夢幻小説
夢幻小説「甘木さんの独裁者」
甘木さんが独裁者になった経緯は、改めて振り返ってもよく分からない。
売れない作家だった「彼」は、いつの間にか私の視界から消え、いくつかの偶然が重なった結果、独裁者として再び現れた。
名前も姿も変わっていたが、私はすぐに分かった。
「彼」は泡沫的なポピュリズム政党の指導者として現れたが、他の泡沫たちとは異なっていた。自身がカリスマとして振る舞うことを極度に避けていたのだ。
影の薄い作家だった「彼」は、政治家へ転じても影が薄かった。
だが、そのおかげで大衆に消費されることもなく、いくつかの混乱に乗じて政権を奪取した。空虚な中心の代わりに、もっと空虚な中心となったのだ。
影の薄い独裁者の誕生、という奇妙な事態で、社会には若干の混乱が生じたが、必要以上に騒いでいたのは左派だけで、大きなうねりにはならなかった。
ポピュリズムは社会を構成する要素の大量粛清という形で発揮されたが、前任者の長期政権で腐敗した部分や、左右のカルト的な部分の処断だったから、案外、大衆には支持された。根本的なところで、興味を失っていたのかも知れないが。
概ね、前任者の手法を踏襲し、瑕疵となっていたイデオロギー色を薄めたことで、対外的にも受け入れられた。
困ったことに、独裁者は良き為政者だった。
少なくとも、私たちが知る限りでは、もっとも有能で善良な指導者だったのだ。
唯一、苛烈だったのは、表現弾圧だった。
政権奪取と同時に、報道機関――マスメディアを攻撃したのだ。
しかし、これも予想外に大衆からは支持された。いくつかの新聞とテレビ局から権利を取り上げた「彼」は、そのコンテンツを丁寧に腑分けし、誰が見ても良心的なものだけで再編したからだ。それだけ、俗悪なものが多かったということなのだが。
次に攻撃したのは、小説やマンガ――創作物の世界だった。
コンテンツを丁寧に腑分けする「彼」の執念は此処でも発揮されたが、対マスメディアとは違い、基準はよく分からなかった。かつてのヒトラーが「頽廃芸術展」を行ったように、プロパガンダで意図を示すこともなかった。
具体的には、『週刊少年ジャンプ』『週刊少年マガジン』『週刊少年チャンピオン』は攻撃しなかったが、『週刊少年サンデー』は休刊となった。もっとも、サンデーの部数は30万を切っていたから、それほど影響はなかった。同レベルのチャンピオンを残した理由は分からないが、やっぱり影響はなかった。
この曖昧さが憶測を呼び、最初は反発もあったが、連日、何かしらのコンテンツが粛清されたので、すぐに感覚が麻痺した。「表現の自由」を錦の御旗に掲げる者たちは、政治的な反対運動を展開したが、偏向したイデオロギーを纏っていたのが災いし、すぐに先鋭化――大衆から乖離した。
半年ほど経った頃、ようやく腑分けに法則めいたものが見えてきた。そのジャンルでトップのコンテンツは残し、二番手以下のマイナーなコンテンツを細かく取捨選別していた。
粛清対象となったのは、対象年齢が高く、カルト的な信仰を集めているコンテンツで、同時に老害的な利権集団も解体された。そのため、いくつかの企業も取り潰されたのだが、トップグループは温存されたので、大勢に影響はなかった。
例外はソーシャルゲームで、珍しく射幸性が強すぎることが理由として明示された上で、ジャンルのトップグループが粛清された。ガチャ中毒者たちの反発はあったが、概ね、良心的な行為として受け容れられた。
私は自分の仕事に疲れていたし、内心、過剰に氾濫した創作物が不必要な競争に曝されている状況に辟易していたから、甘木さんも似たような心境だったのだろうか、と推測した。
売れない作家の憎悪――と言ってしまえば、それまでだが、それにしては丁寧すぎる腑分けだったからだ。
なので、久しぶりに「彼」の商業作品を読み返すことにした。
ミステリアスな独裁者の過去を辿る者は多いが、不思議なことに、甘木さんへ辿り着く者はいなかったからだ。
顔も戸籍も性別もすべてが別人に成り代わっていたから、無理もないのだが。
どうしてそんなことができたのか、原理も分からないのだが。
それでも、独裁者の正体が甘木さんだという確信はあった。
理由は、甘木さんの小説の内容だ。
人間なのかどうかも怪しい、ミステリアスな美少女が現代日本に現れ、社会を撹乱していく、ポリティカルフィクション的な怪奇譚だった。
あらすじだけなら、売れる要素もあるように思うが、実際の作品はハイコンテクストで、ほとんどの読者は理解できなかった。
なので、某有名国立大のSF研に「電波系」と罵られた以外は、話題になることもなく、あっという間に忘れられた。
実際、甘木さんと直接会ったことがある、数少ない人物……というか、担当編集者だった私も、ヒロインの名前すら忘れていた。
九葉祀。それが甘木さんの小説のヒロインだった。
九葉祀。それは影の薄い独裁者の名前でもあった。
小説の中から現れた美少女が、私の世界の独裁者となっているのだ。
そう。ミステリアスな美少女に従っているのだ。
国家が、社会が、世界が、すべてが。嬉々として。
私は正気を失っているのかも知れない。
そうだろう。この状況の答えが商業作品として出版されているのに、誰も言及しないというのは明らかにおかしい。
確かに数千部しか出なかったし、電子書籍にすらなっていないが。
ふと、某有名国立大のSF研のサイトを覗くため、検索ワードを入力した。特設ページまで作り、面白半分で甘木さんの小説を罵っていたサイトを。
数分後、私は右手でマウスを握ったまま、左手で胸を押さえた。
サイトは消滅していた。いや、検索にすら引っかからなかった。
古い記憶を辿り、URLを直打ちしても、何もなかった。
周辺情報を集めていくと、件のSF研も粛清対象となったことが判明した。
面白半分に特設ページを作ったOBに至るまで、全員が社会からパージされていた。
この瞬間、私はささやかな疑念を抱いた。
私が発見した、甘木さんの腑分けの法則――社会を改変する大義名分のようなものは、結局のところ、微細な復讐のために逆算されていたのではないか、と。
口の中が苦く乾いていたが、同時に、私は安堵していた。
独裁者の動機なんて、そんなものかも知れない。
むしろ、そうであって欲しい。
そんな、祈りのような感情が、意識の中に広がっていく――。
国家を、社会を、世界を、自分自身を、すべてを書き換えてしまう妄念の源泉が、誇大妄想や義憤ではなく、極めて個人的な復讐ならば、私はこの奇妙な状況を納得できるかも知れない。
私は正気を失うことなく、傍観者であり続けることができるかも知れない。
夢幻のような美少女独裁者に支配された、この甘美なる世界を。
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