因果小説「鬼は淋しく去りゆく」最終話

 不可視の〈怨魔〉は〈祀〉の肉体を歪めたが、瘤のように現れては発熱し、消えていくだけの、より中途半端なものになっていた。

 甘木は、九葉の時と同じく薬を作ったが、〈祀〉は〈怨魔〉払いの薬だと知っていた。

「あんたは、そんなものでを殺すのか。あたしはあたしの誇りに賭けて、そんな決着は認めない」

 彼女が属していたは、九葉の大量殺人の記録を持っていた。

 秘密裏に保管され続けた記録には、殺人に用いられた毒が〈怨魔〉払いの薬の応用だったことも記されていた。

 だからこそ、〈祀〉はこの森を訪れたのだ。

 そう言われても、甘木は困惑するしかなかったのだが。


 そうして、数日が経った。

 肉体の歪みは断続的に発生していたが、空間の歪みが生じることはなかった。

「……飯は喰うよ。でも、薬だったら……吐き出して、あんたの喉笛を噛み切ってやるから……」

 薄笑いと苛立ちを繰り返すことはなくなったが、食事と排泄のために起き上がる、わずかな気力体力は残っていた。

「ぬしもまだ、生きておったか」

「また、迷い子の看病とはのう」

「さっさと薬を飲ませれば良かろうて」

 突然の来客は、九葉の時代と比べて、すっかり老いさらばえた〈石工の一族〉であった。

「お互い様だろう」

「わしらも神々の末裔じゃからな。生きるだけなら、それなりの年月を生きられる」

 三人は揃って豪快に笑ったが、〈石工の一族〉も滅びかけていた。

 九葉の時代から、ほとんど子供が生まれなくなっているのだ。

 一族で生き残っているのは、もはや十人ほど――。

「ははっ、そんなことは瑣末な問題よ」

「森の中と外が入れ替わっちまったことに比べればな」

「道理で、森に〈怨魔〉がおらぬはずよ。代わりに、あらゆる場所に蔓延っておるんじゃからな」

 彼らの口伝により、甘木は世界中にかつての〈うつろ〉と同じ空間の歪みが、九葉と同じ肉体の歪みが、病として爆発的に蔓延していることを知った。

 眼前の〈祀〉も、この森で病に罹ったのではなく、森へ来る前に罹患していたのだ。

 麓の都市も、すべての住人が悪しき想念――不可視の〈怨魔〉に取り憑かれ、その身をぐにゃりと歪めていた。

「そうさ、その通りだよ。世界中がぐにゃぐにゃと歪んじまったら、もう狙撃の腕なんて、何の意味もないのさ」

 〈祀〉は〈石工の一族〉に驚くこともなく、狙撃銃を杖代わりに立ち上がっていた。

「殺し殺されることが飯を喰って糞をひり出すような日常になっちまったら、殺しの芸にも道がなくなっちまった」

 そして、ふらふらと歩き出したが、ただ、崖っぷちをぐるぐると回るだけだった。

「いったい……あたしは、何処へ行けばいいんだ。病に追われて殺されるだけなんて、道もへったくれもありゃしない。つまらない野垂れ死にだ!」

 嘲るように叫んだが、力尽きてその場に座り込むと、もう、何も言わなかった。


 次の瞬間、遠くで閃光や轟音がいくつも起きて、空が暗くなった。

「どうやら、油を売っている場合ではなくなったようじゃ」

「こいつは、ひどく寒い冬になりそうじゃのう」

「生き残れたら、また、ぬしと会うこともあるじゃろ」

 呆れたように呟くと、三人の〈石工の一族〉は、足早に立ち去った。


 おそらく、世界は滅びかけていた。

 誰もが得体の知れない異形となることに耐えられず、自滅しているのだろう。

 互いを喰らい、己の身も焼き尽くす――中途半端な人喰い鬼として。

「あの時、一度は獣に成り果てたおれは、独りだけの道を歩いていたのだ」

 しばらくの間、暗い空を眺めていた甘木は、〈祀〉の隣に座って呟いた。

「なのに、不味い人間を喰らって、道を踏み外してしまった」

「違うね。あんたは疲れ果てちまってるんだ。長く生き過ぎてさ」

 不意に、低く綺麗な声が聞こえた。

「あたしはまだ、そんな風には思えない。歌うことにも殺すことにも道がなくても、独りだけの道を見つけて生き延びてやる――」

 見れば、目を伏せていたはずの〈祀〉が、鋭い眼光で甘木を睨みつけていた。

 身体はいびつに歪み、衣服は血で染まっていたが、眼球は金色に光り、縛りを解いた銀髪が風に揺らいでいた。


 甘木――人喰い鬼は、刻々と異形化していく〈祀〉を支えるように抱いた。

「だったら、おれの代わりに、獣でも人間でもない道を探してみろ」

 そう言って、自分の痩せて希薄となった身体を喰わせた。

 最初は戸惑っていた〈祀〉だったが、やがて、甘木に抱かれたまま喰らいつき、齧り始めた。

これ、少女の業の肯定なり」

 甘木は貪り喰うことに夢中な〈祀〉には聞こえないよう、小さく呟いた。

 両手両足で絡みつき、痩せた肉を嬉しそうに噛みしめている〈祀〉は、次の鬼となり、生き延びていくはずだ。

 でも、人喰い鬼となるかどうかは分からない。

 次の世界はたぶん、だ。

 そうなると、人喰い鬼も存在できないような気がする。

 そんなことを考えていたら、喉笛を噛み千切られた、

 甘木は、もう考えることを止めた。


「すべて喰ったのに、どうして、何も変わらないんだよ」

 一晩かけて、骨まで喰らい尽くした〈祀〉は、わずかな体液の残滓を舐め取りながら、変容するはずの肉体に失望の表情を浮かべていた。

「あんたのように、もっといびつなものになるかと思ったのに」

 腹の底から、脳の奥から――絶えることなく生命力が湧き出してくる感覚はあったが、見かけは元の姿へ戻っていた。

 少女の身体のままでは、狙撃銃を手放すわけにも行くまい。

 そう思った一瞬――。

「淋しく生きていけばいい。もはや、人間ではないものとして」

 ほんの一瞬――腹の中から、甘木の声が響いたような気がした。

「ふん。そういうことかい」

 喰らった肉が、中枢神経を経由して囁いたのだろうか。

 〈祀〉は消化作業中の下腹部を小突いて毒づいたが、その表情は屈託のない笑顔だった。

「いいさ。この姿で生き続けることが、鬼だと言うんだったら、喜んで生きていくだけだよ」

 銃を構えた〈祀〉は、黒く濁った空の向こうから、わずかに射した光を撃った。

 だと言わんばかりに。

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