訃報小説「甘木さんの訃報の前に」
高尾で中央本線に乗り換え、鈍行で甲府まで来ました。
明日はいざ知らず、今日は暇なので。
身延線へ乗り換え、少し南下したところに、友人の新居がありますが、さすがにそちらへ行くほど暇ではありません。
今日の目的は湯村温泉の富士屋ホテルに泊まり、ぼくの姉の結婚式へ参列することですから。
うつらうつらと電車旅を楽しんで、温泉に浸かって、ぐっすりと眠りたいのです。
ソーシャルゲームのシナリオ〆切明けで、あんまり寝ていないので。
そうそう、鉄板焼も楽しみです。
富士屋ホテルの鉄板焼は、見ているだけで面白いよね。
ですが、その前に、友人――
2000年から2015年まで、10冊ほど刊行していました。諸事情で空白期間もありましたが、ぼちぼちやっておりました。
ところが、書いていたのがライトノベルだったのかどうか、改めて読み返すと、てんで分からなくなるのです。
SF系のレーベルで書いたこともありますが、その界隈でSFとされている部分にはてんで興味がないので、SF作家よりはライトノベル作家を自称するのが妥当であろうと思っていました。
ミステリに至っては、書いたこともないので思ったこともないのですが、ミステリへ病的に執着するレーベルから枝分かれした辺境のレーベルで書いていた頃は、それでも良かったのです。
でも、辺境のレーベルを独りで切り盛りしていた〈癖の強い庭師〉が別の
辺境は何処まで行っても辺境でしかなく、レーベルごと黒歴史として葬られました。
現在の甘木さんが小説を書いていないのは、そういうことです。
とはいえ、どの界隈でもだいたいの場合、甘木さんの小説は「最初から存在しない」ことになっていました。
ジャンルに依存している、過去の流行へフェティッシュな執着を抱き続ける、声の大きな読者の都合に最適化しなかったからです。
何処にも属すことができない小説ですから、ライトノベルということにしていたのですが、ライトノベルの輪郭がはっきりしてくると、やっぱり「お前は違う、あっち行け」と言われました。
アンケートはがきから、女性読者のほうが多かったことが判明して、庭師……担当編集者に怒られたこともあります。その小説は完全に男性向けだろうと思っていたのです。担当編集者も、甘木さんも。
しかし、よくよく考えてみると、男性受けする要素はなかったのです。
よくよく考えないと分からないから、男性向けだと思い込んでいたのです。
まァ、女性向けとも言い難かったのですが。
キャラクター化された少女への執着と、その少女のキャラクター性が反転して、執着から切り離されていく過程。
これが、甘木さんが作る物語のパターンでした。
珍しく一般文芸で書いた小説以外は、だいたいこのパターンのバリエーションでした。
一般文芸で書いた小説には、少女がいなかったので、パターンを使いようがなかったのですが、「その反転はよろしくない」と言われることも多かったです。「読者の快楽原則を考えれば、普通は反転しないだろう」と。
なら、反転しない物語を書けば、読者の都合へ最適化された物語になるだろう、快楽原則に忠実な物語になるだろう、と思って、たまにそういうプロットも作っていました。
しかし、出来上がるのは、ダダ甘な描写が続くだけのポルノグラフィであり、物語の方が消滅してしまうのです。長篇にならないのです。
元々、甘木さんの小説にはポルノグラフィが頻出していましたが、その大半は生々しい人間性の表出を演出する意図のエログロなので、よく反感を買っておりました。
特に、キャリアの初期、ジュブナイルポルノというジャンルで書いていた頃は、散々な目に遭っていたようです。
週刊誌の特集や有名国立大学のSF研から名指しで批判されたこともありました。前者はマイナージャンルに寄生している提灯持ちなライターが、メジャー出版社での執筆経験もあった甘木さんを異物と見なして叩いたのですが、後者の経緯はよく分かりません。そもそもジャンル的にまったく関係ないでしょう。
最適化されたキャラクターたちの小説ばかり読んでいると、そうでない小説がキャラクター小説の領域に存在していること自体が許せなくなるのでしょうか。
そういう理由で、同じレーベルの看板作家が不快感を示したので、切られる、ということもありました。
その看板作家はマイナーレーベルの叩き上げで、前述のライターと似たような経歴でしたので、やっぱりメジャー出版社での執筆経験もあった甘木さんを異物と見なして叩いたのです。
ま、看板作家のご機嫌は取らないとレーベルは成り立たないですから、それは仕方ないのです。
とはいえ、マイナーレーベル特有の現象というわけでもなく、メジャー出版社でも似たようなケースはいくつもありました。
一度も書いたこともないレーベルから、同じ理由で出禁に遭ったこともありました。
そちらの看板作家は死にましたが、身内はとても可愛がるひとだったようで、死後に胡散臭い美談が撒き散らされ、出版社から遺作がメディアミックスされることが発表されました。
それが成功したら、遺作でなくても遺作ということになって、続々と発見されるでしょう。
看板作家というものは、死んだら自動的に神様に祀り上げられ、ジャンルの神輿として担がれるのです。
生者は屍体を八つ裂きにして美味しく有効利用するため、神輿にして崇め奉るのです。
小説というのは、つくづく前近代的なムラ社会なのです。
漫画でも雑文でも似たようなものかも知れませんが、看板作家でもない限り、個人主義者は幽霊のようにひっそりと生きていくしかないのです。
話を戻しましょうか。
ダダ甘なポルノグラフィというものは、甘美な心中のようなものでして、外界から完全に閉じていますので、長篇どころか短篇も怪しいのです。
甘木さんの周囲には、別にそういうポルノグラフィでも良いではないか、という意見もあったようですが、甘木さんは「それでは身も蓋もないし、もっと上手いひとがいくらでもいるのだから、無理して書かなくても良いのではないか」と思っていたようです。
だから、そういうものを、ちゃんと連続体として繋ぎ合わせ、半永久的に終わらない物語として組み立てている小説を読むと、甘木さんは感嘆してしまうのです。
なるほど、これが職人芸か。
感心しながら、手元にある文庫本、正しいライトノベルを閉じたのは、久しぶりに編集者と話すことになったからです。
甘木さんは、小説を書いている自分をライトノベル作家だと思っていますが、ライトノベルを書いているだけではなかったのです。
本を作ることも含めてライトノベル作家、という珍しい例でした。
どういうことかと言うと、甘木さんはライトノベル作家としては寡作で、自分の小説は年に一冊出るか出ないか、という体たらくでしたが、自分の小説ではない企画編集の仕事はコンスタントに入っていたのです。
ややこしい構造と仕掛けの小説を書いて、当時の担当編集者が匙を投げてしまったので、自分で台割を作って編集したら、編集技術だけ評価されたのです。
それから5年ほど、作家、イラストレーター、デザイナーへ手配して、取りまとめて入稿し、その合間に小説を書いていました。
とはいえ、それも過去の話です。
最近は他人と顔を合わせること自体が珍しくなり、暇を持て余していたのです。
いえ、最近どころではありません。
もう一年近く、小説と関係のないプライベートな友人以外と顔を合わせていません。
元々、レーベルの新人賞を獲ってデビューしたわけでもなく、どさくさ紛れの成り行きで小説家となった甘木さんは、同業者の知人もなく、各社に担当編集者がいるわけでもありません。
編集者は外様作家を自社の新人賞受賞者に近づけることを避けます。若者に余計な情報を吹き込むと思っているからです。
そして、新人賞受賞者だけでレーベルが運営できるようになると、外様作家はまとめて整理されます。甘木さんもまた、使い捨ての傭兵でした。
それに加えて、人見知りの傾向があった甘木さんは、外様同士で徒党を組むことも嫌っていました。
そのため、仲間内で仕事を融通し合うこともなかったのです。
とはいえ、仕事に繋がらなくとも、編集者と話す機会くらいはあったほうが良いでしょう。
新しい流行が台頭してきた際に取るべき態度を考えるために。
妄信的に流行へ乗るのではなく、新しい流行と接しつつ、実相を拾い上げることができるかどうか。
でも、若いから正しい、と、短絡的に妄信するような編集者は、自分自身の価値観を持っていない田舎者なので、信用してはならないのです。
一方で、過去の流行へのフェティッシュな執着を、意識の中で切り捨てられるか。
ただし、SNSなど、日常的なコミュニケーションのネタとしては必要で、表象のレベルで放棄すると村八分に遭います。
それができない作家、イラストレーター、漫画家、デザイナー、編集者は、だんだん時代とズレていくことになります。
かれこれ四半世紀、甘木さんはうんざりするほど見てきたのです。
計算が合いませんが、いろいろとやってきたのです。
デパートのおもちゃ売り場でゲーム機を売ったりしながら、細々と。
専業作家になったのは、21世紀の話でして。
本格的に小説を書き始めたのが、そもそも21世紀に入ってからでして。
もっとも、ライターや評論家はこの限りではありません。だからこそ「よろしくない」のです。
前者の短絡的な妄信と、後者のフェティッシュな執着でも成り立ってしまうのです。むしろ、その方が創作と対置される分、商業的に成立されやすいとも言えます。
若い頃の甘木さんは、これらの職業こそが情報編集のプロパーであるべきだ、と思っていたのですが、実際には、正反対の政治屋になっているケースの方が圧倒的に多いようです。
ロビイストと言い換えた方がいいのかも知れません。「過去の流行へフェティッシュな執着を抱き続ける、自分たちの世代の代弁者」である政治屋は時代とズレてもやっていけますし、新しい流行に対してはむしろ、冷笑的でないと、同世代の共感を得ることはできません。
そして、編集者の側もそういうものだ、と思って、販促や政治工作に利用しているフシもあるのです。
そのような編集者は、やっぱり自分自身の価値観を持っていない田舎者なので、信用してはならないのです。
相手に新しい流行の話題を振るのは、編集者の倫理性を推し量ると同時に、自分自身の態度を考えるためです。
駆け出しの頃の甘木さんが眺めていた
一時は成功した者も栄枯盛衰……いつの間にか消えてしまいました。
幸いにして消えなかった者も、往時の輝きはくすんでいます。
先天的才能には限りがあるからです。
幸か不幸か、甘木さんには
誰にも評価されないのなら、せめて自分だけは自分のわずかな才能を信じてやろうと務めてきたのです。
自分の神様は自分だけ。
誰かが仕組んだ神輿を担いで、祭りに加担する馬鹿にはなるまい。
むしろ、他人の神輿に火を放ち、ムラ社会の祭りをサン・ホセの火祭りにしてやろうか――。
うつろな祭りに思い当たるたび、甘木さんの眼の奥に仄暗い火が灯り、脳内でカバルガータ・デル・フエゴのような妄想が騒ぎ出すのです。
あ、バレンシアの火祭り、炎の行進です。
結果として、限られた
しかし、技術で補うにも限りがあります。
よって、眺めていた甘木さんも同じ末路を辿りつつあるのです。
立脚点が幽霊のように消えていくのです。
足のない幽霊のように。
掌のない幽霊のように。
編集者との会話に、特筆すべきことはありませんでした。
相手は新しい流行を知らなかったのです。
もともと小説家の仕事に繋がる話で会ったのではなく、過去に手がけた企画編集の仕事に関連していたのですが、それにしても。
甘木さんはひどくうんざりしていました。相手の態度ではなく、商業的であろうと意識している自分自身が、馬鹿馬鹿しくなったのです。
「もう、商業的な小説は書いていないのだから、
そんな風に思ったのです。
四半世紀を生き延びてきた甘木さんの処世術(?)を、幽霊と化していく自分自身が、そんなものは無駄な努力でしかない、と切り捨てたのです。
自己否定の後に残ったのは、
うつろな祭りは、甘木さんが眺めていた世間ではなく、甘木さんの人生そのものでした。
もう、甘木さんは他人の顔を覚えられなくなっていました。
誰の顔も等しくのっぺらぼうで、同じようにしか見えなかったのです。
そんな、他者の消えた人生を眺めていたのは、少女でした。
幽霊のようにあいまいで、不定形の少女でした。
「たとえば、天使のように眺めている物語の魔女……君の涼しげな顔を膾のように切り刻んでもいい」
うつろな瞳の
「幽霊のようにあいまいな存在に肉体を与え、そのあとで切り刻む。皮膚の下の美醜はすべて同じなのだからね」
帰路、虚空へ呟いた甘木さんの表情は和やかでしたが、その瞳の奥は憎悪と確信に満ちていたのです。
「まるで、見てきたように言うじゃないの」
富士屋ホテルのロビーで、姉が言いました。
明日、結婚式を控えているのに、ひどく退屈そうな顔をしている姉が。
「そりゃそうさ。甘木さんは、ぼくの創作上の人物なんだから」
これから、甘木さんが生きている世界は滅んでいくでしょう。
だけども、彼は30年近くも生き延びます。
そして、とてもつまらない孤独死を遂げるのです。
そんな人生を描いた小説なんて、誰も読みたがらないだろうけど、考えるのは好きです。
そこそこ売れる小説を書く合間に、まるで売れなかった自分の人生を考えるのは、とても楽しいことです。
もうひとつの人生を。選ばなかった人生を。
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