追悼小説

追悼小説「犬死にせしものの墓碑銘」

 風邪で寝込んでいる間にも、いくつかの訃報が通り過ぎていきます。

 いろいろな人生が、頭の中で泡のように弾けて、終わっていきます。

 私はグレイトフル・デッドの即興演奏のように、甘木アマギさんの人生を思いつくままに書き記していますが、私と甘木さんとは繋がっているようで、何処かで切り離されています。

 自分の輪郭を正しく語れない小説家は、生きるでも死ぬでもなく幽霊の世界を漂い歩く漂泊者ドリフターで、祭りのあとに立ち竦んでいます。

 そして、ふと思うのです。

「反転しない物語を書けば、読者の都合へ最適化された物語になるだろう。確かに、快楽原則に忠実な物語になるだろう」

 それが正しいことは分かっています。

 もう、娯楽小説はダダ甘なポルノグラフィでしかないことも分かっています。

 かつて、可能性を感じていた新しい伝奇小説たちも、すべて滅びました。

 過去の英雄たちを艶かしく女体化し、精液のように課金を搾り取る自動装置ガチャだけが残りました。

 それで世の中は上手く回っているのだから、空気を読まずに文句を言う者は干されて死ね、と言われます。

 今では、童貞だった頃の甘く煮え滾る性的妄想をエミュレートし、回帰することが、娯楽小説に与えられた社会的使命です。

 でも、反転しない物語の少女たちは無邪気で楽しげです。

 まるで幻覚剤LSDでトリップしているのか、と苦々しく思うほど、脳内のお花畑で舞い踊っています。

 反転しない物語の少女たちの中身は、だいたいの場合は男性で、たまに女性だったりもします。

 そんな小説家たちが、呪われた我が身とタマシイを反転し、女体化されたキャラクターを無数にでっち上げているように思えてならないのです。

 反転しない物語が、反転されたキャラクターによって成立しているパラドックス。

 でも、これは暗黙の了解にして、不可侵のタブー。

 ダダ甘なポルノグラフィこそが、挫折した国の新しいアイデンティティにしてレゾンデートルなのでしょうね。

 ポルノグラフィの国を守るために殉死する時代がやってくるのでしょうね。

 適当なことを言っておりますが、かくいう私の人生は殉死にすら値しません。


 だから、考えたのです。

「反転しないために連続体とならなかった物語たちは、反転したらどうなるのか?」

 いくつかの〈キャラクター化された少女への執着と、その少女のキャラクター性が反転して、執着から切り離されていく過程〉。

 誰とも共有できなかったフェティッシュなプロット。

 それらを読者の都合へ最適化していくことを放棄する代わりに、連続体/物語とする。


 それは私小説もどきの実験ですが、同時に、商業的であろうという無駄な努力と共に死んでいく作家たちの追悼小説でもあります。

 馬鹿馬鹿しさだけを抱えながら、犬死にせしものの墓碑銘です。

 読者の都合への最適化を放棄した物語は、何処にも属すことができない幽霊のような小説でしかなく、商業的には「最初から存在しない」のですが、半死者の暇つぶしにはなります。

 というか、「何かしら書いていないとボケるよ」と言われましたので、リハビリのつもりで書いていた短篇がぽつぽつと貯まってきたので、どうしようかと思案しました。

 15年くらい前に、友人の手伝いで初期の文学フリマに出たこともありますが、独りで文芸同人誌を作るほどの経済的な余裕もなければ、気力もないので、代わりにカクヨムのアカウントを取りました。

 えろまんがならいざ知らず、同人の領域で商業仕事を意識した娯楽小説を書くのはどうなんだろう、と思っていたので、小説投稿サイトを使うことは躊躇っていたのですが。

 その頃、商業仕事は開店休業中でしたので、こだわらず好きに書けば良かろう、と思い至ったのです。

 誰も読まない滅び去った小説なら、ささやかなテロルと自己満足のために書いても良かろうと。

 ちなみに、小説家になろうのアカウントも取りましたが、こちらは消しました。

 もう小説家になってしまっているのに、「なろう」は変じゃないか、と思ったのですが、他人にはどうでも良いこだわりです。


 漫画家の卵たちの青春と挫折を描いた小説は「クリエイターの世界は素晴らしい世界なんです!(ぐるぐる目で)」とか「こんな汚い作品を書くひとは干します(真顔で)」とか、もっと迂遠な言い回しで言われました。

 少女と宇宙人の共依存的な末路を描いた小説のときも、似たようなことを言われました。

 見たくないひとが多いのはよく分かりますが、現実に聳え立っている糞の山から目をそらして楽しいものを作れる人々のほうが、私にはむしろ、よく分かりません。

 言い換えると、娯楽小説の領域で書くことが許される話の範囲が、ずいぶんと狭くなったね、と。

 その狭い範囲内で、わざわざ書くことなんてないよ、と。

 何を書いても門外漢になるような状況では、書く前に門前払いされるだけなのですが。


 商業仕事ではないので、ついでに商業仕事では言わないことを言います。

 ライトノベルもミステリも歴史小説もSFも、現在進行系のジャンル小説はどれも過去の成功体験というか、通俗的な形式を遵守している/させられているだけで、どうも面白く思えないのです。

 むしろ、遵守することに腐心する作品のほうが評価されるというか。

 たまには例外もあるはずだ、と思って読んではいますが、引き当てる確率も低下してきたので、やっぱり自分で書くしかないのか、と。

 引き当てた好きなジャンル小説を繰り返し読んだり、昔の純文学や中間小説ばかり読んでいてもいいんですけど、できればスリップストリームな小説が読みたい。ジャイアンシチュー級のごった煮で胃もたれするようなやつを。


 なので、娯楽小説の体裁も放り投げ、私が編集者だったら門前払いにする小説を書くことにしました。

 基本ルールはひとつ。

 少女の名は九葉祀くようまつり(クヨウ・マツリ)、男の名は甘木あまぎ(アマギ)。

 あとは名前だけの端役と、狂言回しで「わたし」がいるくらいで。

 その役割もせいぜい、ブルース・ウィリス主演の当たらなかったブラック・コメディで、アルバート・フィニーが演じた売れない作家のようなもので、箸にも棒にもかからない短篇を思いついては書き連ねていく小説です。

 エピソードごとに別人へすり替わる、同姓同名の彼らにまつわる小説の群体です。


 タイトルは『まつりのアト』。

 口上はいささか大仰ですが、たいしたものではありません。

 『天使のはらわた』の名美と村木みたいな構造です。構造だけですが。

 とりあえず、自己満足するか飽きるか、どちらかのゲージが貯まるまでは続きます。

 もっとも、私のライフワークである架空の〈東京〉の群像劇に関しては、確信犯的中二病小説ですので、何を言われたところで「まァ、そんなもんだろ」としか思いません。娯楽小説の体裁は守っていますが。

 なので、『祀のアト』と並行して、ライフワークの続きも書いています。

 甘木さんと祀は、そちらにも紛れ込んでいるかも知れません。


 では、再び、漂泊者の即興記述をどうぞ。

 をどうぞ。

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