III-1 コンピュータ

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 ちょうどさっき母が話していた壁の裏側にあたる部分は、以前は僕の部屋だった。

 その部屋の前へと僕を案内したイロハは「博士、起きていますか?」と言いながらイロハは扉の向こうをのぞき込んだ。一応言っておくと、今はまだ夕方である。普通の人間ならば起きている時間のはずだ。

「……」

 扉の向こうからは何の反応も返ってこない。

「博士、寝てますか? 寝てるなら『はい』って返事してください」イロハがもう一度問いかける。

「起きてるよぉ」

 しばらくして、扉の向こうからくぐもった声が返ってくる。声とともに扉の隙間から冷たい空気が漏れてきた。博士はどうやら相当の暑がりらしい。

 僕は扉の向こうへと踏み込んだ。

「あ、兄さん、私が確認してから入ったほうが……」イロハが慌てたように言う。

 確認って何を、と聞き返そうとして、僕は硬直した。

 部屋の中は雑然としていた。部屋の真ん中から向こうに天井まで届く大きな棚が4つ並んでおり、その中に計算機が並んでいた。サーバールームのようだった。そして部屋のこちら側、机とベッドが据えられており、その周りには何かをメモした紙や、コンピュータのパーツなんかが散乱していた。そして、ベッドに腰かけたメガネをかけた若い女性が一人、ぼんやりとした目でこちらを見返していた。

 女性は大変なことになっていた。いや大変というかなんというか、彼女は何も服を身に着けていなかった。

 一言でいえば全裸だった。

 そのことを理解するのに数秒の時間を要した。

 そして理解して、僕はもう一度女性に目をやった。

「なんでもう一度見るんですか!」

 後頭部に強い衝撃。思わず振り返った。iPadを持ったイロハがジト目で僕を見ていた。どうやらそれで殴ってきたらしい。

「ま、待て妹、無限の可能性というのはmacのキャッチコピーの一つだったけど、その可能性の中にiPadを鈍器として使うというのはたぶん含まれていない」

「いちいち突っ込みが長いです! というかなんでもう一度見たんですか」

「わからないけど、なんとなく見るべきかなって」

「ああなんてこと、兄さんが変態になってしまいました」

 イロハがわざとらしく頭を押さえる。

「……あのぉ、聖女ちゃん?」ベッドの上の女性が声を上げる。「あたしに何か用があったんじゃないですかぁ」

「その前に博士は服を着てください! そして兄さんはいったん外に出る!」

 僕は部屋を追い出された。

 

 数分経って、イロハの声が言った。

「兄さん、入ってください」

 部屋の様子は先ほどよりも少しマシになっていた。少なくともところどころ床が見えている。そしてその真ん中で、段ボールに座ったイロハが僕を見ていた。

「改めて紹介します。こちらの方が博士です」

 イロハがベッドに上に手を向ける。そこには先ほどと同じように一人の女性が座っている。もちろん服を着て、大きな丸眼鏡の向こうから色素の薄い目が僕を見ていた。

「初めまして、イロハの兄の神崎レイジです」

「ああ、京子さんや聖女ちゃんから話は聞いたことがあります。よろしくお願いします、私が博士です」

 僕は自分のことを博士ですと自己紹介する人物を初めて見た。

「なので私のことは博士と呼んでください」

「はあ」

 なかなか奇特な人だなあ、と思った。

「あなたのことは救世主君と呼びます」

「やめてください」

 僕は即答した。

「でも、救世主なんでしょう?」

「違います。ていうかなんでそのこと知ってるんですか」

「だから恭子や聖女ちゃんから聞いたんです」

「……兄さん、無駄ですよ」それまで黙っていたイロハが言う。「博士は人の名前を覚えるのがすごく苦手なんです。私も何回か呼び方を変えてもらおうとしたんですけど、ダメでした。じゃなかったらいつまでも『聖女ちゃん』なんて呼ばせません」

「そこまで名前を覚えるのが苦手なんてありうるのか……わかりました、呼び方は諦めますけど、せめて名前くらい教えてください」

 博士は顎に人差し指を当てて首をかしげた。

「なまえ……?」

「まさか自分の名前を憶えてないなんてことありませんよね……?」

「あーすみません、どうやらそうみたいです」

 信じられない思いでイロハを見る。イロハはただ黙って首を横に振った。マジか。

「人間は名前を付けるっていう行為に慣れてるからわからないかもしれませんけど、名前を付けるっていう行為は極めて高度なものなんだよぉ?」博士は言い訳するように言った。「例えば犬や猫などの動物は動詞は理解できるけど、名詞は理解できないって知っていませんかぁ?」

「だから名前を覚えるのは難しいと、そう言うつもりですか?」

 僕の問いに博士は大きく頷いた。

「でも博士は人間じゃないですか」イロハがあきれたように言った。

「あー、それは一本取られました」博士は小さく笑った。

 果てしなく胡散臭い人である。

「本当に博士号持ってるんですか?」僕が聞く。

「持ってますよ、学位記みますかー?」

 僕が見せくださいと言うと、彼女は辺りの山を切り崩し始めた。「せっかく片付けたのに」と嘆くイロハを無視ししばらく探したのち、博士はこれしか見つかりませんでした、と言って僕に郵貯の預金通帳を差し出した。

 いきなり通帳渡されても困る。まさか賄賂の代わりじゃあるまいし。

「あの、たまに大学から振り込みがあるから一応、大学いたってのはわかるかなあって」

 僕はもう一度通帳を見た。確かに何度か大学からの振り込みが記帳されていた。いやでも、だからと言って博士とは限らない。

 僕は通帳を返しながら訊ねた。

「これじゃ証拠になりませんね」

「ええ、でも別に博士号なんてあってもなくても同じじゃないですかあ?」博士は自分の存在を全否定するようなことを言う。「昔から言うじゃないですかぁ。博士号なんて歯についた海苔みたいなものだって」

「その心は?」イロハが問う。博士はキメ顔で言った。

「取らないと気になるけど、とっても役にも立たない」

 僕は聞かなかったことにした。

 

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