因果小説「鬼は淋しく去りゆく」第2話
鬼の外見は逞しかったが、纏っている生命力は希薄だった。
存在が無尽蔵で野放図な緑に呑まれているようで、少し離れれば、姿を見失ってしまう。
村人たちの視界に入らなかったのは、そのせいか、と。
一方、九葉の肉体は急速に快復し、立ち上がって動けるようになった。薬を塗ったわけでもないのに、日に日に傷は癒えていく。
「あたし、森の霊気と相性が良いのかも知れないね」
とはいえ、裸で森をうろつくと虫が纏わりつく。四季も秋に差し掛かっている。
「どっかに着るものはないかねえ」
鬼に訊くと、少し離れた廃屋の行李に着物が入っていた。
丈は妙に短かったが、九葉も少女であるから、ちょうど良かった。
何故か、石のような臭いがして、虫喰いもあったが、繕えば着られるだろう。
ついでに、鬼の腰布も拵えた。当人は気にしていないし、屹立していなければ、九葉も気にしないが、助けてくれた礼の代わりだ。
「おまえは帰らぬのか」
「帰ってどうするのさ? また薬を盛られて、崖から放り投げられるだけだろ」
訝しげに訊かれたが、九葉は笑った。
「いや、盛る手間も省いて叩き殺すかも知れないね。いるはずのない人間なんだからさ」
確かに、帰る場所などありはしない。
無残に死んでいなければ、都合が悪い。
鬼に喰われたことにしなければならないから。
人間は同族を殺して生き延びていく種族だが、その罪は他人に押し付ける癖があり、人間でないものがあれば、そいつに押し付ける。
鬼はそれ以上、何も言わなかった。
つくづく人間が嫌になったのか、九葉はそのまま鬼の居候となってしまった。
だが、九葉は気づいていなかった。〈怨魔〉に呪われたとされ、村から放逐されたことを、彼女は口実だと思っていたが、〈怨魔〉に呪われていることは事実だった。
厳密に言えば、因果の順番が違うのだが。
呪われていると噂された時点では、呪われてはいなかった。
呪われたのは、死の運命が不可視の力でぐにゃりと歪み、生き延びてしまった瞬間で、鬼はその瞬間を見ていた。
「千年……千年ぶりだ」
眼前で空間がぐにゃりと歪んだのは二度目だった。
鬼が九葉を助けたのは、千年前に歪んだ者の末路をよく知っていたからだ。
そして、森に生かされてしまった九葉は、がらんどうのまま、此処にいる。
呪い――〈怨魔〉は、がらんどうの形骸に憑く。
鬼は人を喰わなくなっていたが、九葉を殺す選択肢もあった。
なのに、それを選ばなかったのは、千年前に歪んだ者の末路を覚えていたからだ。
そもそも、鬼が人を喰うことに飽いて、喰うことを止めようと思ったのは、千年前の歪みだ。
自分が何故、この森で人喰い鬼として生きているのか。
長い間、他者の生命を喰らい続けることで、獣のようだった鬼は明瞭な意識と記憶を取り戻しつつあったが、森に迷い込んだ少女をいつものように喰らうはずだった。
だが、その少女はひどく鬱屈しており、抵抗する気配すらなかった。
死人のような瞳で鬼を見上げるだけで。
殺してから喰うか、生きたまま喰らうか、それとも、見なかったふりをするか。
しばらく考えあぐねていると、死人のような瞳がぐにゃりと歪んだ。
次の瞬間――少女の歪みに向かって、無尽蔵で野放図な緑が怒涛のように流れ込んできた。
四方八方から、植物や菌類を装っていた有象無象が正体を現し、少女を中心に現れたいびつな空間へ飛び込み、歪みを拡大させていく。
連鎖するように歪み続ける空間は渦を巻き、少女自身の肉体を解体していく。
自らが作り出した歪みへ呑まれていく少女を、鬼は異様だと思ったが、同時にかつての自分自身を見ていた。
群がる有象無象が、鬼の身体を構成している異形の肉片だったからだ。
「そうか、おれもそうして此処へ辿り着いたのか」
結局、九葉の場合とは違い、鬼は少女を助けなかった。
「運が良ければ、同族へ生まれ変わるかも知れない」
「そうしたら、名前を訊こう」
「かつてのおれと同じ獣ならば、力ずくでねじ伏せてやろう」
記憶と意識を取り戻し、独りでいることにも飽いていた鬼は、そう考えていた。
だが、無尽蔵で野放図な緑――〈怨魔〉の群れは、千年前の少女の肉体をぐにゃぐにゃに歪めた挙句、ボロ布のように引き裂いた。
少女は異形の肉片を受け容れていたが、異形の肉片が少女を拒絶し、破壊したのだ。喰らうに値せず、と。
すべてが終わり、残されたのは屍骸――いや、捻くれて飛び散った血まみれの肉塊だった。
「だったら……おれは、何の条件を満たして、こうなったのだ?」
少なくとも、空虚なだけでは、鬼になることはない。
そうと分かれば、他者の生命――記憶と知識の助けを借りなくても、辿ることができる。
それから千年――鬼は、鬼が鬼でなかった頃の記憶へ遡行し、思い出していく試行錯誤を繰り返していた。
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