VIII ハインドキャスト

 

 1

 

 後で冷静になって考えると、あの本が本物だったなんて証拠はどこにもない。

 もちろん中身は見てみた。普通の小説だったし、普通の、昔のギリシャ風の哲学書(のアラビア語写本)のようだった。

 そもそも本物とは何だろうか。

 存在しなかった小説の本物なんて一体だれが決めるのだろうか。

 誰も見たことがない本の真贋なんて誰が決めるのだろうか。

 存在しないものが存在する。それは矛盾である。前提が偽ならばどのような命題でも真なのだ。

 そもそもなぜあんなものが作られたのだろう。

 僕は博士の部屋を訪ねた。

 

 

 2

 

 博士の部屋を訪ねたのはもう5時過ぎだった。さすがに博士は起きていた。博士は椅子に座ってコンピュータをにらみながら作業をしていた。

「すみません、少し話を聞きたいのですがいいですか?」

 背後から声をかけると、博士はふらふらと振り向いた。

「あれー、救世主君じゃないですかあ」

 博士は昨日よりもやつれて見えた。もともと痩せ気味ではあるのだが、なんというか、生気がない。

「……大丈夫ですか?」

「だいじょうぶですう」

「なんだか元気がないように見えるのですが」

「そうですかあ?」

「まるで丸一日ご飯を食べていない犬みたいですよ」

「ごはん……?」

 博士はなんだか不思議なものを見るような目で僕を見た。僕は嫌な予感を覚えた。

「もしかして、ご飯食べてないんですか?」

 博士はぶんぶんと首を縦に振った。その様子は、まるでおやつを目の前にした犬のようだと思った。

 

「博士は大学時代はどうしていたんですか?」

「大学時代?」

「一人暮らしをしていたんじゃないですか?」

 実家のキッチンで博士のためにそうめんをゆでながら僕は訊ねた。

「もちろん一人暮らししていましたよお」

 机に突っ伏した博士が言う。

「それならご飯くらい作れそうなものですけど」

「ご飯くらい作れますよお」

「じゃあ自分で作ればいいのに」

「面倒で……」

 机の上でスライムのように伸びた博士が、伸びきったばねのような針のない声で言った。

 学生時代によくもまあ死ななかったものだと、僕は変な関心の仕方をしてしまった。

 そうめんをざるにあげる。水で冷やし、ボウルに入れてからダイニングの机に持っていく。

「おおぉー」

 博士が目を輝かせる。

「はいどうぞ」

 僕は冷蔵庫に置いてあっためんつゆとねぎのみじん切りを差し出しながら言った。

「何かほかに味のあるものはないんですかあ?」

 僕は無言で、棚の中に置いてあったみたらし団子を差し出す。

 博士は満足そうにうなずいた。安い人である。

 どうやら食べられればなんでもいいらしい。

「それで、博士、少し聞きたいことがあるのですが」

 口いっぱいにそうめんをほおばった博士が僕を見る。頬袋に餌を詰め込んだリスみたいだと思った。

「……いえ、後でいいです」

 博士は口いっぱいの食べ物を飲み込み言った。

「話してください。時間がもったいないのでえ」

 意外と時間にうるさい人なのかもしれない。それとも単純にご飯を食べるという行為が退屈なのだろうか。

 僕は話してみることにした。

「博士は世界の最後の言葉を探しているんですよね?」

 博士がうなずく。

「それ以外にやっていることはないのですか?」

 博士は首をかしげた。

「例えば昔の本を再現するとか」

 博士はポンと手を打った。

 なにやら心当たりがあったらしい。僕は博士が食べ終わるのを待つことにした。

 

「ハインドキャストという言葉をご存知ですかあ?」

 そうめんを食べ終わった博士が僕に聞いた。僕は頷いた。

 ハインドキャストとは何かを予測するアルゴリズムを作った際にそれが本当にうまく働いているかを調べるための手法である。

 例えば天気予報をするアルゴリズムを作ったとする。それが本当にうまく働いているかを調べる一番簡単な方法は、実際に予報をしてみることである。それが上手く働いているならば、勿論きちんと予測できる。だが実際の予報は確かめるのに時間がかかる。例えば一日先の天気を予測して、それが正しいかを確かめるためには一日待たなくてはならない。それは面倒だ。

 そこで使うのがハインドキャストである。

 やることは単純で過去のデータを用いて過去にとっても未来を予測する。

 例えば100日前の気象データを用いて99日前の天気を予測したとする。

 もしそれが上手くいっていれば、正しく99日前の天気を予測できるはずである。それを確かめるのには一日待つ必要などもちろんない。なぜなら99日前の気象データはすでに存在するのだから。

「それと同じことをしたということですか? つまり100年前の言葉を用いて99年前の言葉を予測したと?」

 博士は頷いた。

「で、その結果はどうだったんですか?」

「めちゃくちゃうまくいきましたあ」

「めちゃくちゃってどれくらい……」

「少なくとも100年単位の予測ならほとんどずれないですう」

 博士が言う。

「だから不思議なんですう。なんで今から100年後は見えないんでしょう? これはすごく不思議です」

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