神様の図書館
@Sugra
I 手紙
1
『世界が滅びてしまいそうです。助けてくれませんか』
その手紙はそんな文章で始まっていた。
質の悪い冗談じゃないかと思った。
夏休みに入って最初の日曜日、信じられないくらい暑い午後、涼を求めて近くのスーパーに出かけた僕は家に帰ると半ば反射的に郵便受けを開けた。いつもは空か、あるいは興味の持てない広告しか入っていないそこに、その手紙は入っていた。消印は二日前で、普通郵便で送れていた。世界が終わるという話のわりにはのんびりしたことだと思った。
一体だれがこんな手紙を出したのだろう。封筒を裏返し差出人を見る。そこには、見慣れた住所と、久しぶりに見る名前が書いてあった。差出人は神崎イロハと書いてあった。神崎イロハは僕の妹である。
イロハが書いたということは、どうやらあながち嘘ではないらしい。
僕は妹が嘘をついたことを聞いたことがない。
妹は実家で聖女様をやっている。
2
僕の実家は宗教をやっている。
そんな風に言うとなんだか胡散臭いものに聞こえてしまうかもしれないが、実際に胡散臭いから大丈夫(?)である。
何が大丈夫なのかはわからないが、とにかく僕の生家は宗教を営んでいる。いわゆる新興宗教というやつで、困っている人に外部から適当にアドバイスを与えて、その見返りとして金銭を受け取るあれである。母はその教祖である。
職に貴賤はないとはいうものの、やっぱり子供心でも恥ずかしい話で、僕は昔からそのことがいやだった。だから中学進学を機に僕は家を出た。
今から5年ほど前の話である。それ以来、実家には一度も帰っていない。
妹とも一度も顔を合わせていない。
妹は素直な子供だった。
嘘を嘘と見抜けないんというか、人の言うことを信じやすいというか、とにかく人を疑うということを知らない子供だった。
僕は小さなときさんざん彼女に嘘をついた。そのせいでいろいろ怒られたりもした。オタマジャクシが成長したらウナギになるとか、実は地球は平べったいとか、しょうもない嘘である。だけど彼女はそれを信じて、いきなりオタマジャクシを飼い始めたりした。そんなにウナギが食べたかったのだろうか。
妹が何を考えていたかは知らないが、もちろんオタマジャクシはウナギにはならなかった。その代りに大きなトノサマガエルになって、妹はそいつらを一目で気に入って、その一匹一匹に名前を付けて大切に育てた。それでいいのか、妹よ、と思わないでもない。
僕はなんだか悪いことをしたような気がしたので、カエルの形をした石をプレゼントした。すると彼女は大変喜んだ。
いや本当にそれでいいのか、妹よ。
とにかく、妹はちょっと心配になるくらい素直で正直な子供だった。
その原因の一つは彼女に与えらえれた役割にあるのだと思う。妹は母の作った宗教の中で特別な地位を与えられていた。
彼女は聖女だった。神様と人とをつなぐ存在、神様の声を聴いて人に知らせる存在。もちろんでたらめである。でたらめだけど周りの信者から信じられ、崇拝されていた。
そんな人たちに囲まれて蝶よ花よと大事にされて、完全温室栽培の高級メロンみたいな育ち方をした女の子。
その妹が世界が滅びそうだと手紙を書いてきた。
今まで手紙一つよこさなかった妹から、電話一つかけてこなかった妹からそんなものが届いたのである。
もちろん僕は驚いた。
ていうか、世界が滅びるって。
ピンとこない言葉だ。隕石でも落ちてくるのだろうか。恐怖の大王でもやってくるのか、あるいは天使のラッパでも鳴り響くのだろうか? そういうのって2000年くらいにちょっと流行ったらしいけど、もう賞味期限が切れてるんじゃないだろうか。
僕はもう一度手紙に目を落とした。
具体的に世界の滅びについては何も書いていなかった。助けると言っても、何をすればいいのかはほとんど書いていなかった。ただできるだけ早く家に帰って来て欲しいと、丁寧な楷書体でそれだけ書かれていた。
そういえば妹は字が上手かった。
母の方針で僕たち兄妹は習字を叩き込まれたが、結局ある程度ものになったのは妹の方だけだった。
僕は、5年ぶりに実家に帰ることを決めた。
3
その宗教団体は『言葉の教会』と呼ばれていた。
僕の住む町から特急で2時間ほど、日本海に面した地方都市にそれはあった。
妹の手紙に書かれていた住所は5年前と変わっていなかった。けれど家の外観は少し変わっていた。かつては薄汚れた集会所のようだった建物は、小さな三角屋根とこじんまりとした尖塔の立つ、西洋の教会のような建物になっていた。
……場所、間違ってないだろうか。
「どうしましたか?」
ちょうどその時、建物の中から一人の女性が現れた。すらりと背が高く、そのピンと伸びた背の中ほどまで黒い髪が伸びていた。ワンピースに一枚上着を羽織るだけという飾り気のない恰好をしているが、一つ一つのパーツがシンプルに美しい。とても美しいのだが、それ以外に何か、どこか引っかかる部分があった。どこかで見たことがあるような気がする。でもそれはどこだろう。思い出せない。
「……どうしましたか?」
女性がもう一度繰り返す。
「ここは『言葉の教会』で合っていますか?」
僕が訊ねると、女性はこくんと頷いた。
「少し聞きたいことがあるのですが、よろしいしょうか」
「教会はいつでも扉を開いています。お入りください」
女性が片手で扉を押し開く、その手首に蛙の形をした石がついたアクセサリちらりと見えた。それを見て、僕は彼女について感じた感情の意味を理解した。
「もしかして、イロハ?」
僕は声を上げた。女性が目を丸くして僕を見る。
「……もしかして、兄さんですか?」
女性は僕の妹、神崎イロハだった。
通りに面した建物の外観は変わっていた、けれど裏手はそれほど変わっていなかった。教会の裏側には2階建ての建物があり、その横に小さな庭があった。オフィスビルに挟まれたそこは以前と同じように家族の居住スペースになっているみたいだ。
居間に通された僕に向かってイロハは言った。
「もう、兄さんひどいです。たった5年で妹の顔を忘れたんですか?」
イロハは悲しそうに眉をハの字にして言った。その手は固く拳が握られている。一体何のための拳か、僕は聞きたくなかった。
「そういうわけじゃないけど、でも5年もたっていたらわからなくもなるよ。だいたいイロハだって僕のことわからなかったじゃないか」
「それとこれとは話が別です」
なにが別なのか僕にはわからない。
「見た目も随分変わってるし、だいぶ大人なった」
「5年も経てば当たり前です!」
それはそうかもしれない。僕はもう一度目の前の女性を見た。イロハは僕の一つ下だから、今高校一年生のはずだ。5年という年月を考えても、大人びたと思う。それは年相応の落ち着きというよりも、年齢以上のものに思われた。
「それにきれいになった」
僕が言う。イロハはぱちくりと目を瞬き、拳から力を抜いた。
「兄さんも変わりましたね」
「そうかな、自覚はないけど」
「私の記憶にある兄さんは私のことを美人だなんて絶対言いませんでした」
「別に今も美人だなんて一言も言ってない」
「じゃあ違うのですか?」
イロハが不思議そうに僕を見る。
「いや……美人になったと思うよ」
僕はなぞの敗北感を覚えながら答えた。
「兄さんを許しましょう」
イロハはにっこりと笑って僕を見た。
やっぱり妹は変わったな、と僕は思った。
「兄さんが来てくれて本当にうれしいです。でも、もう少し早く来てくれてもよかったんじゃないですか」
イロハはすねるように僕を見た。
「これでもできるだけ早く来たんだ」
別に嘘でも何でもないのに、僕は言い訳するみたいに言った。
「もしも先に世界が滅んでしまっていたらどうするつもりだったのですか」
「どうするって言われてもね」
正直どうすることもできない。だいたい世界が滅びるって言葉の意味も分からない人間にどうのこうの言うことができるとは思えなかった。
わからないから聞くことにした。
「それで、その世界が滅びるってどういう意味なんだ?」僕が聞く。
「言葉の通りです」
「言葉の通りって言われてもね……」僕は頭をかいた。「正直想像もつかない」
「世界が終わるんです。デッドエンド、すべての物事が終わってすべての人間が死に絶えるんです」
イロハの透明な瞳が僕を見た。
「母さんの夢が叶うのかもしれないんです」
母さんの夢。母の夢。
言われて僕は愕然とした。
妹から世界の滅びなんて、そんな言葉を聞かされたら真っ先にそのことを思い出してしかるべきだった。それなのに僕は今までずっと忘れていた。僕にとって母の夢というものは、自分の家のことはそれくらい忘れてしまいたいことになっていたのだろうか。
「母さんは、世界最後の言葉を見つける算段がついた、とそう考えています」
僕は母の夢を思い出す。
母はかつて世界の最後を聞いたらしい。
そしてその最後の世界に鳴り響いていたのは天使のラッパや、核兵器の衝撃はではなくて、ある言葉が聞こえていたとのことだ。
母はその言葉をずっとその言葉を探している。
母が立ち上げたその宗教団体だって、結局のところそれを見つけるための手段に過ぎない。
世界最後の言葉。
「それであの人がその最後の言葉を口にした時、本当に世界が終わると、イロハはそう考えているのか?」
僕が問う。イロハは首を横に振った。
「私もそれほど単純ではありません。でもどうやってかはよく理解していないですけど、母さんは世界の最後の言葉を見つける手段を見つけたと確信しているのは事実だと思うんです。そして一部の人間にとってそれはすべてなんです。例えば母さんや、彼女の信者のごく一部の人たちとか」
「つまり、その一部が何か不測の事態を引き起こしかねないと、そういう懸念をしている?」
「もう、兄さん回りくどい。その人たちが私や母さんに危害を加えるかもしれないって、そういっているんです」
それは、どうなのだろうか。本当に起こりうる話なのだろうか。正直な話、僕は母の信者がどういう人物がいるのかよく知らない。だから彼らがどんな行動をするのか、はっきり言ってわからない。
でも、信仰が起こした暴力というのは確かに歴史上で枚挙の暇がないほど存在する。十字軍や一部の民族浄化政策、廃仏毀釈に至るまで、いくらでも思いつくことができた。
「兄さんにやって欲しいことがあるんです」
妹が言う。
「その最後の言葉を母さんより先に見つけてほしいんです。別に本当にそれが世界最後の言葉かどうかなんて知りません。ただ母さんがどのような言葉を最後の言葉と信じるか、それを知りたいんです」
大人のようになった妹が、あまり変わらない僕に言う。
「そして、もしその言葉によって何か危険が私たちに及びそうならば、私たちの安全を確保する手段を講じて欲しいんです」
僕はそれがなんだかとてもまぶしいもののように見えた。僕は思わず視線を反らした。
窓の外には背の高い向日葵が見えた。5年前まで、毎年撒く向日葵の世話は僕の役割だった。世話と言っても向日葵は生命力強いので2,3日放っておいても何もないのだけれど、とにかく気が向いたら水をやったり肥料をやったりしていた。
今は誰が世話をしているのだろう。
「変わったね」
僕が言う。
「え?」
イロハはキョトンとした顔で僕を見た。
「やっぱりイロハは変わったよ」
「そんなの当たり前じゃないですか。5年もたって何も変わらなかったら、それは生きているとは言いません」
イロハの言うことは正しいかもしれない。
「わかった」
「何がですか?」
「調べるよ。母さんが何をしようとしているのか。そしてもしも危ないことが起こりそうだったら、イロハが逃げるための手段を講じる」
「私だけじゃありません。母さんもです」
「……あの人の脱出手段も確保しよう。と言っても僕にできるのはタクシーの予約と航空券取っておくくらいだけど」
「それで構いません。ありがとうございます」
そう言って、イロハは深く頭を下げた。長い黒髪がさらさらと肩から流れ落ちる。どうしてこんなに長い髪を綺麗に維持できるのだろう。彼女なりに苦労があるのだろうか。
そして彼女は顔を上げて、花のような笑顔で言った。
「おかえりなさい、レイジ兄さん」
その笑顔は確かに5年間の空白を吹き飛ばすのに十分なものだった。
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