回帰小説「蛹の国・冬虫夏草」第6話

 辿り着いたFのマンションは、昼下がりでも暗かった。

 三階建て以上の物件がない街で、どれも日当たりは良いはずだが、鍵のかかっていない部屋は設計ミスなのか、薄闇に覆われていた。

 夫婦生活が行われているなら、二人分のさなぎがあるはずだが、ひとつだけだった。玄関の靴箱を確かめると、中は男物だけだった。

 妻と思しき女の部屋は物置になっており、段ボール箱が積まれていた。

 数日ではない。もっと長い時間が経過している。その証拠に、生活の痕跡が根こそぎ消えていた。

 居間のさなぎは背中が割れ、殻の一部が砕け、透明な粘液が垂れていた。

 さなぎから這い出そうとしているものは、おそらくFだ。

 おれは椅子に腰掛け、その様子を眺めていた。

 いくつかの凶器を台所から入手し、這い出してくるのを待っていたが、這い出すまで、二度の〈循環過程サイクル〉で巻き戻った。

「ずいぶんと長くひり出していたな。待ちくたびれたぞ」

「……ど……どうして……ここに……」

「愛らしい存在になれば、殺されずに済むと思ったか」

 おれの憎悪に怯えている幼い顔が、癪に障る。

 一瞬、妻のほうかと思ったが、顔立ちは間違いなくFだ。見間違えることもない。

 おれと同じく、しがない中年男に成り果てていたはずのFは、幼児に書き換えた上に性別まで改変していた。

「やめろ……やめてくれ、ようやく……なれたのに」

 声色まで演じているなら、他人のふりをすれば良かったろうに。

「ほう……なれた、か。可愛い被害者になれたのが、そんなに嬉しいか」

 あとは怯えて泣き喚くだけのFは、おれが誰であるかを認識していたのだろうか。

 突然、部屋の中へ踏み込んで、殴りつけている少年が、かつて奸計で陥れた同僚であることを。

「忘れたか? 言ったよな? とな」

 殴って殴って殴りつける。用意していた凶器を使うまでもなかった。華奢な骨格は簡単に歪んで折れるし、薄い皮膚はあっという間に内出血でドス黒く変色していく。

 そのうちに、学生時代のFから言われた言葉を思い出した。

 と。と。BLと。

「なのに、てめえは。保身のためにな」

 おれは適当に喋っていたが、実際のところ、そんなことはどうでも良かった。

「なのに、いけしゃあしゃあと生きていやがる。しかも、加害者の過去まで丁寧に被害者カワイイモノへ書き換えて」

 殺人者の領域へ踏み込むために、儀式めいた呪文を唱えているだけだ。罵り唱えるたびに脳髄が排熱し、暴力は冷静に精度を高めていく。

「だから、手伝ってやる。てめえが被害者になれるように」

 頭を掴み、壁へ叩きつけ、顔面を真っ赤に染めてから、四肢と性器を丁寧に潰した。

 もの言わぬ肉塊と成り果てるまで、人体破壊の作業を淡々と繰り返した。

 また、さなぎにならないために。徹底的に。

 時折、休憩を入れ、すべての作業が終わった頃には、三度目の〈循環過程サイクル〉に入っていた。いや、準備まで含めれば、五度目の〈循環過程サイクル〉か。

 念のため、確認していたからだ。不条理な超常現象で死んだことまで巻き戻らないように。


 作業を終えたおれは、来た道を再び、自転車で走っていたが、意識のある部分がひどく曖昧になっていた。

 作業の返り血と臭いは、マンションの浴室で洗い落としたはずだ。

 バックパックに詰めていた服に着替え、元の服をゴミ袋へ詰めた。そして、街を出てから捨てた。

 別にそんなことをする必要はなかったが、気分の問題だ。

 流れる雲がゆっくりと揺らいでいる空は、適度な陽射しはあっても、朝日のようにさわやかに輝くことはない。

「案外、この退屈さも等活地獄のひとつなのかも知れねえな、と思っていたんだが」

 殺生の罪を犯した者が堕ちる十六小地獄は、殺しても殺されても巻き戻って、殺し合う運命を永遠に繰り返す。

 その可能性を確認するため、五度目の〈循環過程サイクル〉に佇んでいたのだが、赤黒い肉塊は何も変わらなかった。

 殺された者は〈循環過程サイクル〉から外れて、ただの物体と成り果てる。だが、腐敗していく過程だけが巻き戻り、殺したての新鮮な屍として、そこに在り続ける。

 誰が決めたのかは知らないし、出会ったサンプル数も少ないが、おれはひとつの仮説へ辿り着いていた。限りなく妄想に近い仮説へ。


 家族でも夫婦でも、他人と触れ合うことが日常化している者……徒党を組んで生きていた者は、ほとんど空のさなぎと化していた。

 揺れるゆりかごのように反復する空間ハコニワで、わざわざ肉体を巻き戻して這い出すほど己の輪郭イメージに拘っている者は、どうしょうもなく孤独ロクデナシだ。

 だとすれば、そういう者だけを、わざと選別する仕掛けなのではないか?

 もっとも、その意図までは計りかねるが。それとも、無神論者に神の意志を推測しろというのか?

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