをその顔に浮かべながら、今度は深い溜息を漏らす海老名警部補。すると彼は健蔵と美綺の桑島兄妹に向かって思い出したように命令しながら、警察署の方角へと小走りで歩き始める。
「そうだお前ら、俺は一旦署の中に戻って取って来る物があるから、ちょっとここで待ってろ。すぐに戻る」
「おいおいおい、マジかよおっさん。署の中に戻るって、その警察署が今まさに眼の前で燃えてんだぞ? 死ぬ気か?」
「別に、火事の中に飛び込んで死ぬ気はねえよ。見たところ燃えてんのは正面玄関の在る東側の方だけみたいだから、俺の用がある西側の方の一階部分なら、未だ中に入っても大丈夫だろうって話だ。なあに、ささっと目的の場所まで行って、必要なモンをちゃちゃっと取って来るだけだからよ。煙さえ吸わなけりゃ、たいした事ねえって」
そう言った海老名警部補は、警察署の裏口にあたる西側の通用口から建屋の中へと進入すると、廊下の先にその姿を消した。彼の言う通り、確かに火の手が上がっているのは警察署の東側だけなので、燃え盛るそちら側にさえ足を踏み入れなければさほど危険は無いのかもしれない。しかし火勢はいまだ衰えず、風向きが変われば今は無事な建屋の西側も一瞬にして炎や煙に巻かれる事は容易に想像がつくので、海老名警部補の行為はいささか思慮を欠いた軽率なものと言える。
そして思慮を欠いているのは、海老名警部補だけではなかった。
「なあ、我が妹よ」
「何、健兄ちゃん?」
警部補が警察署の中に姿を消した直後、健蔵がにやにやと意味深で頭の悪そうな薄ら笑いをその顔に浮かべながら、美綺に尋ねる。
「生の火事の現場ってやつを、もっと間近で見てみたいとは思わないか? しかもそれを動画に撮って配信したら閲覧数を稼げるとも思うんだが、どうよ? 予定していたパンケーキ屋へのアポ無し凸取材が出来なかった代わりとしてさ」
「健兄ちゃん、悪い事は言わないから、そう言う馬鹿な考えは捨てようよ。健兄ちゃんも、もういい大人なんだしさ」
ガスマスクを装着した異様で不気味な外見に似合わず、至極真っ当で常識的な苦言を呈する美綺。しかし彼女の小指の先程の知性も常識も持ち合わせていない健蔵は、既にスマートフォンのカメラを起動させて動画を撮影しながら、海老名警部補が姿を消したのと同じ警察署の通用口へと足を向けていた。
「まったくもう、仕方無いなあ」
やれやれとでも言いたげに肩を落として深く嘆息してから、まるで躾の出来ていない幼児を監督する気苦労の絶えない母親の様な声でもってそう呟くと、美綺もまた兄の後を追って通用口へと足を向ける。当然ながら、彼女の表情はガスマスクによって隠されているためにうかがい知る事は出来なかったが、きっと何かを諦め切ったかのような面持ちであろう事は間違い無い。
「いいか、我が妹よ? もしも兄ちゃんが煙を吸って倒れたら、お前が兄ちゃんを抱え上げて避難するんだぞ? なんせお前はそのガスマスクのおかげで、いくら煙を吸っても平気なんだからな」
「抱え上げて避難するなんて、そんなの無理だよ、健兄ちゃん。あたしの腕力じゃせいぜい、倒れた健兄ちゃんを引き摺って避難するのが関の山だってば。それにそもそも、煙を吸って倒れる前にさっさと逃げようよ。あたし達なんかがうろうろしてたら、消火活動をしている消防士さん達にとっても迷惑だからさ」
再び、美綺は実の兄に対して苦言を呈した。しかし苦言を呈された当の健蔵はと言えば、動画を撮影するための自撮り棒の準備に忙しく、妹の言葉に耳を貸す素振りは微塵も無い。ほんの十分ほど前に、海老名警部補に向かって警察の危機管理意識の欠如を指摘した彼自身こそが、誰よりも危機感と緊張感が欠如して愚者である事は容易に想像がつく。
「うお、すげえ」
通用口から警察署の中に足を踏み入れた健蔵が驚嘆の声を漏らし、その額にはにわかに汗が滲んだ。彼の視線の先、つまり警察署の東側の廊下はオレンジ色に輝きながらごうごうと燃え盛る炎に包まれており、そこから発される放射熱が着ぐるみパジャマから覗く健蔵の顔をちりちりと焼く。
「よっしゃ、撮影撮影っと。こいつは絶対に閲覧数が稼げるぞ。なんせ、今まさに燃えている最中の火事の現場からの生配信だからな」
そう独り言ちた健蔵は、手にした自撮り棒の先端に装着されたスマートフォンでの録画を開始した。
「やっほーい! カメラの向こうの老若男女諸君、こんにちわ! 今からこの俺ケンケンによる、『THE★ケンケンSHOW』の特別臨時生配信が始まるよ! 最後までゆっくりと、楽しんで行ってくれよな!」
先ずはお決まりの、にやけた笑顔と上ずった声による能天気な挨拶から始まる健蔵の生配信。そして彼のにやけた顔を大写しで捉えていたカメラは一転、燃え盛る警察署の廊下の東側へと向けられる。
「カメラの向こうの老若男女諸君、見てください! 今俺は、突然の火災に見舞われた警察署の中から生配信しています! どうですか、この迫力! この臨場感! 未だ消防車も到着していない、生の火災現場ですよ! 物凄い勢いで、壁や天井が燃えています! 炎からこれだけ離れているのに、ここまで熱風が吹きつけて来ます! 熱い! 煙い! そして、本当に熱い!」
やや早口で捲くし立てるような口調でもって興奮ぎみに、レポーター気取りで実況報告を行なう健蔵。しかし彼の
「ちょっと健兄ちゃん、そっちに行ったら危ないよ」
「大丈夫だって、このくらい。それよりも見ろよ、我が妹よ。すげえ迫力だ。生の火事ってこんなにすげえんだな。ファックだぜ、ファック!」
燃え盛る炎に少しでも近付いて、より迫力のある映像をカメラに収めようとする健蔵。しかしその時、眼前の視界を曇らせる黒煙と白煙の中から、何かがこちらに向かって飛んで来た。それはちょうどバスケットボールくらいの大きさの塊で、緩く回転しながらぽーんと宙を舞って飛んで来ると、健蔵の足元の床にごろりと転がる。そしてその塊が人間の頭部、つまりは切断された男性の生首である事に気付くのに、さほど時間はかからなかった。
「ひっ!」
足元に転がる生首に驚いた健蔵が悲鳴めいた声を漏らすのとほぼ同時に、体当たりをするような格好でもって、妹の美綺が彼を柱の影へと突き飛ばす。そして突き飛ばした美綺自身もまた柱の影に身を隠した直後に、煙の中からぬっと、やけに大きな人影が姿を現した。
その大きな人影は、両手に手斧を持った始末屋。つまり先程飛んで来た人間の生首は、おそらくは彼女を現行犯逮捕、もしくは拘束しようとした男性警察官の成れの果てなのだろう。そして始末屋は何かを探すようにゆっくりと首を巡らせてから、健蔵と美綺が身を隠している柱の方角へと歩き始めた。彼女のトレンチコートには、ここに至るまでに切り殺して来た警察官のものと思われる返り血が幾つも付着している。
「なんでっ、なんであの黒人女がここに居るんだよ! って言うか、未だ生きてたのかよ、あいつ! 死んだんじゃなかったのか?」
柱の影に身を隠した健蔵が、半分涙眼になりながら小声で叫んだ。隣で一緒に身を隠している美綺に突き飛ばされなければ、彼も今頃は始末屋に見つかって、手斧でもって脳天をかち割られるか、もしくは首を切り落とされていた事だろう。
「しっ! 健兄ちゃん、静かに!」
健蔵の口を、美綺が手で覆うようにして塞いだ。そして桑島兄妹の二人は、健蔵を探しながら廊下を歩く始末屋に見つからないように、柱の陰でジッと息を殺す。彼らの耳には、リノリウム製の警察署の床と革靴の踵が接した時に発される、コツコツと言った始末屋の足音だけが届いていた。
「こっちに来るなよ……来るんじゃないぞ……お願いだから来ないで……」
健蔵は祈るように呟くが、耳に届く足音以外に、柱の向こうの廊下を歩いている筈の始末屋の動向をうかがい知る術は無い。すると足音は次第に小さくなり、どうやら始末屋は桑島兄妹が身を隠している柱からは遠ざかりつつあるらしく、健蔵と美綺の二人はホッと胸を撫で下ろす。
「おい」
すると唐突に、二人は至近距離から声を掛けられた。
「ひいっ!」
当然ながら驚いた健蔵は悲鳴にも似た声を上げ、文字通りその場でぴょんと飛び上がる。
「こんなところで何やってんだ、お前ら?」
見れば声を掛けて来たのは始末屋ではなく、相変わらず髪はボサボサで顎には無精髭が浮いた海老名警部補だった。
「何だよ、おっさんかよ! 驚かせんなよ! ファック! ファック! ファック!」
口から心臓が飛び出るほど驚いた健蔵は海老名警部補に向かって裏ピースを突き付けながら、みっともない声を上げてしまった自分の醜態を誤魔化すかのように悪態を吐き続ける。彼の隣では妹の美綺もまた、バクバクと早鐘を打つ心臓を押さえながら、ガスマスクの吸排気口から漏れる「コー、パー、コー、パー」と言う呼吸音を荒げていた。それほどまでに、二人は驚いたのである。
「すまんすまん、驚かせたんなら、謝るよ。しかし、ちょっと声を掛けたくらいでそんなに驚く事はねえんじゃねえのか?」
「今そこに、あの始末屋が居たんだよ! おっさん、気付かなかったのか?」
「始末屋? ……ああ、お前らの供述調書に書いてあった、例の斧を持って追い掛けて来た殺し屋とか言う奴か。そいつが、今までここに居たのか?」
ややもすればきょとんとした表情でもって、桑島兄妹に尋ねる海老名警部補。どうやら彼は、先程まですぐ眼の前の廊下を歩いていた始末屋の姿には気付かなかったらしい。
「そうだよ、その始末屋だよ! 見てみろよ、あれを!」
「げっ!」
健蔵が指差した先の廊下に転がっている男性警察官の生首を見た海老名警部補が、まるで吐き気を堪えるように手で口元を覆いながら、困惑と驚嘆の声を上げた。
「おいおい、マジかよ……。こいつは洒落になってねえじゃねえか……」
出来立てほやほやの人間の生首を眼の前にしては、今の今まで桑島兄妹の供述を半信半疑で聞いていた海老名警部補も、さすがに彼らの言葉を信用せざるを得ない。すると海老名警部補は踵を返し、警察署の通用口へと足を向ける。
「おい、お前ら。さっさとここから出て、その諏訪って奴の所属する芸能事務所に急ぐぞ」
「え? 始末屋はこのまま放っておいていいのかよ、おっさん? 同僚が殺されてんだぞ?」
健蔵と美綺の二人に向かって手招きし、一緒に警察署から出て行くように促す海老名警部補に対して、健蔵が疑問を呈した。
「そんな斧を振るって暴れ回るような危険な殺し屋に対処するのは、俺達刑事の仕事じゃない。機動隊か、もしくは本庁の
そう言って歩き始めた海老名警部補の背中を追って、スマートフォンでの動画の生配信を取り止めた健蔵と美綺の二人もまた、警察署の通用口を目指して歩き始める。そして三人揃って警察署の外に出ると、そのまま裏手の駐車場に停められていた覆面パトカーの一台に海老名警部補が乗り込み、同じく駐車場の端に停められていた美綺の愛車ヤマハYZF-R1に桑島兄妹の二人が跨った。
「よし、行くぞお前ら。俺について来い」
海老名警部補の言葉を合図に、覆面パトカーとバイクは駐車場から警察署の裏手の路地に出ると、そのまま国道の方角に向かって走り去る。彼らの背後に佇んでいるのは、未だにごうごうと燃え盛る炎に包まれたまま、夜空に向かって黒煙と白煙を噴き上げる警察署。するとそんな警察署の四階の窓から、走り去る健蔵達三人をジッと見下ろす、やけに大きな人影が覗いていた。その人影は勿論、両手に手斧を持ってトレンチコートに身を包んだ始末屋。一切の感情の機微をうかがわせない無表情のまま、走り去る健蔵達を眼で追う彼女の背後には、出入り口のドアがことごとく蹴破られた取調室と幾つかの警察官の惨殺体が並ぶ。警察署の一階で健蔵と美綺の桑島兄妹と邂逅し損ねた始末屋は、そのまま階段を上って四階へと赴くと、そこに並んでいた取調室を端から一つずつ蹴破りながら獲物である健蔵の所在を突き止めんとしていたのだ。
しかしまさに今しがた、眼の前でその獲物をむざむざと取り逃がしてしまった事を察した始末屋。しかし彼女は特に焦った様子も無く駐車場の在る警察署の裏手に面した窓を開け、窓枠に足を掛けると、そのまま何の躊躇も無く窓の外の虚空へとその身を投げ出した。繰り返し記述するが、ここは警察署の四階である。つまり地上およそ十mの高さから飛び降りる格好になった始末屋は、地球の引力にその身を任せて自由落下すると、コンクリート敷きの警察署の敷地の一角に着地した。着地と同時にドスンと言う鈍い衝撃音が周辺一帯に響き渡り、地面が僅かに揺れる。
並の人間であれば、地上四階からコンクリート敷きの地面に落下すれば無傷では済まず、高確率で死に至る事は想像に難くない。しかしダンプカーに撥ねられても暴走トラックに乗ったまま鉄道の高架橋に激突しても五体満足だった始末屋は、当然ながら並の人間ではなかった。彼女は死に至るどころか全くの無傷、更には体勢を崩す事も無く華麗に足から着地してみせると姿勢を正し、大気中に漂う匂いを嗅ぎ分けるかのように鼻をくんくんと鳴らす。
「こっちか」
やがて匂いを嗅ぎ終えた始末屋はそう呟くと、両手に握っていた手斧をトレンチコートの懐に仕舞い直した。そして彼女は脇目も振らずに、燃え盛る警察署を囲んだ署員や野次馬達の好奇の眼を意に介する素振りも無く、健蔵達を乗せた覆面パトカーとバイクを追って一心不乱に走り始める。
始末屋が走り去った後も警察署は燃え続け、そこから立ち上った黒煙と白煙によって、宵闇に染まる夜空に輝く月も霞んで見えた。
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