第三幕
第三幕
銀色に冷たく輝くステンレス製の寝台の上に、ニット帽の男の遺体は仰向けの体勢で寝かされていた。いや、今の彼はニット帽は被っておらず、それ以外の衣服も身につけてはいないので、『元ニット帽の男』と表現するのが正解なのかもしれない。とにかくその元ニット帽の男の遺体は、一糸纏わぬ全裸の肥満体の上から薄い白布を一枚掛けられただけの状態で、寝台の上に静かに寝かされていた。そして寝台の傍らには、今は物言わぬ射殺体となった元ニット帽の男の顔を覗き込むような体勢でもって、二人の中年の男性が立っている。
「それで、ガイシャの身元は?」
二人の中年男性の内の一人が、遺体の顔を覗き込んだ体勢のまま、もう一人の中年男性に尋ねた。尋ねた方の中年男性の白髪交じりの髪はボサボサで、顎には無精髭が浮かび、安物のスーツとワイシャツはネクタイも締めずにだらしなく着崩れている。
「ガイシャの名前は、箕輪宏(みのわひろし)。年齢は三十八歳で独身、東京都中野区在住。五年前までは大手出版社の週刊誌編集部に正社員として勤めていましたが、今は独立し、フリーランスのゴシップ記者として複数の出版社の雑誌編集部に出入りしていたようです。特に、芸能関係の記事を得意としていたらしいですよ」
尋ねられた方の中年男性が、手にした資料を読み上げるようにして答えた。こちらの中年男性は無精髭の男とは違って、髪も髭も小ざっぱりと整えられており、染み一つ無い清潔な作業着を着ている。そしてその紺色の作業着の背中には、黄色字で大きく『警視庁』と書かれていた。つまり彼らが居るこの場所は、警察署内の遺体安置所だ。
「死因は?」
再び無精髭の男が尋ねると、作業着の男もそれに答える。
「腹部に正面から一発、胸部と頭部に背後から一発ずつ銃弾を撃ち込まれた事による外傷性ショックで、即死です。しかもガイシャの死亡推定時刻とほぼ同時刻に、ガイシャが住んでいたアパートの部屋は放火されて、全焼しました。殺された上に部屋に放火されるなんて、よっぽど恨まれていたか、それともよっぽど危険なヤマに脚を突っ込んだか、もしくはその両方でしょうかね。もしかしたら殺しと放火の犯人は別人なのかもしれませんが、まあ、同一犯と考えるのが自然でしょう」
「ふうん」
作業着の男の返答に、無精髭の男はその無精髭を指先で弄びながら得心した。
「なあ
「今のところは、てんでさっぱり。使用された凶器が拳銃である事はガイシャの遺体の銃創と現場に残されていた空薬莢から判明していますが、それ以外には殺しの方も放火の方も、物的証拠も目撃者も皆無ですからね。ここから先の捜査は、
海老名と呼ばれた無精髭の男の三度目の問いに、寺脇と呼ばれた作業着の男が答えてから、肩を竦めてみせる。その会話の内容から推測するに、どうやら無精髭の海老名は警部補級の刑事で、作業着の寺脇は鑑識官らしい。ちなみに『ガイシャ』とは事件の被害者の事で、『マル被』とは事件の被疑者、つまり犯人の事だ。
「確かにそうだな。仕方が無い、ここから先は、俺達が足を使って捜査するか」
そう言うと、海老名警部補は遺体安置所から出て行こうと踵を返した。すると寺脇鑑識官が、思い出したかのように声を掛ける。
「ああそうだ、忘れてました。一つだけ、ちょっと気になる事がありましてね」
そう言うと、寺脇鑑識官は作業着のポケットから何かを取り出した。それはチャック付きのポリ袋に入った、小さな金色の金属塊。
「それは?」
「現場に落ちていた、拳銃弾の空薬莢です」
「それの、何が気になるんだ?」
海老名警部補の問いに、寺脇鑑識官は手にした空薬莢入りのポリ袋を掌の上で弄びながら答える。
「最初はどこにでも有る9×19㎜パラベラム弾の空薬莢だと思ったんですけど、試しに測ってみたら、9×18㎜マカロフ弾の空薬莢だったんですよ。ね? 珍しいでしょう?」
「……生憎だが俺はガンマニアじゃねえから、お前が何を言いたいんだかさっぱり分からん。もうちょっと分かり易く説明してくれ」
寺脇鑑識官の返答の意味が分からなかったので、顔をしかめながら解説を求める海老名警部補。そんな警部補に、寺脇鑑識官はこの程度の事も分からないのかとでも言いたげに、少しだけ肩を竦めてから解説する。
「つまり、犯行に使用されたのはロシア製の拳銃だって事ですよ。まあ、この情報が捜査の役に立つのかどうかは分かりませんけれど、参考までに覚えておいてください。ひょっとしたら、何かの手掛かりになるかもしれませんからね」
「だったら最初から、そう言って説明してくれよ。……ええと、9×18㎜マカロフ弾、だっけか?」
少しだけ馬鹿にされたような気がしたのか、海老名警部補は小さな舌打ちを漏らして益々顔をしかめながら、ジャケットの内ポケットから取り出した手帳に弾丸の名称を書き記した。
「それでですね、海老名さん。ロシア製の拳銃が使われたと言う事を前提に、もう一つ情報があります」
「うん?」
顔をしかめる海老名警部補に、寺脇鑑識官は手にした資料の中から一枚の写真を抜き取ると、それを差し出しながら付言する。
「これを見てください」
「何だこれは? 外人か?」
差し出された写真には、眼を閉じて血色の悪い、スキンヘッドの中年男性の顔が写っていた。その男は白人で、どうやら検死を終えたばかりの死体の顔写真らしい。
「それは先月、新宿区の路地裏で発見された射殺体の写真です。この事件のマル被も今回の事件と同じで、未だ捕まっていません。ですがこのガイシャ、どうも只の出稼ぎ外国人や観光客じゃなかったらしいんですよ。なんでも身元を洗ってみたら名前も含めた全ての経歴が功名に偽造されたもので、所轄が調べた限りでは、その本来の素性は杳として知れなかったそうです」
「ふうん」
「そうしたらある日突然、所轄の署に公安を名乗る連中がぞろぞろとやって来たかと思ったら、遺体も証拠品も捜査資料も何もかも持って行っちまったんだそうで。その管轄に勤める鑑識の知り合いが、自分の仕事を横取りされたってぼやいてましたよ。しかもご丁寧に、その公安の連中、この事件に関しては一切口外も追求もするなと釘を刺して行ったそうです」
「そうか。公安には俺も、過去に何度か泣かされた事があるからな。……それで、その事件が何か、今回の事件と関係があるのか?」
海老名警部補の問いに、寺脇鑑識官は再び、空薬莢入りのポリ袋を掌の上で弄びながら答える。
「その事件の現場に残されていた空薬莢も、今回の事件で使われたのと同じ、9×18㎜マカロフ弾の物だったそうですよ。勿論、これら二つの事件が同一犯による犯行だと言う確証はありませんが、なんらかの因果関係はあるかもしれませんね。まあ、これも参考までに覚えておいてくださいよ」
「分かった。犯人はロシア製の拳銃を使い、もしかしたらその身元不明の白人を殺した犯人と同一人物かもしれないんだな? 頭の片隅にでも入れておくよ」
そう言うと、海老名警部補は寺脇鑑識官をその場に残して、遺体安置所を後にした。そして警察署内の階段を上り、彼が所属する捜査一課のオフィスへと足を向ける。現在の時刻は、既に夜半過ぎ。窓の外は暗く、夜空には月と星が冷たく輝き、眼下の街路に人気は無い。
「ロシア製の拳銃ねえ……」
ボソリと呟きながら、海老名警部補は捜査一課のオフィスに足を踏み入れた。安物の官給品の机と椅子が雑然と並べられ、捜査の資料や捜査員の私物が雑多に積まれたオフィス内には、まばらではあるがそこそこに署員が残って残業に勤しんでいる。するとそんなオフィスの一角から聞こえて来たのは、やけに軽薄で能天気な歌をBGMにした、この場にはあまり似つかわしくない若い女性の元気な声。見れば若手の捜査員数名がオフィスの隅に集まり、カップ麺やコンビニ弁当等の夜食を食べながら、私物のタブレットPCの液晶画面を食い入るように覗き込んでいた。そして先程から耳に届く女性の声は、そのタブレットPC上で再生されている動画から漏れ聞こえて来ているらしい。
「おい、お前ら。休憩中は別に何をしようと勝手だが、もう少し音を小さくしろ。この歳になると、若い女の甲高い声が耳障りでかなわん」
「あ、すいません海老名さん」
海老名警部補に注意された若手捜査員の一人が、タブレットPCの液晶画面をドラッグして、動画の音量を下げた。それを確認した海老名警部補は顔をしかめながら、深い溜息と共にオフィス内の自分の席に腰を下ろす。そして若手捜査員達が一体何の動画を観ているのかと眼を遣れば、そこに映っていたのは現在売り出し中の新人アイドル、せりりんこと芹澤芹華。桑島健蔵も入れ込んでいる彼女は、どうやらこの警察署の若手捜査員達をも魅了して止まないらしいが、そう言った若者のポップカルチャーに疎い海老名警部補は蚊帳の外だ。
「そんな娘っ子がキャーキャー言ってるのの、何が楽しいのかねえ」
年寄り臭い愚痴を漏らしながら、海老名警部補はワイシャツの胸ポケットからタバコのソフトパックを取り出した。銘柄は中年男性の定番、セブンスター。そしてソフトパックの銀色の封緘紙を剥がすと、トントンと剥がしたのとは反対側の封緘紙を指で叩き、飛び出した紙巻タバコを一本抜き取って口に咥える。
「海老名さん、タバコタバコ、ターバーコ。国民健康増進法、忘れたんですか?」
先程動画の音量を注意された若手捜査員が、今度は海老名警部補に注意した。国民健康増進法の規定により、当然ながらこの警察署のオフィス内でも、誰もタバコを吸う事は許されない。
「分かってるよ。火を着けはしないさ。口寂しいから、咥えているだけだ。そのくらいは許してくれよ」
海老名警部補が弁解するようにそう言うと、若手捜査員は一旦肩を竦めてから、再び動画の視聴に専念する。
「ああ糞、タバコが吸いてえなあ」
天井を見上げながら、海老名警部補は本音の愚痴を漏らした。
若手捜査官が手にしたタブレットPCの液晶画面の中では、芹澤芹華が軽薄で能天気な歌を歌い続けている。
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