II 文字
1
聖堂の椅子は7割ほど埋まっていた。
聖堂自体はそれほど大きなものではない。5人掛けの長椅子を二つ並べて、それを7列も続ければもういっぱいである。だからいる人数は50人ほど、8月の平日にそれほどの人が集まるというのだから、やはりすごいのかもしれない。
一番後ろの椅子の、端っこに腰かけた僕からは全員の背中がよく見えた。
来ている連中は実に様々だった。
髪の薄くなりかけた40くらいのサラリーマン、子供を連れた主婦、それに高校生くらいの学生まで、なんの理由でこんな雑多な人間が集まっているのか、きっと部外者からしたら見当もつかないだろう。僕にもいまいちわからない。
彼ら彼女らは自分の人生があって、それぞれ違う生活を送っているのに、何の因果かこんな場所に迷い込んだ。
鐘が鳴る。
僕は正面に目をやった。
信者たちの前、一段上がったひな壇の上に二人の女性がいる。ひな壇の端で目を閉じているのは妹のイロハだった。イロハは真っ白な服を着て、静かに祈りをささげているように見えた。そしてひな壇の真ん中、説法台の上に一人の女性が立っている。
神崎恭子、5年ぶりに見る自分の母親の姿は以前と同じように、線の細い、影の薄い女性だと、そんな感想を抱かせた。
イロハに頼みごとをされてから一時間ほど、僕は母の信者たちに混ざって礼拝に参加していた。
これからどうするかという話になり、ちょうどその日の午後に礼拝があるから兄さんも一度参加してみませんか、と提案された。
5年前は礼拝は全部午前だったが、変わったらしい。イロハは信者が増えたからだと言った。
僕は礼拝に参加することにした。
今の母の信者たちがどのようなものなのか、知りたいと思った。
聖堂では礼拝が続いている。
母が意味のあるのだかないのだかわからない微妙なことを言い、周りの信者たちは熱心に聞いていたり、聞き流していたりしていた。
それ自体は昔とそれほど変わっていないように感じた。
もちろん昔の集会所はここまで大きくなかったし、そもそもこんなにたくさんの信者もいなかった。一体なにがきっかけでこんなに信者が増えたのだろうか。
僕はもう一度何か、変わったものはないかとあたりを見回した。
建物は変わっている。それは知っている。信者が増えている。それもわかっていた。
あと変化しているもの、僕は視線を上げた。
母が立つ説法台の向こう側、もしもここが本物のキリスト教の教会ならば、そこには十字架や、はりつけにされたイエス・キリストの像がある場所に、奇怪な文字、のようなものが掲げられていた。
かなり複雑な模様である。漢字のようにも見える、でも違う。少なくとも僕の記憶の中にその形と同じ文字は存在しない。でも、どこか懐かしい形だった。なんだろう。頭の中で漢字の親戚まで広げて検索をかける。契丹文字、女真文字、西夏文字、水書、サン文……どれも違う。強いて言うならチュノムに近いものを感じた。
チュノムは漢字をもとにしてベトナムで作られた文字で、ベトナム版仮名文字みたいなものである。漢字のような形だが既存の文字の発音や発音だけ借りて、自分たちの言葉を表現する文字を作るという行為は、様々な文化で行われているが、チュノムもその中の一つである。
僕はもう一度その文字を見た。多くの直線と、一本の曲線が絡み合った複雑な形。
あれは本当に文字だろうか。
それともただの文様に過ぎないのか。
「――はっきり言っておきます。言葉は正しく使わなければなりません。『一字の脱落、一字の過剰でも、世界の破滅を意味するのかもしれないのだから』。逆に言えば、言葉を正しく使えれば、あなた方は幸福の中にあることでしょう」
母の言葉が耳に入った。一字の過剰、一字の脱落。それはユダヤ教の預言者が著した書物に書かれた言葉である。書物の名前はタルムードという。
母の説法が終わるのを待って、僕は聖堂を後にした。
礼拝が終わっても信者達はなかなか外に出てこなかった。きっと中では母や妹と熱心に話し込んでいるのだろう。母はその時間をとても大切にしていた。そこで得られる噂話は母が教祖として成り立つために大切な情報が含まれていたからである。
信者たちにはほかの信者のことをよく見ている。母の信者たちは(少なくとも5年前は)ほとんど地元の人間なので、信者同士で知り合いということが多い。母に悩みを聞いてもらうためには、母と話さなくてはならない。そして人間は意外なほど自分のことだけを話すことを嫌がるものである。そしてついつい自分の悩みや相談だけでなく、共通の知り合いについて話してしまうことが意外なほど多いのだ。そこで得られた情報は、もはや伝統的とすら言えるコールドリーディングに使われた。
それは母の一番初期の信者獲得の方法だった。
「おや、君は」
突然後ろから声をかけられた。振り向くとそこには40がらみのおじさんが僕を見ていた。おじさんの後姿には見覚えがあった。先ほどまで聖堂で熱心に母の話を聞いていた一人である。
「なんですか?」
「いえ、どこかでお会いしたことがありませんか?」
「人違いでしょう」
僕は視線を伏せた。少なくとも僕は相手のことを知らない。
「いえ、人違いではありません。あなたは救世主様でしょう?」
心臓が止まるかと思った。
「そうでしょう? どうしてここにいらっしゃるのですか?」
男が詰め寄ってくる。僕は引き気味になりながら焦っていた。
もう僕のことを覚えている人なんていないと思っていた。
5年前、僕は母の代わりに信者の相談に応じたりして、母の宗教活動の手伝いをしていた。その時与えられた役割が、救世主だった。馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、本当なのである。もっとも母が教祖で妹が聖女なのだから、僕だってそれくらいの役割は当然ともいえるかもしれない。
「救世主様はどうしてここに? そもそもどうして5年間も我々の前に現れてくれなかったのですか?」
男が詰め寄ってくる。僕は頭を総動員して言い訳を考える。今ここで騒ぎになればきっと母が出てくるだろう。けれど、僕はまだ母と会う気になれなかった。男の胸ポケットからハンカチが見えた。鳥居と松の模様が描いてあり、小さなイニシャルが縫い付けられていた。
「松島さん、あまり騒がないでください。僕は今、皆に姿を見られるわけにはいかないのです」
「それは何故?」
「松島さんならわかるでしょう?」
「じゃあまさか、本当に恭子様の予言の通り」
おじさんが深刻そうな顔で僕を見る。僕はいつばれるかと心配でそれどころではないが、とにかく重々しく頷いた。ていうか予言ってなんだ。いや知らないが、とにかく今キャラを崩すわけにはいかない。
「その通りです。ですが、まだ希望はあります」
「つまりその破滅を回避するために救世主様が動いていると、5年前に救世主様が蒸発したのもそのためだったと……?」
んなわけないじゃん、と言いたかったが僕は小さく頷いた。
「そういうことなので、あまり騒がないでください」
「そういうことなら、わかりました」
男は引き下がってくれた。僕は胸をなでおろした。正直おっさんに詰め寄られても何も嬉しくないし、その上その相手が救世主様だなんて言ってくる奴ならなおさらである。
「……あの、救世主様」
「なんですか?」
「世界を滅ぼさないでください」
そんなこと言われても困る。困るのだけど僕は、わかりました、と答えた。
その言葉自体に嘘はなかった。
2
「兄さんはどうして松島さんの名前を知っていたのですか?」
僕の話を聞いたイロハは当然の疑問を口にした。礼拝の後、僕はもう一度イロハと会って話をした。
「別に知らなかったよ。ただハンカチが見えたから」僕が答える。
「ハンカチ? 名前でも書いていたんですか?」
「イニシャルだけが見えた」
「じゃあわからないじゃないですか」
「あとは模様だよ。ハンカチに松の林とか、鳥居が書いてあったから」
「だから松島だと」
「賭けだったけど、うまくいったみたいだ」
「わかりやすいハンカチ持っててくれてよかったです。というかその賭けが失敗したらどうするつもりだったんですか?」
「その時は、そんな言い間違いする奴が救世主なわけないじゃないですか、というつもりだった」
妹は呆れたように僕を見た。
「兄さんの賭けが成功してよかったです」
そうかもしれない。僕も同意した。
「それで、どう思いましたか?」
妹が問う。
「どうって?」
「今の教会の雰囲気、どう思いましたか?」
「そうだね」僕は少し考えて答えた。「前よりは人が増えたみたいだ」
「それはそうです」
「でも雰囲気はそれほど変わってないように感じた。少なくともあの人の信者のみんなが滅びを求めているわけではない」
「それも知っています」
「そういえばあの飾ってあった模様は何?」
「模様?」
「ほら、中に入って正面に飾ってあったやつ」
「あれですか。私は知らないです。何かの文字じゃないんですか?」
「少なくとも僕は見たことがない」
「兄さんが見たことないというなら相当珍しいものなんですね。兄さんは勉強好きでしたから」
「別に好きだったわけじゃない」
別に好きでしていたわけじゃないが、僕は文字や言葉、宗教などとにかくそういうしょうもない雑学を、かなり念入りに叩き込まれた。母の教育方針と言ってしまえばそれまでだが、たぶんそれも僕を救世主としてまつりあげる一環だったのだろう。だいたい『言葉の教会』なんて宗教団体の救世主が言葉について無知だったら恰好がつかない、そういうことだと理解している。
そのことで得したことなんて今までほとんどない。せいぜい語学のテストが簡単に感じるとかそれくらいのものである。
「あの文字は半年くらい前に母さんが作らせたんです」
イロハが話を戻す。
「あれは予言だそうです」
「予言?」
「最後から5分前の世界の言葉だそうです」
「最後から5分前って、また微妙な。ていうかどういう意味なんだろう」
「私は教えてもらえませんでした。だから、母さんに聞いてもダメだと思います」
僕もそれはそうだろうなと思う。
妹が教えてもらえないことを、家を出ていた兄がいきなり訊ねて教えてもらえるとは思えない。
「でも、あの人の考えを理解している人なんて、あの人自身以外にいないんじゃないか」
「実は一人心当たりがあるんです」
イロハが言う。
「誰?」
「博士です」
「博士?」
聞きなれない言葉に僕は戸惑う。
「本当に博士かは知りません。でも、私の周りの人はそう呼んでいます」イロハは続けた。「博士は母さんの手伝いをしている女性です。博士は母さんと一緒に言葉を研究しているんです。一度話を聞いたのですけど、ちょっと言葉に問題があって……」イロハが語尾を濁す。
「日本語しゃべれないの?」僕が聞く。
「いえ、わかりやすい言葉を使えないんです」
「それは困った人だなあ……」
「博士に会いますか?」
イロハが問う。もちろん僕は頷いた。
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