因果小説「鬼は淋しく去りゆく」第3話
かつて、戦があった。
千年前の歪みよりも更に昔――敗者たちは故郷を追われ、逃亡の末に、この森へ逃げ込んだ。
鬼も敗者の一人だったが、この時点ではまだ、同胞がいた。
「いつの日か、敵に復讐し、故郷を取り戻すのだ」
同胞たちはことあるごとに呟いていた。
鬼でなかった頃の鬼もそう思っていた。
だが、復讐を果たすことは不可能だった。
敗者が勝者に復讐するためには、運命を捻じ曲げるほどの強度が必要だったが、誰一人として、そんなものは持ち合わせていなかった。
ただ、行き場のない憎悪と失意が渦巻いていただけだ。
森を出ることすらできなかった。
あとで気づいたことだが、勝者は意図的にこの森へ追い込み、随所に罠を仕掛けていた。
運良く潜り抜けたとしても、監視者に討たれるから、結局、此処で朽ちていくしかなかった。
「その憤りが、ろくでもないものを招き込んだ」
「そいつが、あたしの呪いだって言うのかい」
眠れないと呟く九葉に、鬼は過去を語っていた。
「そうだ。此処にいれば、誰もがそうなる」
九葉の身体に異常が生じたのは、何度目かの月が満ちた頃だった。
眼球が金色に光り出した。肩に届かぬ程度だった黒髪も一晩で、腰まで届く銀髪となった。
そして、声色が変わった。
蓮っ葉な態度に似合わぬ、綺麗な声で囁くだけで、森に棲む獣たちがその身を投げ出してきた。
わたしを食べてください、と言わんばかりに。
九葉は嬉しそうに知らせてきたが、鬼は訝しんだ。
月が欠けると、今度は高熱を発して寝込んだが、呼吸のたびに周囲の木々が枯れた。
無尽蔵で野放図な緑が――獰猛に喰らい尽くす〈怨魔〉の群れが、九葉だけを怖れ、避けていた。
九葉は、鬼とは違う種類の異形と化しつつあった。
「おれの同胞たちの末路を続けよう」
森に潜んでいた同胞たちの肉体が、ぐにゃりと歪み、獣のようなものが混じり出した。
怯える者もいたが、大半は喜んだ。「おれたちは、運命を捻じ曲げる強度を得たのだ」と。
だが、反転攻勢に出ることはできなかった。
異形であることに慣れた者は、歪みを拡大し、呼び寄せた異形の肉片と融合した。
憎悪は暴走し、互いに殺し合い始めた。
「がらんどうのおれたちに、この森の有象無象が潜り込んだのだろう」
同胞たちはすべて、憎悪で己の身を焼き尽くし、互いの肉体を喰らった。
そして、妄念だけがこの森に残り、新たな依代を求めて彷徨う有象無象――〈怨魔〉と化した。
「おれは生き延びたが、記憶を失い、獣のように這い回っていた。ずいぶん長いこと……」
「あんたが生き残ったのは、強かったからかい? だとしたら、あんたは嘘をついていたことになるね。あんたも同族殺しの矮小なる連中の一人じゃないか」
九葉は怒りを込めて、鬼を罵った。
「おれより強いやつは他にもいたが、強すぎて死んだ。誰もが獣と化したが、殺し続けた者は、己の憎悪に焼き尽くされ、朽ち果てた」
「何を……言いたいのさ」
「ひどく中途半端だったのだ。おれは」
遠い記憶の中の自分は、同族殺しを厭い、逃げ回っていた。復讐も忘れ、惨めに逃げ回っていたが、どうして、そんな道を選んだのか。
復讐を捨てたら、それこそ、何も残らないではないか。
正真正銘のがらんどうではないか――。
「おれが生き残ったのは、おそらく、別の理由だ」
呟く鬼は何処で入手したのか、石鉢で野草を擦り潰していた。
薬を作っているのだろう。九葉の病に効くのかどうかは知らないが。
「それが何かは分からないが、がらんどうになったタマシイに残っていた、中途半端な何かが、おれを中途半端な人喰い鬼にした」
「あたしも中途半端だから、こうなった……そう言いたいのかい」
「歪みに呑まれて、即死するよりは良かろう」
九葉が罹った呪いは、タマシイの隙間に〈怨魔〉が入り込み、異形となる病だった。
異形の肉片を呼び寄せるほどではないが、不可視の〈怨魔〉が憑いて、臓腑から眷属へ作り変えていく。
「結局……〈怨魔〉ってえのは、なんだい?」
「この森は、古の時代には霊山と崇められていた。だが、おれが人間だった頃には、忌まわしいものが棲む地と蔑まれていた」
「へえ。ずいぶん、扱いが変わったもんだね」
「おまえの親がいた都は、仏の像を祀っていたはずだ。そいつのせいだ」
森に棲んでいたのは、仏教伝来によって、神の座を放逐されたかつての神――八百万の神々。
「おれの戦も、おれの一族が仏を拒んだからだ」
無尽蔵で野放図な緑に訊いたわけではないし、答えることもないが、千年の間、考え続けた結論だった。
「あのさ、このまま成り果てるってのは、許されないのかい?」
横たわっていた九葉は少しだけ身体を起こし、鬼の横顔を見た。
「あんたのように、この森で生きていくことはできないのかね。あんたさえ良けりゃ、あんたとつがいになってもいい……」
熱にうなされながら、綺麗な声で歌った九葉は、このまま異形となり、森で生きることを望んだ。
「そいつを決めるのは、おまえの中にある、中途半端な何かだ」
鬼は、一言だけ呟き、あとは答えなかった。
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