第二幕


 第二幕



 高画質の液晶画面に表示された動画には、着ぐるみパジャマに身を包んだ桑島健蔵が映っていた。その動画の中では、どうやら自撮り棒の先に固定したスマートフォンのカメラで自分を撮影しているらしい健蔵が、入り組んだ路地裏を歩きながら視聴者に向かって何かを説明している。自宅の中だけに止まらず、戸外でも着ぐるみパジャマのまま平気で出歩いているとは、健蔵の恥知らずぶりも中々堂に入ったものだ。しかしその動画が再生されているこの場所は、ボロアパートの一角の、健蔵が住む六畳間ではない。そして動画を再生している機材も健蔵が所有するノートPCではなく、もっと薄くて軽量の、最新型のタブレットPCだ。

 するとやけに毛深くて野太い手がタブレットPCの液晶画面を覆うと、人差し指でもってボタンをタップし、動画の再生を一時停止させた。動きを止められた液晶画面上では、路地裏を歩く着ぐるみパジャマ姿の健蔵の顔がクローズアップされている。

「いかがですか、この動画は?」

 動画を一時停止させた野太い手と指の持ち主が、やや含みを持たせた口調でもって尋ねた。

 ここは健蔵が住むボロアパートの六畳間ではなく、やけに小綺麗で広壮な、タワーマンションの高層階の一室。真っ白な壁紙に覆われた壁面と、落ち着いたダークブラウンのフローリングに覆われた床に生活感は無く、この部屋が個人の住居ではなく企業のオフィスとして利用されている事をうかがわせる。そしてその部屋の中央に置かれた、マホガニー材の一枚板で出来たいかにも高価そうなフロアテーブルを挟んで、三人の男女が革張りのソファに腰を下ろしていた。

「ふむ……」

 フロアテーブルの片側のソファに座っているのは、髪をオールバックに固めて丸眼鏡を掛けた長身痩躯の男と、髪の長い熟年の女。二人は互いに目配せすると、男は腕を組みながら、女は顎に手を当てながら暫し思い悩む。

「この動画が広く世間に知れ渡れば、あなた達もこの事務所も、困るでしょう? そうなればすぐに拡散されて、炎上は必至だ」

 二人の男女とは向かい合う体勢で、フロアテーブルのもう片側のソファにどっかと座った、野太い手の男が言った。その男はやや肥満気味の体型で、丸々とした頭にはニット帽を被っている。

「……何が望みですかな?」

 長身痩躯のオールバックの髪の男が、神妙な面持ちでもって、ニット帽の男に尋ねた。するとニット帽の男はほくそ笑みながら、指を一本立てて答える。

「まずは相応の口止め料として、最低でもこれだけは頂きましょうか。そうすれば俺は何も観なかった事にするし、俺が事前に調べ出しておいた、この動画の撮影者の身元を教えてあげますよ。どうですか? お互いにとって、悪い取引じゃあないでしょう?」

 そう言って、ニット帽の男はその顔に浮かぶ笑みを深めた。彼の言葉に、オールバックの男は隣に座る髪の長い熟女と再び目配せしてから、忌々しげな口調でもって答える。

「……分かりました、金は払いましょう。しかし我々も不景気なものでして、残念ながらあなたが提示する最低金額しか払えません。構いませんね?」

「まあ、いいでしょう。今はどこも不景気だ、我慢しますよ」

 仕方が無いとでも言いたげにわざとらしく肩を竦めてみせながら、ニット帽の男はオールバックの男の提案を呑んだ。するとオールバックの男はソファからゆっくりと腰を上げ、部屋の奥のドアを開けて一旦退室すると、数分後に再び同じドアを開けて戻って来た。そしてソファに腰を下ろし直した彼の手には、真新しいピン札の札束が握られている。その札束の厚さ、約十㎝。

「現金で、一千万。これで動画の内容は口外しないし、動画の撮影者の身元を教えてもらえるんですね?」

「結構。それではこれが、動画の撮影者の氏名と住所だ」

 そう言ったニット帽の男が鞄から取り出した小さな封筒と、オールバックの男が手にした現金で一千万円分の札束が、マホガニー材のフロアテーブルの上で交換された。そしてニット帽の男はほくそ笑みながら札束を鞄の中に仕舞い、オールバックの男は長い髪の熟女と共に、封筒の中に入っていた一枚のメモ用紙を取り上げて凝視する。そこには動画の撮影者である着ぐるみパジャマの男、桑島健蔵の住所と氏名が記載されていた。

「これが、この動画の撮影者ですか?」

「その通り。後はあなた達がその男を煮るなり焼くなり、好きにすればいい。俺はそいつがどうなろうと、知ったこっちゃないからな。たとえ新聞の一面を飾るような事態になろうとも、マスコミにも警察にも、一切口外はしないよ」

 オールバックの男の問いに答えたニット帽の男は、一千万円分の札束が入った鞄を抱えてソファから腰を上げると、部屋から出て行こうとする。

「それじゃあ、俺はこれで失礼させてもらいましょうか。……ああ、見送りは結構。今後とも、ご贔屓に」

 そう言い残すと、ニット帽の男はオールバックの男と長い髪の熟女の二人を残して、部屋から退出した。部屋のドアの廊下側には、『応接室』と書かれたネームプレートが掲げられている。そして廊下の壁には、この企業の社名とロゴマークが大きく印刷されていた。その社名は、『Phalaenopsis/ファラエノプシス』。その社名とロゴマークを横目に、一千万円の臨時収入に気を良くしたのか、ニット帽の男は陽気な鼻歌を歌いながら廊下を歩き続ける。彼は未だ、自分が虎の尾を踏んだ事に気付いてはいない。

 ニット帽の男が退出した後の、応接室。その応接室に残されたオールバックの男と長い髪の熟女は、それぞれ思う所があるのか、暫し沈思黙考していた。およそ十分ほど、静かに時間だけが経過して行く。するとおもむろに、長い髪の熟女は無言のまま着ているビジネススーツの胸ポケットからタバコの紙箱とライターを取り出すと、まずはタバコを一本口に咥えた。銘柄は、マルボロライトメンソール。そして派手な彫金が施されたガスライターでタバコの先端に火を着けると、軽くくゆらせるようにして、ゆっくりとメンソールの味を楽しむ。

「……始末しますか?」

 沈黙を破って、オールバックの男が尋ねた。

「無論だ」

 長い髪の熟女は即答し、タバコをくゆらせる。

「どちらを?」

「両方に決まっている」

 再び、オールバックの男の問いに長い髪の熟女が即答した。

「まずは、忌々しい今のゴシップ記者からだ。あたしは、デブとハゲが嫌いだからな。あんな醜い生き物は、一分一秒たりとも生かしておきたくない」

 そう言いながら、紫煙を吐き出した長い髪の熟女。彼女の命令を受けて、オールバックの男はソファから腰を上げると、応接室から退出しようと歩を進める。そして白い壁紙に覆われた応接室を縦断しながら、一体何が楽しいのか、彼は白い歯を剥いてニタニタと笑っていた。

 長い髪の熟女は、タバコをくゆらせ続ける。


   ●


 混雑する地下鉄の座席に腰を下ろした男は、ウトウトと舟を漕いでいた。そして東京都内の比較的郊外に在る某駅に電車が到着すると、男はハッと眼を覚まして立ち上がり、閉じかけていたドアへと急ぐ。

「すいません! 降ります! 降ります! 通してください!」

 そう声を掛けながら乗客を掻き分け、男は駆け込み乗車ならぬ駆け込み降車で電車から飛び降りてから、駅のホームでホッと安堵の溜息を漏らした。

「ふう、危ねえ危ねえ。これが終電だってのに乗り過ごしたら、高い金払ってタクシーで帰る羽目になるところだったよ」

 額に浮いた汗を拭いながらそう言った男は、不意にほくそ笑むと、小脇に抱えた鞄をポンポンと叩く。

「ま、高い金とは言っても今日に限っては懐が暖かいから、多少の出費くらいなら痛くも痒くもないけどな」

 叩かれた鞄の中には、少しだけ嵩が減った一千万円分の札束が詰め込まれていた。そして男は肥満気味の腹を擦り、汗を拭った際にズレた頭のニット帽を被り直すと、駅の改札口に向かって歩き始める。最終電車に乗って自宅の最寄り駅へと帰還したこの男こそ、桑島健蔵が撮影した動画を世間に拡散させない事を条件に口止め料として一千万円を受け取った、ニット帽の男だった。

「しっかし、今日は久し振りに豪遊させてもらったな」

 駅の改札口から地上へと出て、住宅街に向かって歩きながらそう独り言ちたニット帽の男は、下品な舌なめずりをしながら今夜自分が享受した快楽を反芻する。

 まんまと一千万円もの口止め料をせしめた彼は、その足で六本木に向かい、まずは高級焼肉店で少し早めの晩餐と洒落込んだ。未だ陽も高い内から腹を満たし喉を潤す高級和牛肉と生ビールは、贅沢三昧に対する僅かばかりの背徳感も含めて、この上無い至上のご馳走だったに違いない。そしてその肥満体に違わぬ健啖家ぶりを見せ付けるかのように大量の肉とビールを賞味したニット帽の男は、腹ごなしとばかりに、今度は馴染みのソープランドへと向かった。そのソープランドで一番人気の泡姫に奉仕されながら一戦交えた後に、彼はこれまた馴染みのキャバクラへと足を向け、高価な酒を飲みながら退廃的な女遊びに耽る。そうこうしている内にやがて饗宴の時は過ぎ、最終電車にギリギリ間に合う時間になってからようやくキャバクラを後にしたニット帽の男は、こうして自宅の最寄り駅へと辿り着いて今に至るのだった。

「げっぷ」

 食欲と性欲を充分に満たして満足げなニット帽の男は、その口から盛大なゲップを漏らしながら、ふらふらと千鳥足で帰路に就く。未だ酔いが覚め切っていないその足取りは雲の上を歩いているかのように不安定で、見るからに危なっかしい。だが後はこのまま自宅へと帰還して布団の中に潜り込み、三大欲求の最後の一つである睡眠欲さえ満たしてしまえば、今日と言う日は彼にとって記憶に残るべき充足の一日となる筈だ。

「おん?」

 歩きながら、ニット帽の男はふと気付いた。彼の前にも後ろにも、人っ子一人猫一匹居らず、辺りはまるで全ての生けとし生ける者が死に絶えたかのようにしんと静まり返っている。最終電車の時間とは言えそれなりに人々の喧騒が絶えない駅前とは違って、今現在の彼が歩いている深夜の住宅街に人影が少ない事に不思議は無いが、ここまで静かなのは珍しい。

「なんか、嫌な感じだな」

 ボソリと呟いたニット帽の男の頭上では、未だにLED電球に交換されていない旧式の街灯が、チカチカと点滅を繰り返していた。そして彼はぶるっと背筋を震わせると、誰に言うでもなく再び呟く。

「ま、今の俺にとっちゃ、人が居ない方が都合がいいがな」

 そう言うと、ニット帽の男は街灯によって明るく照らされた本道から、暗く狭い脇道にそそくさと進入した。そして一旦キョロキョロと周囲をうかがってから壁沿いに立ち、ズボンのジッパーを下ろすと、股間から生えた汚い性器を夜風に晒す。すると性器の先端からジョボジョボと泡立つ黄褐色の液体が溢れ出て、脇道沿いに建つ見知らぬ誰かの家の、コンクリートブロックを積み重ねて作られた外塀を濡らした。どうやら彼は、立ち小便がしたかったらしい。

「ふう」

 満足げな溜息と共に再び背筋をぶるっと震わせると、ニット帽の男は膀胱の中に溜まっていた全ての小便を放出し終えた。戸外での小便は、してはいけない事をしていると言う罪悪感も相まって、便所での小便以上の快楽が得られる。そしてまろび出ていた性器をパンツの中に仕舞い直した彼は、ズボンのジッパーを上げてから、ちょっとだけ小便が引っかかってしまった指先をズボンの太腿の部分で拭いて誤魔化した。すると不意に、暗闇から何者かの声が届く。

「小便は終わったかい?」

「うわっ!」

 立ち小便を終えて気が抜けていたところに突然声を掛けられて、ニット帽の男は頓狂な声を上げて驚いた。少しだけ、尿道に残っていた小便を漏らしたかもしれない。そして声のした方角を見遣れば、彼の立っている場所から十mも離れていない脇道の奥まった箇所に、いつの間にかやけに背の高い人影が一つ立っていた。その人影が立っている箇所にはギリギリで街灯の灯りが届いていないので、仔細な人相までは確認出来なかったが、そのシルエットと声から推測するにおそらくは男性であろう。

「だ、だだ、誰だ?」

 ニット帽の男が少しどもりながら尋ねた、次の瞬間。「プシュッ」と炭酸飲料の缶を開けた時の様な噴出音が暗い夜道に反響し、それとほぼ同時に、脂肪でブクブクに膨れた彼の腹に激痛が走った。そして一泊の間を置いてから、安物のシャツの腹部にジワジワと赤い血の染みが広がり始める。

「……え? え?」

 腹部に激痛が走った直後、ニット帽の男は何が起こったのか理解出来ずに、数年前に罹患した尿菅結石が再発したのかと思った。まるで焼け火箸で突き刺されたかのような鋭い痛みは、あの時の激痛にとてもよく似ていたからである。しかし着ているシャツが見る間に血に染まり、また眼前の暗闇の中に立つ人影が拳銃の様な物を持っている事に気付くと、ようやく自分は銃撃されたのだと理解した。

「く、来るな! こっちに来るな!」

 ニット帽の男はそう叫んで鞄を胸に抱え直すと、自分を銃撃した暗闇の中の人影から少しでも遠ざかるべく、踵を返して足を踏み出す。しかし一歩を踏み出した途端に、再び腹部に走った激痛によって体勢を崩して膝を突くと、そのままアスファルトの路面に這いつくばってしまった。ちなみに彼が鞄を抱え直した理由は、暗闇の中の人影の正体を、鞄の中の札束を狙った強盗だと判断したからに他ならない。

「あ……あああ……たす……助け……」

 這いつくばった体勢のまま、激痛で脚に力が入らないニット帽の男は腕の力だけで這い進むようにして、なんとかその場から逃走しようと奮闘する。しかし当然ながら奮闘空しく、牛歩の歩みの如く一向に前に進まない彼の背後からは、銃撃者の足音がゆっくりと近付いて来た。そしてニット帽の男が恐れ戦きながら背後を振り返ると、アスファルトの路面に這いつくばった体勢の彼と頭上の街灯との間に、消音装置サイレンサーが装着された自動拳銃オートピストルを構えた人影が立っているのが眼に留まる。その人影はグレーのスーツに身を包んだ長身痩躯の男であり、髪をオールバックに固めて丸眼鏡を掛け、何が楽しいのか歯を剥いてニタニタと笑っていた。つまりそれは、今から半日ほど前に、タワーマンションの応接室で髪の長い熟女と共にソファに座っていた男である。

「お前は……」

 人影の正体を察し、眼を見開いて驚愕の表情を浮かべたニット帽の男の背中に、オールバックの男は躊躇い無く二発目の拳銃弾を撃ち込んだ。更に続けざまにもう一発、今度はニット帽で半分隠れた後頭部にも、鉛の拳銃弾を撃ち込む。すると胸部と頭部に穴を穿たれたニット帽の男はそれらの穴から鮮血を噴出しながら息絶え、這いつくばった体勢のまま、それ以上動く事は無い。そしてこの期に及んでも、彼は盗られてなるものかとでも言いたげに、一千万円の札束が詰まった鞄をその胸に抱えていた。

「悪いが、その金は返してもらうよ。お前みたいな下卑たデブが冥土の土産にするには、あまりにも過ぎた駄賃だ」

 手にした自動拳銃オートピストルから消音装置サイレンサーを外し、それらを小脇に抱えたクラッチバッグの中に仕舞い終えると、そう言いながらニット帽の男の死体の傍らにしゃがみ込んだオールバックの男。彼は指紋が残らないように手袋を穿いた手で死体が抱えた鞄を奪い取ると、その中から札束を抜き取り、それを自分のクラッチバッグの中に拳銃と並べて仕舞い込んだ。最後まで自分の金を守ろうとしていたニット帽の男の無念は察するに余りあり、死んでも死に切れないとはこの事だろう。

 やがて長居は無用とばかりに、オールバックの男は脇目も振らず、まるで何事も無かったかのような足取りでもって街灯の灯りの中から暗闇の中へとその姿を消した。後に残されたのはニット帽の男の物言わぬ射殺体と、街路の隅に転がって金色に輝く三個の空薬莢のみ。

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