日常小説
日常小説「甘木さんの前日譚」
「書きかけの小説を放置しているのはひどく気持ち悪いが、現状、書いている暇はない」
新年早々、甘木さんは小説ではない仕事で糊口を凌いでいた。そして、その書類作業が煮詰まっていて風呂にすら入ってなかった。
気がつけば、無人島に10年放置されたのび太みたいな状態だったので、自主カンヅメも兼ねて山梨か湯河原あたりの安宿で湯治と洒落込もうと思ったのだけども、先日の大雪で家族が滑って転んで骨折入院し、万が一のために遠出ができない。
なので、自宅から一時間以内の近場ということで、荻窪の「安心お宿」にした。
理由のひとつは、13時チェックインで翌日15時チェックアウト可能ということ。
煮詰まった挙句の昼夜逆転状態なので、昼間に風呂へ入って、さっさと寝たいのだ。
甘木さんは安宿が好きだ。
若い頃はバックパッカーの放浪者だったこともあるが、さすがにもうドミトリーに泊まることは稀だ。体力が保たない。
今はビジネスホテル&カプセルホテルのマニアになっていて、新しいとこができるたびにちまちま行っている。だから、此処も実は何度か訪れている。
チェックインの前に1000円カットで髪を切り、「安心お宿」の近所で気になっていた「桃栗さんねん柿はちねん」でランチという名の夕食を。夜のおばんざいと焼酎が美味そうだけど、まずは粕漬け定食。うまい。
チェックインしたらくじを引いてくれ、と言われたので引いたら晩酌セットが当たった。おお。
その前に風呂入って14時に寝る。アメニティが充実しているのが有り難い。
21時に起きて、windows10タブレットで書類作業。無料Wi-Fiもドリンクバーもある。
もちろん電源も取れるから、短時間のコワーキングにも使えるけど、真価は風呂と睡眠も含めた自主カンヅメで発揮されると思う。
0時直前くらいに簡易バーで晩酌セットを受け取る。ビール、日本酒、焼酎の三種類から選んで、つまみセット三種類と組み合わせる。
天ぷらと日本そばが良かったけど、そばを休止していたので、串揚げと肉粽と焼酎にした。
一応、厨房にフライヤーが入っているようで、つまみとしては悪くない。
ちなみに、前に来たときは徒歩3分のところにある静岡おでんの店「酒道 ハナクラ しぞ~かおでん」で飲んでいた。こっちも晩酌セットがあるので、ちまちま飲むには良い。
この時点で作業進捗は60%くらいだけども、また仮眠を取り、5時に作業再開。
6時になると、セルフな朝食のカレーが設置される。専門店には及ばないけど、具が大きくて、チェーン店よりうまい。ゆで卵と味噌汁もセルフだ。
11時、書類がすべて上がったのでメールで送付。もうひとっ風呂浴びて、これまたセルフの煮干しや梅干しを齧り、カプセル内のテレビで昼のニュースを観てから、13時過ぎにチェックアウト。
駅近くの「ビフテキ屋 まるり」で990円のビフテキランチを食べて帰路へつく。
途中、電車やバスの中で、スマートフォンで書きかけの小説を修正しながら、甘木さんは考える。
「ずいぶん長いこと、書きたいもののニュアンスが微妙で、書きたくないものを列挙することで伝えるしかないというのが、すごくもどかしかった。
だいたいの場合、書きたいものは書きたくないものに隣接していて、でも違う、というところで個性を作っていくのでしょうがないんだけども。
表象的には似たり寄ったりだけど、倫理性の基準が違うとかそういう感じで。
とはいえ、そういうこだわりの末に、こだわりの範囲内ではこだわりがなくなる、という心境になっていて、ようやく窮屈さから頭一つ抜け出したような気はする」
よって、書けないということはなくなった。
何を書いたところで、傍目には似たり寄ったりで違いがないのだ。
自己規定した基準内では何を書いてもいいし、わざわざ枠の中に枠を作る必要もなかろう。
「同時に、面白いと思うことを書いても誰も面白がらないどころか狂人扱いされるので、別に書かなくてもいいし書きたくもない、という心境にもなっている。クライアントのオーダー通りに書く職人性を重視しているけど、書けることしか書けないので、面白くないものをどうやって書くかということに悩んでいるのはさすがにどうなんだろうか?」
何を書いたところで、傍目には似たり寄ったりで違いがないのなら、到達してしまえばそれで終わりだ。
20年近く、到達するために研鑽を積んできたが、此処より先に道はない。
「2015年の時点で、面白いから書きたいと思っていたことはすべて書いた。
その結果、お前にとって面白くないものが世間の面白いものだ、と言われた。
そうなると、生きるために面白くないものをどうやって書くか、ということで悩むことになる。
とどのつまり、使命を終えたのにまだ生きているのが一番悪い。
だけども、それで死ぬというのも馬鹿馬鹿しい。
間違えられると困るのだが、面白くないものは思い入れがないから書けないだけで、倫理的に書きたくないものではない。
面白いと思える受容体がないから、書き方が分からなくて困っているだけで、書くこと自体に葛藤はない」
言い換えれば、商業作家で有り続けようと思うなら、辿ってきた道を捨てて引き返すしかない。
だが、引き返して、もう一度新しい道を往けるのか?
この老残の身が。
「たぶん、商業媒体で小説を発表することは、もう、ないだろうな」
自宅前のバス停を降りて、言い聞かせるように呟く。
新作の企画がコンペに通らなくなって何年経ったろう。理由は数え切れないほどあるが、自分も他人も責める筋合いはない。
その程度だが、致命的なズレだ。
小説ではない仕事で糊口を凌ぐことのほうが性に合っているのは間違いない。
だが、他にすることもないから、小説を書いてはネット上へ吐き出している。
誰に読まれるわけでなくとも無理矢理吐き出すのは、読者の立場で読むためだが、何かしら小説を書いていないと不安になるという強迫観念だ。
「隠居するとしたら、山梨か沖縄か、どっちがいいんだろうか?」
日常へ戻る瞬間、いつものやつし趣味が顔を出す。
そうして、堂々巡りの甘木さんは、堂々巡りの日常を生きている。
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