幸福の享受
それからミゾレは俺が相手であれば問題なく踊れるようになったもののペアが変わるとどうしても投げ飛ばしてしまって、結局、後期の中盤――秋口に催される文化祭のダンスパーティーまで続くレッスンの間、ずっと他とは組まずに過ごすこととなる。
部活動が同じであることも含めれば自然と交わす言葉の数も増えるというものだろう……。
いや、自然でなかったか。
愛想も協調性もない彼女が相手であるから何もなければ徹頭徹尾、必要最低限の会話を交わす程度で終わったに違いないのだ。
きっかけがあった。
一つは俺が中々ステップを覚えられずに苦戦していると不意に口を開いてコツを教えてくれたこと。
もう一つはレッスン後に寮の屋外広場で練習をしていたらワルツを奏でてくれたこと。
彼女に練習のことは伝えていなかったのだけれど、屋外広場に面した部屋でフルートを吹いていて、丁度こちらの様子が伺えたらしい。
俺の練習の時だけ精霊の騎士から曲を変えてくれていた。
まあ、本人に尋ねてもそういう気分だっただけだとしか答えてはくれなかったが。
俺の方から徐々に会話を増やしていった時の心境は、道端で見かけた猫になんとはなしに心引かれて去り行く後ろ姿を追い掛けてしまった時のそれに似ていた。
彼女が本物の猫だったなら見失って、忘れることもできただろう。
しかしながら彼女は猫ではないから見失えないし、俺は追い掛け続けて今に至っている。
圧倒的な才覚に恵まれながら他人を恐れ、威嚇して、不器用にしか生きられないでいるその姿から目が離せないでいる。
お節介焼きでもなくとも見詰める先で猫が馬車の前に飛び出して轢かれそうになっていたら「危ない!」と思うなり叫ぶなりするそれと同じで、ついつい気に掛けてしまうのである。
*
始業の一週間と一日前。
早期に数えられない入寮期間に入ると特別講座も終わりを告げて、受付や支給品、返還品の受け渡しなど業務の手伝いに回ることになる。
任意となっているので不参加を申し出ても咎められはしないが内申点に関わる為、第一師団における順位をキープしようと考えるなら外せない。
……外せない、のだが。
校内に留まっているのは部活動の都合だと言って特別講座を蹴ったミゾレは手伝いにも参加しないつもりでいるらしい。
点なら他で稼ぐと。
前年度もこのような態度で、成績のほとんどをテストの結果だけで収めた彼女であるからこそ言える台詞である。
じゃあ俺も、なんて便乗できるほどの才能は残念ながら持ち得ていないので大人しく指定された部署の使いっ走りとして右から左のへ、左から右へ。言われるがままに従って雑務を引き受けて回る。
ああ、甘辛く煮立てられた肉が食いたい……。
驚くくらいに俺好みなミゾレ手製の。
自炊の間は彼女と食事を共にしていて、二人で作った料理を食べていたのだが、早期入寮の期日に合わせて食堂が開かれ、なおかつ生真面目な班員たち――なお、ルキの配属先は第二クラス一一隊の六班だ――が揃ってしまった為に、そちらの付き合いを蔑ろにもできず、残念ながら口に出来ない日が続いているのだ。
休憩時間に食堂で大衆向けに整えられた可もなく不可もない昼食を口に放り込むようにして食べながらそっとため息を零せば、隣に座っていた班員の一人が聞き付けて「なんだ、どうかしたのか?」と首を傾げた。
笑って誤魔化しつつミゾレを思い浮かべている俺は割と重症なのではないかと思う。
それくらい美味しいのだと言い訳しておこう。
好き勝手には利用出来ない炊事場で、自炊の許可が下りている期間というのは限られていて、つまり彼女の料理を口にできる機会というのもその間に限られている訳である。
こう、一口だけでもつまめないかなあ。
癒しが欲しい。
酷く単純で些細なもので構わないから噛み締められる幸せが欲しい。
……第一師団はエリート揃いと言われるだけあって、英才教育を受けて育った軍人家系の、家柄の良い子息子女が集まりやすく、聞いているだけで背筋がむず痒くなるようなやり取りがあちらこちらで交わされている。地方出身で施設育ちのルキには馴染みのない空気ばかりが辺りを覆い、ちょっとしたことでも仕草がどうだ立ち振る舞いがどうだと指摘を受けては呆れられる。知るかよそんなこと、と何度思ったことか。最低限のことは第三師団でも習うが多少粗野でも許されていて、重箱の隅を突くように口煩い相手は生徒だけでなく教官の中にも居なかった。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
第一師団に配属が決まっている以上は慣れていくつもりでいる。将来的に、指摘を受けた部分を直して損になることはないので苦言は有難く受け取ろうと考えてもいる。
しかし、それはそうとして慣れないことに肩が凝るのも事実。
故に軽率に癒しを求めてしまうのも仕方ないことなのである。
夕刻を迎えると使いっ走りからも解放されて、お腹が空いたと述べる皆と共に食事を取り、入浴も終わらせたならようやくの自由時間。
汗を流した後で埃っぽい部屋に入るのは少々遠慮したいところだが、そこにミゾレがいるのだから仕方がない。
ギリギリまで共に過ごすのに時刻を気にしなければならないのも嫌だし、となると布団に入る以外のことを済ませた後でなければならないのだ。
夜くらいは好きにさせてくれ、と班員からのチェスの誘いをやんわり断った上で教材とランプを手にいつものフリースペースを訪ねる。
常と変わらない精霊の騎士の音色がそれに合わせて耳に届き、肩の力が抜けていくと同時にどこまでも自由で我が道を進む彼女に妬ましさが胸を過ぎった。
どうやら俺はかなり疲れているらしい。
閉じられている扉をノックすると音が止んだ。
ドアノブを回して中に入れば星明かりに照らされたミゾレと目が合う。
――普段なら、彼女はそこで早々に演奏を再開して視線も外されるのだが、何かあるのか、俺が側に寄るのを待つようにじっとこちらを見詰めたままでいる。
二、三歩前まで近付くと彼女は隣に置いていた乳白色の箱を手に取った。
楕円形のそれは弁当箱に見えなくもない。
手の届く距離になると差し出されて思わず受け取ってしまったが……。
「入れ物は第二クラスのものから借りたからそっちに返しておいて」
「は?」
瞬間的に後片付けを押し付けられたのだと思って声が低くなった。
「開けたら分かる」
こちらの反応を気に止めた様子もなく、言うなり彼女は背を向けて窓の外に足を出すと精霊の騎士を奏で始めた。
……開けたら分かるということは、中に何か入っているのだろう。
ランプを片手を教材を脇に抱えている今の状態では蓋を開こうにも開けないので、ひとまず物を置いてから、改めてミゾレと箱を見比べてみる。
彼女は素知らぬ顔で振り返らない。
何が入っているのか……そっと蓋を開いた俺は、中に収まっていたものを確認して驚くと共に多大なる勘違いをしてしまったことに対する申し訳なさと恥ずかしさを覚えた。
穴があったら入りたい。
「ミゾレ、あの、これ」
「……」
「もらっていいってこと……?」
箱は見立ての通りの弁当箱で、甘辛いタレと肉の香りを漂わせる饅頭が詰められていた。
夕飯は取った後だというのに腹が減ってくるようである。
「いらなかったら捨てて」
「捨てないよ!」
昼間に食べたいと思ったそのままの料理だというのに!
出窓の棚に腰掛けてさっそく頬張る。
舌の上に広がる求めていた味に喜びを噛み締めていると、僅かに振り返った彼女から伺うような視線を向けられた。
思わず目を泳がせる。
あー……。
「態度、悪くてごめん」
「疲れてる?」
「少し」
「そう」
だったら仕方ないわ許してあげる。
そんな言葉を口にはしないけれど、背を向け直してもたれ掛かってきた彼女に許された気分になって、ほっと安堵する。
「ありがとう」
返事はなかった。
フルートの演奏に戻った彼女は精霊の騎士ではない、ただ明るいだけの、緩やかで優しいメロディーを奏でる。
明日は俺も、教材ではなくフルートを持参しようか。
彼女にはまだまだ及ばない腕前だけれどたまには二重奏もいいだろう。
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