XI 世界燃焼
地下室には妙に熱がこもっていた。
イロハはどこにいるのだろう。
無事ならいいのだが。
階段を降りた。階段から降りた先は大きな円形の広間になっており、壁際には本棚が並んでいる。
その広場の真ん中に、それはあった。
一人の女性が倒れていた。よれよれのシャツにデニムのパンツを履いた年齢不詳の女性。トレードマークのメガネは割れてそばに転がっており、頭から赤黒い液体が零れ落ちていた。
小さな息が口から洩れる。
「ああ……博士」
そばに近づき、博士の手首に手を添える。博士の予想は当たってしまったらしい。博士はすでにこと切れていた。死因は頭への外傷だろう。他に傷はない。
けれど、誰が殺したんだ。
「……お待ちしていました」
声が聞こえた。
どこか懐かしさを覚える声。低く、そして魅力的な女性の声だった。
視線を上げる。広間の奥に一人の女性が椅子に座っていた。
「母さん」
思わず声が漏れる。白いローブを羽織ったその女性は、神崎恭子その人だった。
「母さんがこれをやったのか?」
僕の質問に対してその人物は答えなかった。
「なぜ」
「時計を見てください」
母の声が言う。言われるままに携帯を取り出した。時刻は午後11時40分。
世界が滅びるまで、あと20分。
「最初に言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」
「……聖書がなに?」
「別にどうというわけではありません。ですが、この言葉はとても面白いことを言っていると思いませんか?」
「面白いこと?」
「言葉は神です。神は人間を作った。すなわち人間は言葉によって作られた。そういうことになりませんか」
「人間の条件が言葉だと言っているのか? でも言葉を使うのは人間だけじゃない」
「抽象的な概念を言葉によって表明できるのは人間だけです」
「数くらいならほかの生き物でもわかりますよ」
「では神ならどうでしょう」
僕はかすかに笑ってしまった。
「別に人間だって神のことをそんなに理解しているわけではないでしょう?」
「そうかもしれません」
母の声は淡々と言った。
「ですが、言葉なしの思考というもの想像するのは難しい。それも事実です」
僕はしぶしぶ頷いた。
「実際、人間の思考が言葉によって制限されるという説があります」
「サビア=ウォーフの仮説ですか」
エドワード・サピアは20世紀頭に活躍した言語学者、ベンジャミン・ウォーフはその弟子である。彼らはネイティブアメリカンの言語を研究するうちに、人の思考の形式、世界観はその人の用いる言語に依存するという仮説を提唱した。
「だから終末の言葉を知れば終末の世界が理解ができると、母さんはそう思った?」
「そうかもしれません」
「サビア=ウォーフの仮説は色と認識の実験なんかで否定されている」
「でも完全に否定されているわけではない……もっともこれは言い訳のようなものかもしれない。私は世界の最後の言葉を聞いた。それは少なくとも私の中では事実です。そしてその言葉が何だったかを知りたいと思っているのも事実。だから私はその目的を果たすために努力をした」
母は話を変えた。
「あなたは5年前のことを覚えていますか?」
「5年前?」
「忘れているのですか?」
「何を言っているのかわからない」
僕は5年前のことを思い出す。別になんということもない小学生がそこにはいた。僕はただ家が嫌いで、家を出た。
「そっか……だからあなたはもういなくなってしまったんですね」
僕には何の事だかさっぱりわからなかった。
「それより母さんはこれから何をしたいんだ」
「博士から聞いていませんか? 世界の最初の言葉を聞こうと思います」
「それで、その言葉を唱えたらどうなる? まさか、本当に世界が終わるとでも期待しているのですか?」
僕が問う。
「わかりません」あの人が言う。「終わるかもしれません。終わらないかもしれません。滅びるならそれはそれで構いません。滅びないならほかの方法を考えます」
「いや終わらないだろう」
「それならすぐに振り返ってホテルに帰ったらどうです」
「……」
母の言うことは正しい。世界の最初の言葉なんてわかったところで、何の意味もないと思うなら、回れ右して警察に通報すればいい。それなのに僕はそれをしていない。なぜだろう。僕は自問した。まさか本当にそれと同時に世界が終わると、信じているのだろうか。
いや馬鹿な。そんなはずはない。僕は妄想を振り払う。
「あんたは狂っている」
僕は母に近づいた。
「あなただってそうでしょう?」
「でも、放っておけない」
僕は走り出した。母の後ろに扉が見えた。その向こうにマシンがあるのだろうと思った。
時計を見る。12時まであと3分。
扉に飛び込む。母は邪魔をしなかった。
そこには予想通りいくつもの棚があり、コンピュータが設置してあった。どれがメインなのだろう。そんなのわからない。僕は一番手前においてあるそれの電源コードを無理やり引き抜いた。
コンピュータの前面で光るランプは、消えない。もしかしたら内部電源でもあるのかもしれない。僕はあたりを見回した。一つ一つ壊して言ってもらちが明かない。なにかいいものはないだろうか。
僕は壁際に置いてあった小さな箱に気が付いた。その中には古いフィルムが置いてあった。
なぜかその横にライターまで置いてあった。
僕はそれをひっつかんだ。
コンピュータの上にフィルムを撒き、ライターで火をつける。古いセルロイドのフィルムは勢いよく燃え上がった。
僕は広間に取って返し、片っ端から本を引き出し、コンピュータ室に放り投げる。フィルムの火は本に移り、それがどんどん大きくなる。
その時、何かの音が聞こえた。
それが何だったのか、僕にはいまだによくわからない。歌のような、言葉のような、ただどこか親しみを覚える音だった。私はあなたの敵じゃない。一緒の側にいたい。そういう思いを感じさせる音だった。どこから音がしたのかははっきりとはわからなかった。それはそこかしこから聞こえていた。まるで建物全体がスピーカーになっていて、その音を聞いているみたいだった。
僕は思わず手を止めた。
自分が間違ったことをしている気がした。
何かを壊すという行為が、信じられないほど野蛮で罪深い行動のように思えた。
かすかな、うめき声のようなものが聞こえて僕は我に返った。
先ほどまで母が座っていた椅子、その上に一人の少女が力なく倒れこんでいた。
「イロハ!?」
なぜここにイロハがいるんだ。わけがわからなくなった。
駆け寄って肩をゆする。イロハがうめきながら目を開けた。
「……あれ、にいさん?」
「イロハ! 大丈夫か!?」
「ええ、ちょっと頭が痛みますけど……」
「一体何があったんだ?」
「わかりません。資料庫の電気をつけて、それから兄さんの所に戻ろうとしたんですけど、いきなり目の前が真っ暗になって……」
イロハが頭を押さえる。
「いや無理に思い出さなくていい」
僕は胸をなでおろした。
「それより兄さん、後ろがなんかすごいことになってますけど」
僕は振り返る。
計算機室は真っ赤な炎を噴き出して燃えていた。
炎を天井をなめるように進み、そばにあったから書架から順に燃え移っている。
「逃げるぞ、イロハ」
「あ、あそこに博士が!」
妹が気が付く。
「博士はもう無理だ」
「でも――」
「いいから!」
僕は妹の肩をを抱えて僕は地上に出た。
資料庫からはかすかに煙が立ち上っているのが見える。火が出ていることに周りが気が付くのはまだだいぶ後のことだろう。
「救急車を呼ばないと……」
イロハが懐に手を入れる。
「あれ」イロハは首をかしげた。
「どうしたんだ?」
イロハは懐を探りながら言った。
「スマホがありません」
「どこかで落としたのか?」
「かもしれません……兄さん、通報をお願いしていいですか?」
「いや、通報は後回しだ」
教会に目をやった。教会には大勢の信者がいるのが見えた。彼らがこのことを知ったら何をするのかわからない。
僕たちは教会のわきの通用門から道路に出た。
空を見上げる。
何も見えない黒い空に気が付いた。
星一つない街の夜空が見えた。
世界はまだ滅んでいない。
****
『言葉の教会』という新興宗教の施設で火事があった。
その火災によって施設に併設された倉庫が全焼し、教団の指導者の住んでいた家も焼けた。倉庫の地下から一人の死体が発見された。死体は教団の創始者である神崎恭子のものと確認された。
当時、施設には信者たちが集まって集会を開いていたが、他にはけが人は出なかった。彼女の一人娘、神崎イロハが行方不明になっており、警察は捜査を進めている。
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