IV 電話
1
休んでいるとホテルの固定電話に着信があった。
「もしもし?」
「……」
無言電話だった。
ビジネスホテルにいたずら電話がかかってくるなんて珍しいこともあるものだ。僕は電話を切った。
しばらくして、もう一度電話が鳴る。
今度もいたずらかと思い黙っていると、小さな声が言った。
「あの、兄さん」
その声で相手を理解した。
「イロハ?」
電話越しのくぐもった声だったが、その声は紛れもなく妹のそれだった。
「どうしたんだ? こんな時間に」
「別に用事とかはないんですけど、少し兄さんの声が聞きたくて」
なかなか反応しづらいことを言う妹である。
「ところで兄さん」
「なに?」
「なにか面白いことを言ってください」
本当に何も用事はないらしい。
「なにかないんですか?」
無茶ぶりである。僕は話題を探した。
「……そういえばこの間友達と野球を見に行ったんだけど――」
「ストップ」話し始めた僕をイロハが遮る。
「なに?」
「友達って何ですか」
微妙に答えづらいことを聞く。
「友達は友達だよ。よく話したり遊んだりする相手」
「それが友達……」
「いやさすがにそれくらい知ってるだろ……」
「定義は知ってますけど、その、兄さんと友達という言葉が結びつかなくて……本当に兄さん友達いるんですか?」
「何気にひどいこと言うな! 妹!」思わず声が大きくなった。「普通に生きてりゃ友達の一人くらいできる」
「でも兄さんって『友達なんて作ったら人間強度が下がる』とか言う系の男子高校生じゃないですか」
「なんだその偏見。ていうかそんな男子高校生いないだろ」
ていうか人間強度ってなんだ。僕が憤る。イロハはため息をついた。
「なんだか兄さんのキャラがブレてしまいました……あ、もしかして兄さん彼女いるんですか?」
「いや、いないけど」
生まれてこの方ガールフレンドがいたことなんてない。そのことを告げると、電話の向こうのイロハは安どのため息をついた。
「よかった、兄さんに彼女までいたら兄さんが兄さんじゃなくなるところでした」
「お前の兄は彼女の有無で兄だったり兄じゃなくなったりするのか……」
「ええ、ちなみに妹の有無で兄じゃなくなったりもします」
「それは当たり前だ」
「あれ、兄さん気づいたのですけど、この二つの命題から妹=彼女という命題が成り立ちませんか?」
「それはたぶん、前提が偽ならどんな命題でも真っていうだけじゃないかな……」
「そんな」
イロハは不満そうに鼻を鳴らした。僕は話を逸らした。
「そういえばイロハは彼氏いるの?」
「妹にそんなこと聞くなんてセクハラかつパワハラ、合わせてセワハラです」
「そんなことば本当にあるの?」
「でもありそうじゃないですか? 最近**ハラって言葉流行ってますし」
「あったとしたらどういう意味なんだ……」
「せわしくんハラスメントですかね。自分のご先祖様を不当に低く評価するハラスメントです」
タイムマシンでもできない限り被害者は出なさそうなハラスメントだった。
「あと言っときますけど、私は兄さんと違って結構モテるんですよ?」
まあ顔はいいからモテるかもしれない。もっとも顔がいいからと言ってモテるわけではないが。
「いるの?」
「いませんけど」
だろうと思った。
「それで、結局面白い話って何だったんですか?」
イロハが話を戻す。
「別に面白くもないからいいよ」
それから少しイロハと話して僕は電話を切った。
「じゃあまた明日、イロハ」
「はい、兄さん」
「お休み」
僕の言葉で電話が切れた。
一体何だったんだろう。イロハは何がしたくて電話なんてしてきたんだろう。
それとも用事なんてなくて、本当にただ声が聴きたかっただけなのだろうか。
でもなぜ?
考えたけれどわからなかったのであきらめて、僕はベッドにもぐりこんだ。白い清潔なシーツに包まれているとすぐに眠気が迫ってきた。
翌日、目が覚めた僕は朝飯を済ませて教会へ向かった。
2
その日は教会が閉まっていた。僕は教会の裏手に回った。人の背丈に迫る勢いの大きな向日葵が見えた。その横では一人の女性が虹を作っていた。
「あ、おはようございます、兄さん」
虹を作っていた女性が、イロハが僕に気づく。大きな麦わら帽子をかぶったイロハは家の横の散水栓からホースを引っ張てきて向日葵に水をやっていた。
「少し待ってください。もう少しで終わりますから」
僕は庭の隅に座って待つことにした。
昨日は気が付かなかったが、庭には向日葵以外にも花が咲いていた。背の高い菊が庭の隅の花壇に咲き、その横では気の早いコスモスが何かのハーブにうずもれるようにして花開いている。
「これ、イロハが世話してるのか」
僕が聞く。
「ええ、好きなんです」
イロハが答えた。
「聖女らしい趣味かもな」
僕が冗談を言う。
「小鳥にでも話しかけてみましょうか」
「アッシジの聖フランシスコみたいに?」
「誰ですか、それ?」イロハが問う。
「千年くらい前のキリスト教の聖人だよ。小鳥に説教したり教会の腐敗を糾弾したりした」
「立派な人なんですね」
小鳥に説教するのはイロハ的には立派なことらしい。
「そのあとの皇帝と教皇の争いの火種の一つにもなった」
「なかなか迷惑な人みたいですね」
イロハが神妙に言う。
「聖人なんてそんなもんだ」
「……微妙にディスられてる気がしますね」
「気のせいだろう」
僕はイロハを見る。大きな麦わら帽子にデニムの長ズボンを穿いている。長い髪は庭仕事の邪魔にならないように大きなお団子にして頭にまとめている。いつも思うのだが、女性の髪型というのは一体どうなっているのかさっぱりわからない。あの長い髪がどうしてあの二つの団子にまとまるのだろうか。ミステリーである。
「なんですか?」
僕の視線に気づいたイロハが首をかしげる。
「何でもない」
僕は視線を反らした。イロハの様子は昨日と何も変わらなかった。昨日の夜のあれは気の迷いだったのだろうか。僕はこのことをもう考えないことに決めた。
イロハが庭仕事を終えるのを見計らって、僕はイロハに訊ねた。
「それでイロハ、朝からで悪いんだけど、博士と話せるかな」
「それは、どうでしょう。一応博士のところに行ってみてもいいですけど、たぶん難しいですよ」
「午前中は仕事してるとか?」僕が聞く。
「いえ」イロハは呆れるように言う。「たぶん寝てるので」
「なるほど」
それなら難しいだろう。
「そうだ、少し気になっていたんだけど、あの建物は何?」
僕は視線を庭の横に向けた。そこには真新しい建物が一つ建っている。僕が出たときにはそんなものはなかった。
「あれは倉庫です」イロハが答えた。
「倉庫?」
「いろいろ資料が増えたのでそれを置いとくために母さんが作らせたんです」
「資料?」
「言葉に関するいろいろなものです。本とか新聞とか」
面白そうだと思った。
「その部屋見てみたいんだけど」
「なら行きましょう」
イロハは立ち上がった。
建物の中は古い本の醸し出す甘い匂いと、防腐剤のツンとした臭気が立ち込めて、独特のハーモニーを奏でていた。
部屋は天井まで達する本棚や、それ以外の大型の棚でほとんど埋まっていて、棚と棚の間は狭く、人が一人歩くのが精いっぱいだ。この倉庫は人に見せることを前提に作られていないのだろう。
棚を見る。入口付近の棚は最近出版されたばかりの本や雑誌で埋まっていた。ジャンルや言語は様々で、学会誌や専門書があるかと思えばその横に新聞紙がぎゅうぎゅう煮詰まった箱が置いてあったり、さらにその横にR18の漫画本が並んでいた。同人誌なんかまで詰まっている。ジャンルだけでなく言語も様々だ。日本語はもちろん英語や広東語、キリル文字やハングルの本も並んでいる。さらに奥にはさらにマイナーな文字の本がある。インドのデーバナガーリ文字、タイのタイ文字、スリランカのシンハラ文字……よくこんなに集めたものだと感心する。
「これなんだっけ……エバンス音節文字じゃん! 新聞なんて発行されてるんだ!」
「なんですか、それ」
「カナダのイヌイットに聖書を広めるためにエバンスって修道士が19世紀に作った文字だよ。記号がすごく単純で
ほらこれとかまるで数式みたいだろ?」
「兄さん楽しそうですね」
我に返る。あほを見る目で妹は僕を見ていた。
一つ咳払いし、僕はもう一度周りを見回した。本棚に詰まった本や新聞。
「建物全体でこんな感じなの?」
「おおむねそうです。ただ奥にはもっと古いものがあります」
「古いもの?」
「古い羊皮紙の本とか、石板とかです。私にはもちろん読めませんが」
僕は奥に進んだ。イロハの言う通り奥にはいろいろな古い本が収められていた。最初にあったのは椰子の葉に刻まれた経典がガラスのケースに入れられていた。その横には牛皮に書かれた古いアルメニア文字の経典、さらにお決まりのラテン語聖書、ウルガータの隣にぼろぼろのギリシャ語聖書――いわゆる70人訳聖書ってやつ、その隣にはヘブライ語聖書、サマリタン聖書、死海文書のコピーなどたくさんの古い聖書がずらずらならんていた。さらにその奥には、線文字Aが刻まれた土器のかけら、きっと偽物だろう。
「これで全部?」
一番奥の棚、シュメールの楔形文字が刻まれた粘土板の詰まった棚までたどり着き、イロハに聞く。
「そのはずです」
「それにしてもすごい量だ」
「ええ、すごいでしょう」
なぜかイロハが胸を張る。別にイロハが集めたわけじゃないだろう。
でも、すごい資料だとは思うが、これを使って何を調べているんだろう。まさか図書館や博物館でも作りたいわけはないし。
確かにすべての資料に文字は書かれているが、その対象が空間的、時間的にあまりに広がりすぎている気がする。専門家だったらこんな乱雑な集め方はしないだろう。
それともこのこと自体に意味があるのだろうか。
「それを調べるのが兄さんの仕事ですよ」
イロハが言う。そういえばそうだった。
「でもその前に博士に話を聞こう」
「そうですね、でもその前にすることがあります」
「すること?」僕が繰り返す。
「兄さん、お昼にはご飯を食べるものなのですよ?」
「そういう意見もある」
イロハの言葉に従って、僕たちは倉庫を出た。
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