ハサミ
倉下忠憲
ハサミ
男はハサミを弄んでいた。指かけはぬめりとした漆黒、刃は輝くような銀。それだけでどこか惹きつけられるそのハサミを、男は図書館で見つけた。奥まり、ジメジメとした空気が漂う一角に、堆く積まれた書籍。新雪のような埃。誰にも顧みられなくなった書籍たちの中にそのハサミはあった。男は何かを期待していたわけではなかった。むしろ何も期待していなかったからこそ、その一角を訪ねたのだ。絶望の散策。啓示はそこからやってきた。
黒いハサミは、本の中に埋め込まれていた。その本のタイトルはもはや思い出せない。そもそも何でもよかったのだ。いつの時代の、どんな著者が、何の目的で書いた本なのかは関係がない。そこにハサミが埋め込まれていたことが大切なのだ。それこそが、男にとっての啓示であり、希望でもあった。
気がつけば、そのハサミは男の手の中にあった。自分で抜き取った覚えすらない。そもそもそのハサミは、元から男の所有物であったのではないか? そんな不自然な感覚すら、ごく自然に感じられた。男は図書館を後にした。とめる人は誰もいなかった。埃は積もったままだった。
そのハサミは、なんでも切れた。あらゆるイトを裁ち切り、あらゆるカミを切り裂き、あらゆるカラを突き破った。そうしようとさえすれば、原子と電子のリンクすら断ち切れそうだった。
男は目に入るものを何でも切断してまわった。AとBを切り分け、光と影を切断し、贈与の連鎖を断ち切った。快感だった。愉悦だった。男は、創造の喜びに打ち震えていた。一つのものが二つになる。これが創造でなければなんだろうか。
男は切断を続け、快楽に浸り続けた。彼の欲求は止まることを知らなかった。切るためよりも、切れるかどうかを試すためにハサミを走らせた。切りたいかどうかすら関係がなかった。そこにあったのは、切断欲求ではなく、切断そのものの顕現欲求であった。ハサミ自身がそれを欲していたのだ。
彼はあらゆるものを切り尽くした。社会はズタズタに切り刻まれ、科学と宗教信仰は紙吹雪となって散っていった。ハサミはまさに万能だった。あらゆるものの頂点に立つ存在だった。なぜ、そんなものが図書館に奥底に潜んでいたのだろう。なぜ、自分はそのハサミを手に取ることが許されたのだろう。もしかしたら、俺は選ばれた存在なのかもしれない。男は、確信をはぐくみ、その分だけ切断を増やしていった。
もはや何も残されてはいなかった。切るものはすべて切り尽くされた。たった二つのものを除いて。そのうちの一つについて男は可能性を思い巡らせた。このハサミは、俺すらも切れるのだろうか。然り。もちろん然りだ。だったら試さなければいけない。もはや自分の意志とは無関係に、そんな欲望が立ち上がってきていた。あとは時間の問題だろう。
では、ハサミはどうだろう。このハサミは、自らをも刻むことができるのだろうか。絶対的なハサミは、自らを持ってその絶対性を証明できるだろうか。しかし、ハサミは黙りこくっていた。ありとあらゆるものを刻むハサミは、自らを刻むことを望んではいなかった。そのことが、男にはよくわかった。長い間、いろいろなものを一緒に刻んできた男には、ハサミが発する声が聞こえたのだ。しかし、今このときは、ハサミはじっと沈黙していた。そしてただ、願っていた。俺自身が俺を切り刻むことを。そうして俺が消え去り、ハサミだけが残る。それで終幕だ。カーテンコールはない。望むものも、演じるものもいないのだ。
男はもうハサミを捨てたかった。でも、そのハサミは彼自身の一部になっていた。彼の手が、ハサミだったのだ。彼は自分の手で、あらゆるものを刻んでいたのだ。あの本を求めて、かつて図書館だった場所にも行った。しかし、その本すらも彼は切り刻んでいた。そもそも、その本が存在していたとしても、彼のハサミは受け入れられなかっただろう。男のハサミと本のハサミはもはや形が違っていたからだ。どこにも行き場のないハサミと、どこにも行き場のない男。どちらによせ、男には何もなかった。今さらハサミを捨てたところでどうなる。しかし、時間が経てば俺は俺自身をこのハサミで刻んでしまうだろう。それはどのような苦痛だろうか。それとも、これまでに体験したことがない愉悦がやってくるのだろうか。試したい気持ちも、試したくない気持ちもあった。ハサミはそれすら切断して分離させた。
そこには本があった。男はもうどこにもいなかった。その消息は誰も知ることがなかった。ただ、本だけが残されていた。その本にはハサミが収められていた。かつて男が振るったハサミであり、彼自身の一部であったハサミだ。その本は、そのハサミのためだけに作られていた。ちょうど収まるサイズに作られていた。
本は図書館の一角に収められた。ハサミが消えた世界では、いつだって図書館は作られるのだ。そしてハサミであろうがノリであろうが構わずに収集してく。それが図書館が図書館たるゆえんでもある。
そして、日が過ぎ、雨が降り、雪が降り、埃が積もった。
本とハサミはまだそこにあった。
ハサミ 倉下忠憲 @rashita
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