回帰小説「蛹の国・冬虫夏草」第8話

 九葉祀のノートに記されていた仮説は、一冊とはいえ、ページの隅々までびっしりと書かれていた。

 その書体は、30年ほど前に流行った変体少女文字だった。文字の輪郭を意図的に丸く歪ませた、極端に可読性の低い丸文字を、祀はまだ、手書きの書体として覚えていた。

 少女の祀しか覚えていないから違和感はなかったが、本来の祀を知っていたら、きっと困惑していただろう。

 以下は、その膨大なテキストから抜粋、要約したものだ。


◆突然のにより、世界の機能は停止しました。

 その意図は分からないのですが、ある時間より先に進むことができず、到達するたびに3~4時間巻き戻るのです。

 結果として、無限に反復する〈循環過程サイクル〉へ突入したのです。

 ところが、〈循環過程サイクル〉は不完全で、限界となる時間や巻き戻る時間量にも若干の個人差がありました。

 その不公平によって生じた混乱で自滅していく国もいくつか報じられたため、調整的な処置が行われたのです。

 まずは、社会的インフラの選択的遮断。

 これらは破壊行為防止の側面で執り行われました。

 そして、〈循環過程サイクル〉の調和を乱す抵抗者は〈さなぎ〉に変えられました。

 ごく少数ですが、反復と混乱に耐えられず、自死を選択する者もいました。

 でも、明言した瞬間――いや、思った瞬間に〈さなぎ〉と化したのです。

 そうして、のです。


◆過渡期の現象として、残された者たちが触れて念じることにより、対象が一時的に時間の流れを帯びることがありました。

 わたしはこれを〈妄念駆動〉と名付けましたが、〈さなぎ〉化した人間は動きません。

 これは〈さなぎ〉自身に時間停止の欲望があり、琥珀色の殻を纏っているのは、他者が付与する〈妄念駆動ムーブメント〉から防御するためではないか、と推論しました。

 しかし、次第に「既にわたしたちの時間から、隔絶しているのではないか?」と考えるようになりました。

 この時点ではまだ、中身は詰まっていましたが、切り開くことはしませんでした。

 殺人になりかねないこともありましたが、帝王切開を想起してしまったからです。

 誰であろうと殺人を厭うわたしは、研究者としては二流なのです。

 いつまで経っても。


◆処置の試行錯誤を見ていましたから、執行者はなのでしょうが、完全なる超越者とは言い難いように思えました。

 おそらくは時間、空間、知的生命体の精神形態に影響する寄生体なのでしょうが、細菌やウイルスとも違います。

 実際、〈さなぎ〉の表面を顕微鏡で覗き込んでも、昆虫のさなぎと同じ材質の殻があるだけで、それらしい異物は見られませんでした。

 もっと概念的、精神的で、個々の認識を変化させ、それぞれの時間へ分岐させることで世界を変えたように見せかけている――寄生する精神体。

 を形容する言葉は、なかなか思いつきません。

 強いて言えば、蝙蝠蛾の幼虫へ寄生する〈冬虫夏草〉オフィオコルディセプス・シネンシスでしょうか。

 わたしたちは蛾の幼虫ですが、夢の中で生きながら葬られていく成れの果てでした。


◆序盤の混乱は、世界を並行に切り分ける過渡期だったのでしょう。

 時間を個々の所有物にする過程で、どうしても個人の時間へ介入してくる夾雑物を〈さなぎ〉化することで切断したのです。

 だから、〈さなぎ〉の中にいる他人の時間では、わたしが〈さなぎ〉なのかも知れません。

 もっとも、この国の大衆は運命に従順というか、この災害と侵略に平然と適応してしまいました。

 大きな混乱もなく、〈循環過程サイクル〉で大半が〈さなぎ〉と化したのです。

 確かに、わたしたちの国は総じて幼形成熟で、〈さなぎ〉という処置に適していました。

 巨大な力へ抵抗するくらいなら、抵抗する手段を放棄し、死んだように生きることに慣れています。

 ならば、生きながら葬られていくことも大差ないのでしょう。

 個人の世界へ切り分けられて困ることは、通信回線網が遮断され、娯楽コンテンツの供給が止まることくらいで、それもいつか安定すれば回復するでしょう。

 新規供給はなくても、アーカイヴを消費するだけで寿命は尽きます。

 きっと、〈さなぎ〉はゆりかごなのでしょう。安楽死のための――。


◆そんな非科学的でイデオロギー的な推論しか出てこないわたしは、個人の世界へ切り分けられていく過程を最後まで見ていた一人でした。

 次第に〈循環過程サイクル〉が安定し、他者の動向が報じられなくなり、すべての通信回線が遮断されると、わたしの世界も、静かに〈さなぎ〉の世界へ移行しました。

 いや、分岐したのです。

 〈さなぎ〉を経由し、終わっていたわたしから、始まる前の少女の肉体に巻き戻されたわたしは、記憶の大半を継承していました。

 欠落した部分も、記録が残っていました。

 デジタルデータは巻き戻しで消えますが、紙に記した言葉は残るのです。

 膨大に記した記録を読み返すうちに、なんだか馬鹿馬鹿しくなったので、矢ノ浦の研究所へ置いてきましたが、興味があるなら、取りに行くといいでしょう。


◆〈さなぎ〉を経由した世界では、他者の〈さなぎ〉は軽く、中身は何処かへ失われていました。

 わたしは長いこと、仕事以外の人間関係はなかったのですが、上司や同僚も軽々と持ち上がりました。

 苦笑いするわたしは、他者のいない世界へ辿り着いたのです。

 なのに、他者が現れました。

 少年の肉体で。

 作り笑いを浮かべつつも実は戸惑っていたのですが、すぐに分かりました。

 周波数が重複してしまったんだ、と。

 が。


◆付け加えると、身体の相性も良かったのです。

 本当に良かったのですよ。

 学生時代に出会っていたら、学業なんて馬鹿馬鹿しくなっていたかも知れません。

 もっとも、この身体の年齢だった頃には、性交の妙味などまったく知らなかったのですが。


◆知らないまま、過ぎ去ったはずの日々で、わたしはなったのです。

 わたしでもなく甘木くんでもないが発生したら、〈循環過程サイクル〉の調和は崩れるのでしょうか。

 記憶が巻き戻されても、次の〈循環過程サイクル〉へ継承されていくように、定められた時間の理を逃れ、のでしょうか――。

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