回帰小説「蛹の国・冬虫夏草」第5話
いくつの〈
駅前のデパートの最上階、寝具売場で祀との性交に耽っていたおれの視界に、旅行社の看板が見えた。
フロアの隅で細々と旅行の手配をしていたのだろうが、それ自体に意味はない。
ただ、旅に出ようと思っただけだ。
この場所を離れようと。
「かつて勤めていた会社の同僚、かつて自分を陥れた奴を殺しに行くことにした」
だから、射精後の気怠さの中で、ゆっくりと呟いた。
「退屈を持て余してしまったのですか?」
腕の中の九葉祀も、気怠げにおれを眺めていた。あどけなくも怜悧な少女の身体で。
回答の前に少し考えてみる。
別にこのままでも良かった。〈
だが、飽きる寸前で気づいた。
憎悪くらいしか、もう動く理由がない。
動かなければ、時間は延々と反復するだけだ。寄せては返す波のように。それに合わせて腰を振るのも悪くはないが。
「少しくらいは、抗ってもいいだろう?」
抗って何かの災いが降りかかるならば、それで死ぬならば、仕方あるまい。
おれは、ひどく投げやりになっていた。
裸のまま、旅の準備を始めた。各フロアから必要なものを調達し、バックパックへ詰めていく。ついでに身体を拭いたウェットティッシュやペットボトルもまとめて捨てた。
「あんたは此処に残るのか?」
「人殺しの旅に同行する理由はないですよ」
そりゃそうだろう。元より独りで行くつもりだ。
「此処で待っていますよ。書店や玩具のフロアにいるかも知れませんけど」
「独りで退屈を紛らわせるなら、隣の図書館でもいいだろう?」
デパートの隣には、四階建ての新しい図書館があった。
「あそこはさなぎが多すぎて、気持ち悪くなるんですよ」
言わんとすることはすぐに分かった。成功した図書館だから、老人や子供が多く集まっていた。地下の読書室は満員だし、上層階の会議室も有象無象のNPOがいつも何かしら使っていた。
「確かに、此処と違って、コンクリート打ちっぱなしで寒々しい建物だったな。外壁は白く塗られているが」
考えてみれば、デパートも食料品のフロアだけはさなぎだらけだから、必要以外で降りたいとは思わない。
祀が寝具売り場を寝床に選んだのも、さなぎが少なかったからだろう。
動かなくても、叩き割ってからっぽの空白でも、実は観察しているんじゃないのか、という疑念は、何度繰り返しても拭えない。
念のため、携帯電話の番号やSNSアカウントを交換した。
テレビやラジオは消え、車も電車も止まっている。電話通信網も使えないのに。
「でも、何かの拍子に回復するかも知れませんから」
何が楽しいのか、祀は無邪気に笑いながら、おれに手書きのメモを渡した。
「送電網が維持されているなら、無数の〈
「そう上手く行くものかな」
偶然には期待しないが、通信網が回復したら、互いに自撮りした自慰行為の写真を送り合うことになった。
平時では事件の元だが、この状況では些事だ。
だいたい、デパートの寝具売り場で、少年少女が延々と性交している時点で、正気の沙汰ではない。しかも、肛門性交以外はだいたいひと通りこなしている。
「ふと思ったんだが……自撮りを送り合うくらいなら、此処でハメ撮りしておけばいいんじゃないか?」
「それも考えたんですけど、巻き戻るとデータも巻き戻ってしまうんですよ」
そういうことか。ならば、自撮りを送り合ってもすぐに消えてしまうのか。
巻き戻るものと戻らないものを分けている閾値は相変わらず、よく分からない。
新しい服を着た。
「そういえば、何処まで行くんですか」
「埼玉とも千葉とも茨城とも言い難い、辺鄙な場所だ」
徒歩では厳しい距離なので、一階の自転車売場で電動アシスト自転車を入手し、特に別れも告げず、ペダルを踏み込んだ。
ルートは都心を避けるように選んだ。慣れてしまったとはいえ、〈
たとえば、さなぎから這い出した者が、子供ではない別のものだったら。
きっと、うんざりするだろう。
その場で旅を中止したくなるほど、うんざりするだろう。
ゾンビ映画のような、ありきたりの様式美を金科玉条のように崇め奉り、喜んでいる悪趣味を持ち合わせていないから。
旅の途中、郊外のビジネスホテルへ潜り込んで眠り、コンビニやスーパーで食料を調達したが、さなぎから這い出した者に出会うことはなかった。
壊れたさなぎはいくつか見つけたが、すべて、からっぽの空白だった。
さなぎや停止した自動車を避けつつ、自転車を走らせているうちに、ひとつ思い出したことがある。
〈
線路沿いの道を駅に向かって歩いていたおれは、俯いていた。スマートフォンを見ていたわけではない。ただ、気分が良くなかっただけだ。躁鬱というほどではないが。
「前見て歩け!」
歩道を走る自転車からすれ違いざまに罵声が聞こえた。声の主は老人だった。
歩道を自転車で走るほうが非常識ではないのか?
そう思うと同時に、おれの足が横から車輪を蹴り倒した。
自転車は当然、車道の側へ転び、老人も横転する。
倒れた車体を飛び越えた俺は、顔面へ蹴りを叩き込む。
顔面だけではない。腹や股間にも蹴りを入れ、相手が叫ぶ前に頭蓋骨を踏みつけた。
おれは何か叫んでいたが、叫んでいるおれ自身はまったく冷静だった。
いや、両眼より下は興奮しているのだが、脳髄はむしろ冷えていた。
どうして早くこうしなかったのか?
眼前の事象と関係のない、過去の出来事への後悔が先に立っていた。
あの時、報復しなかったから、おれは長い余生を送る羽目になったのではないか?
「絶望のほうがまだマシだ。後悔だけはどうにもならない。死ぬまで消えることのない傷だ」
蹴りながら、そんなことを呟いたような気がする。
足下で呻いていた老人が、老いさらばえた肉塊が、どうなったかは覚えていない。次の記憶はさなぎから這い出た自分自身への違和感だったからだ。
いくつかの〈
かつて勤めていた会社の同僚、かつて自分を陥れた奴、かつて友達だった男がひっそりと住んでいる街。
会社を追われてから、まったく接点はないが、居場所は知っている。
実家の近くのマンションだ。どちらも住所は調べ上げている。
暇を持て余して、安楽椅子探偵の真似事をしていたからだが、名前を口にすることも穢らわしいから、Fと呼ぶ。
おれの行動記録を会社へ売り渡した功績で、Fは役職を与えられたが、会社は相変わらずのゴタゴタ続きで心を病んだと聞いた。会社が潰れてからは伝え聞くこともなくなったが、世はSNSの時代になり、独力で調べることも可能になった。
やがて、Fの交友関係を辿り、SNSのアカウントを発見した。
友人を陥れるような人間だから、本人は慎重に行動していたが、同病相憐れむ。結婚相手の女もメンヘラだったので、その線から辿れば簡単だった。
再就職に失敗し、肉体労働に従事していると書き込んでいたが、おそらくはシステムエンジニアの言い換えだろう。そんな状態の男が結婚できるのか、と呆れたが、相手の女も似たり寄ったりなのだろう。
もっとも、おれは調べ上げるだけで、何もしなかった。
報復を選択できる時間を、無駄にやり過ごしていた。
選択肢すら、見ないふりをして。
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