III-2 コンピュータ
2
「それで聖女ちゃん、何か用があるんじゃないのですかぁ?」
博士が言う。そういえば彼女に聞きたいことがあったから来たのだった。キャラクタが濃すぎて忘れていた。
「博士が母さんと何をやっているか兄さんに教えて欲しいんです」
「はぁ、別にいいですけどお」博士が言う。「あの、前に一度聖女ちゃんに話したと思うんですけどお?」
「ええ、だから何ですか?」イロハが聞き返す。
「だったら聖女ちゃんから救世主君に説明すればいいんじゃないですかぁ?」
「私は全然理解できていませんので」
イロハは表情を変えずに言う。
「ええぇーあんなにわかりやすく説明したのにぃー」
博士は大げさに嘆いた。
「で、説明してもらえますか?」
「別にいいですよぉ? でも聖女ちゃんも聞いて行ってくださいね?」
「なんで私まで」
「だってわかってもらえないのって悔しいじゃないですかあ」
そう言って博士は立ち上がった。そして博士は部屋の壁にかかったホワイトボードの前に立つ。
「それで何について聞きたいんですか? 恭子のスリーサイズ?」
母親のスリーサイズを知りたい子供なんて気持ち悪いことこの上ない。
「知りたいのは『世界の最後の言葉』についてです」僕が問う。「そもそもそれをどうやって調べようというのですか?」
「そうですねえ、どう話せばわかりやすいのか」少し考えて、博士は逆に聞いてきた。「救世主君はアルファGOっていうプロジェクトをご存知ですかあ?」
僕は頷いた。
「少し前に囲碁の世界チャンピオンを破ったプログラムですよね。グーグルが開発した」
「そう、それですぅ。私たちはそういう技術を使って言葉について解析しているんです」
「言葉について」
「いわゆる深層学習とか機械学習とか言われてるやつです」
「それっていわゆる人工知能ってやつですか?」イロハが口をはさむ。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えますう」博士は続けた。「たまに本とかで機械学習と人工知能をごちゃまぜに書いてる本もありますけど、あれは自分がやっていることをできるだけ大きく見せて、お金をもらうためにやってるだけです。もちろん今の多層ニューラルネット、CNNって呼ばれるものの原型というか、発想の大本には脳の構造を模したマシンを作ろうっていうのがあるのですけど、それが即座に知能って言葉に結びつくのかは、私には疑問があります。そもそも知能って何かをきちんと定義することって難しいですよねえ? 知能って何ですかあ?」
「問題を解決する能力です」イロハが即答する。
「じゃあ問題って何ですかぁ? 足し算をするだけなら算盤でもできますよお?」
「そんな単純すぎるものは知能って言わないと思います」
「じゃあ積分ならどうですか? 積分だって手回し計算機ならできますよ、たぶん聖女ちゃんよりもたくさんの数学的な問題を解くことができるでしょう。手回し計算機に知能はあるのですか?」
「むむむ」
イロハがうめく。そのうめき声はたぶん、答えに詰まったことも原因の一つだが、それに加えて微妙にバカにされて反論できないもどかしさもあるのだろう。
「算盤や計算機はすべて外部から人間が上手く使用しないと計算できないじゃないです。僕たちのイメージする知能はどちらかというともう少し能動的で、独立したなものだと感じます」
イロハに代わって僕が聞く。
「つまり計算機は人間に依存しすぎているということですかあ?」
博士が問う。僕は頷いた。
「でもそれは当たり前じゃないですかあ? 計算機は人間が人間のために作ったものなんですからあ」
「知能は別に人間が人間のために作ったものじゃないはずです」僕が言う。
「そうですけど、人間だって自分を作ったものにかなり強く依存していると思いますよお?」
「自分を作ったもの?」
「例えば宇宙とかですかねえ。もしもこの宇宙以外の別の物理法則が支配する宇宙では、きっと人間はまともに考えたり行動したりできないと思うんですけどぉ?」
「別の物理法則って、例えば?」僕が問う。
「例えば電磁気力がない宇宙とか」
電磁気がない。ということは化学反応が起こらない。というか分子が存在しない。さらに言えば光もない。確かにそんな環境下で人間がまともに知能を働かせられるとは思わない。
ていうか生きていけない。
「それなら人間の知能だって周りの環境に依存しまっくてるじゃないですかあ」
博士が勝ち誇る。
「そんな人間原理みたいな話で勝ち誇られても」
正直納得いかない。
「ところで博士にとって知能って何なんですか?」
イロハが問う。
「え、あたしですかあ、あんまり自分の意見って言いたくないんですけどお」
「何でですか?」僕が聞く。
「だって恥ずかしいじゃないですかあ」
「恋バナをしてる女子中学生ですか!」
イロハは呆れてため息をついた。
博士は散々渋ったが、他の人に話しちゃだめですよお、と前置きしてそっと打ち明けた。
「私はそんなもの存在しないって思いますう」
「存在しない?」僕は思わず聞き返す。
「この世に特別で価値のある知能なんてものは存在しないって、そう考えていますう」
博士は、なかなかすごいことを言い切った。
「それで、なんでしたっけ?」博士は不思議そうに僕を見た。
「なに、とは?」僕が聞き返す。
「なんの話してたんですっけ?」博士は首をかしげながら尋ねた。
「本当に博士には知能がないみたいですね」
イロハはひどいことを言った。
僕はむごいと思った。
「僕たちが知りたいのは世界の最後の言葉についてです。それで機械学習と人工知能の話になった」僕が言う。
「そういえばそうでした」博士がポンと手を打つ。「でもそのことの前に一ついいですかあ?」
「言ってみてください」僕が言う。
「そろそお腹空いたのでご飯にしませんか?」
僕はポケットから携帯を取り出し時間を確かめた。時刻は午後6時近かった。
3
隣を歩くイロハが言う。
「ね、変わった人でしょう?」
イロハの言葉に僕は頷いた。もちろん博士のことである。確かに変わった人だ。というか『変わった人』で済ませていいものだろうか。あれはもっと吹っ飛んだ何かという気がしないでもない。
「私が前聞いた時もあんな風に話が飛び散らかって、よくわからなくなってしまったんです」
確かに今日の調子では話を進めるのにも苦労するだろう。
イロハと一緒に博士の部屋からリビングまで戻り、僕はイロハに告げた。
「じゃあそろそろ僕は帰るよ」
「帰る? どこにですか?」
イロハがキョトンとした顔で僕を見る。
「駅前にビジネスホテルに部屋を取ってるからそこに」
僕が言う。イロハは足を止めて目で僕を見た。
「兄さん」イロハが言う。
「なに?」
「どうして家に泊まろうと思わないんですか?」
それにはいろいろな理由がある。
でも僕は何も言わずに肩をすくめた。
「でも僕の部屋はもうないだろう?」
「兄さんの部屋くらいいくらでも作れます。なんなら私の部屋に泊まってもらっても構いません」
「いやさすがにそれはダメだろ」
僕が言う。
「とにかく、今からホテルキャンセルするのももったいないし、今日は帰るよ」
「兄さん」妹が言う。「兄さんの家はここなんですよ」
そんなこと知っている。でも同時に、きっとここはもう僕の家ではないのだ。
「それじゃあ、また明日」
「ええ、明日も待っています」
イロハの言葉を背に受けて僕は家を出た。
6時を過ぎ。夏の空は東の空から濃紺に染まって、少しずつ夜が近づいて来るのが見えた。
僕は家の前からトラムに乗り、JRの駅へと向かった。
席に座って母の夢について考えた。
世界の最後の言葉。
世界の断末魔。
博士はどうやったらそんなものを見つけられると思っているのだろうか。
博士の言葉を思い出す。
知能なんて存在しない。じゃなくてその前。機械学習の手法で言葉を解析する、と博士は言っていた。チャットボットのようなものだろうか。
最近のチャットボットは大量の会話を学習して、それをもとに返答を決めていると何かの本で読んだことがある。
でもそれで世界の最後の言葉なんて見つけられるだろうか。
そもそも、母はどうしてそんなものを知りたいのだろうか。
僕は駅前でトラムを降りて旅行社に向かった。
とりあえず航空券だけでも取っておこう。
搭乗日は正規料金を払えばかなり自由度がある。
旅行会社に立ち寄った後、僕は駅前でタクシー会社の電話番号をいくつか調べ、ホテルに戻った
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