因果小説
因果小説「鬼は淋しく去りゆく」第1話
風景に絡みつくのは、無尽蔵で野放図な緑。
風景の上に別の風景を、幾重にも塗り潰して描かれている空間。
そんなものに覆い尽くされた山の奥深く、隠れるように棲んでいたのは、鬼だ。
人と似て非なる異形。屈強な肉体の異人。
異形の存在は麓の村落に代々伝えられていたが、村人たちはどうしてそんな場所にわざわざ棲み着いたのかは忘れてしまったから、去ろうともしなかった。
「悪鬼じゃ。人を喰う悪鬼じゃ」
忘れてしまったから、いつしか、こう言い伝えていた。
当事者である鬼にしてみれば、村落の住人たちを喰ったことはなかった。
少なくとも、この数百年は。
だが、生きている者たちは、誰も見たことがなかったから、悪しざまに罵っていた。
辺境の偏狭な共同体を維持する口実として、鬼はありもしない意味を付与され、村落のはぐれ者を脅し、従えるために使われていた。
もっとも、九葉という少女に対しては、従えるための口実ではなかった。
むしろ、人喰い鬼の恐怖を補強するために、眠り薬を盛られ、籠に詰められていた。
籠を担ぐ村人たちは、村落を見下ろす崖沿い――けもの道をのそりのそりと登っていく。
村落共同体は危機に瀕していた。
わずかな林業のために存在している辺鄙な村にも、近代化の波がやってきたからだ。
遠い都の噂を聞いた若者は、どうしてこんな場所に棲み着いたのか、首を捻り出し、一人二人と去っていった。
村落の長たちは対策を考えたが、結局、引き留める理由よりも出られない恐怖を作り出すほうが有効だと結論づけた。
少女の死によって、誰も見たことがない人喰い鬼の存在が立証される。
屍骸が別の獣に喰われたとしても、鬼のせいになる。
誰も実在を信じてはいないが、口実は欲しかった。
村落共同体を維持するために。
かくして、九葉の籠は、崖から放り投げられた。村落の方向へ。
だが、九葉は生きていた。
身体の節々が同時に軋む激痛で目を覚ましたが、どれも致命傷ではなかった。
それが幸運だったのか、不運だったのか。
朦朧とする意識の中で考えていたが、やがて、落ちたはずの場所――現在の場所に違和感を覚えた。
村落の方向へ放り投げられたとはいえ、落ちるのは鬱蒼とした森の中だろう。
なのに、洞窟のような場所で――誰かが敷いたような藁の上に寝かされている。
「誰だか知らないけど、あんた、村落の人間じゃないね?」
「おれが同族殺しの矮小なる連中と一緒に見えるか?」
視界はまだぼやけているが、誰かの背中が見えた。岩のようにごつごつとした筋肉だが、形状は人間だ。
「あたし、人喰い鬼の住処に迷い込んだのかい?」
「おれはもう喰わぬ。眼前で死なれるのにも飽いた」
吐き捨てるように言ったが、振り返った姿は人間とは似て非なる異形――鬼であった。
「おまえが殺されかけたのは、何故だ」
淡々としているが、呆れたように問いかけてくる。
鬼の顔には表情がなく、感情は声色から察するしかない。
「あたしは〈怨魔〉に呪われて、村から放り出されたんだ」
「ふむ。おまえは〈怨魔〉に呪われているのか」
「ああ、呪われている、と言われた。もちろん、口実さね」
九葉はようやく状態を起こし、苦笑いを浮かべた。
「たぶん、うちが都から流れ着いた余所者だからさ。とはいえ、流行り病を持ち込んだわけでもないんだけどね」
確かに、流行り病ではない。だが、九葉の両親が村落へ流れ着いた直後、訊かれるままに都の話をしたことが大元の原因ではあった。
当人たちは忌々しげに話したつもりだったが、外の世界を知らない若者たちにとっては、魅力的に思えてしまったのだ。
「だが、おまえが……娘がその責を負う道理はない」
「それも口実でね。本当は一家の余り者……末っ子だから、口減らしついでの貧乏籤を引く羽目になった。それだけさ」
呟いた九葉はようやく、自分が裸で寝かされていたことに気づいた。
「……粗末な着物だったからね。いよいよボロ布になっちまったんだろ?」
全身に新しい打ち身や切り傷があったことから、だいたいの予想はついていた。
落ちる途中で木に引っかかり、引き裂かれたのだろう。
結果、即死はせず――瀕死の状態を鬼に助けられたのだろう。
ならば、裸を晒すことを恥じるのは失礼だ。
だいたい、鬼も裸ではないか。
「残っていたのは切れ端だけだ。それにしても、ひどく汚れているが」
「気に留めることはないさ。ありゃ、落ちる前から汚れていたんだからね」
本当は人喰い鬼で、回復したら喰うのかも知れない。
だとしても、人間よりはマシだ。
額の双角は鋭くそそり立っているが、下の一本角は平常通りなのだから。
そうだ、人間よりはマシだ。
眠り薬を盛って、夜通し弄んでから、崖から放り投げた連中に比べれば――。
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