ルキから見た彼女

 ルクフツァリヒ・リア・ユーツェント。

 ルキの愛称で呼ばれている俺は今、次の配属先である第二クラスにおける勉学の予習に励んでいる。

 寮内でも端に位置する埃を被ったフリースペースで、掃除の時間も惜しむように出窓の棚に腰掛けてフルートを吹き続けているミゾレの隣で。

 二月も下旬に差し掛かる頃合いとはいえ、春の気配はまだ遠い中。開け放たれた窓から吹き込む風に体が冷える。

 俺も棚に腰を下ろしているものだから、ノートを取るには適さないし、正直、効率はすこぶる悪いと言わざるを得ないだろう。

 無意識の内に暖を求めて身を寄せた俺にミゾレが顔をしかめる。

 演奏を続けながら彼女は体をズラして、室内の方へと投げ出されていた足を窓の外に出した。

 結果として、俺に背が向けられた形となる。

 拒絶?

 いいや、それなら彼女が無防備にも背中を見せることはない。

 演奏の邪魔になるから身を寄せるなら背中にしろということだ。

 遠慮なく……と言うには、少々様子を伺いながらとなったが、更に距離を詰めて軽く体重を預ける。

 彼女も俺もそう体温は高い方ではないので、あまり効果は得られなかったものの風の通り抜ける隙間が減った分、先程よりはマシだった。

「……ごめん。少し良いかな」

 演奏が止まる。

「何」

「分からないところがあって」

「読み上げて」

 彼女が振り向けるだけのスペースを空けようと、寄せたばかりの身を離すと反対に彼女から体重を預けられた。

 チラリと視線をやれば指は変わらずキイの上を動いており、息を吹き込めばそのまま曲の続きが流れることだろう。

「数式なんだけど」

「問題ない」

 こちらの不安を他所に読み上げただけで教科書よりずっと、ノートを取って整理する必要がないくらいには分かりやすい解説を並べてくれる。

 彼女の才能は嫉妬するだけ無駄と感じる程に圧倒的だ。

 リッププレートに唇が近付く。

「ミゾレ」

「……何」

 もう大丈夫だと伝えた口で演奏に戻ろうとしたところを呼び止めた為、声が低くなった。

 ……まあ、いつものことだ。

 いちいち気にしていてはキリがないので、口内に留まっている言葉をそのまま音に変える。

「フォーゲルホフツァイト、じゃダメかな?」

 彼女が好んで演奏している精霊の騎士とは別の民謡である。

 物悲しくもどこか懐かしいメロディーは包み込むように優しく響いて、俺も嫌いではないのだけど。繰り返し聞いていると他の曲が恋しくなってくる。

 数秒の間を置いた彼女は黙ったまま押さえるキイの位置を変えるとフォーゲルホフツァイトではない、けれど精霊の騎士でもない別の曲を奏で始めた。

 それが終わるとまた別の曲。

 三曲目にしてリクエストが聞き入れられ、フォーゲルホフツァイトの演奏が始まる。

 俺の口元が緩んだのは仕方のないことだったと言わせて欲しい。

 素直じゃない、けど無視もしない。

 そういうところを可愛いと思う。

 笑いを噛み殺す俺に気付いてだろう。

 まるで抗議の声を上げるかのように明るかった曲調が不穏なそれに切り替わる。

 演奏を止めない辺り、本気ではない。

「今、こうしてる時間が幸せだなって思っただけだよ」

 弁明の余地があると判断して繕えば曲は区切りが付くのを待ってから精霊の騎士に戻った。

 再び繰り返し、繰り返す。

 男女が互いに無理難題を提示してはそれを成し得たなら君は恋人だと歌う古い民謡の、叶わない恋を綴ったバラッド。

 その歌詞を俺は教科書のページを捲りながら口ずさんだ。


     *


 出会いは一年前。

 クラウンフォルン衛士養成学校に入学を果たし、一三六ひとさんろく隊――第三師団の第十三連隊第十三大隊第二中隊第六小隊に配属されたルキはミゾレと同小隊かつ部活動では共に吹奏楽部でフルートのメンバーに選ばれたことで、多少他より顔を覚えやすい関係にあった。

 その頃から既に愛想のなかった彼女とは必要があれば話すと言った程度で、今の関係に落ち着くにはしばらく時間がかかる。

 ……俺はけしてお節介焼きと言えるような性格ではない筈なのだが、どこで何を間違ったんだか。


 それはパーティの為のダンスレッスンで、男女でそれぞれペア組むよう指示が出された時のことだった。

 挙手で発言を求めたミゾレが「自分は人とは踊れません」と言い出した。

 その為に練習するのだと諭す教官にため息一つ。

「私は先に進言しましたので、後のことに責任は持ちません。それはご了承下さい」

 普段の態度と合わせて丁寧さが余計に鼻に付く物言いで、何を言ってるんだと思ったのは俺だけではないだろう。

 本気で、言葉通りに『人と踊ること』が出来ないのだとは誰も考えなかった。

 彼女の発言は綺麗さっぱり流され話はステップ練習に進む。

 部活動が同じで扱っている楽器も一緒なら、なんて理由で周りに推されてペアを組むことになった俺は、蓋を開けてみれば完璧にこなしてみせる彼女に踊れるじゃないかとも思ったものだ。

 しかし、初心者感丸出しで覚束ない俺に初めこそチラホラと助言してくれていた彼女の口数は時間が経つにつれてどんどんと減っていき……。

 中々上達しない俺に呆れているのかとも思ったが、そろそろペアを交換してみましょうという指示を受けた直後に意味を理解させられることになる。

 ――ダンッ! と床に何かの叩き付けられる音が響き渡った。

 それはミゾレとペアを組んだ相手が、彼女に勢いよく投げ飛ばされたが為の音で。

 したたかに打ち付けた背中の痛みに悶える相手と、相手を睨め付けながら顔を歪めるミゾレにその場の空気が凍り付いた。

「なっ……! 何をしているんですミゾレ隊員!」

 いち早く我に返った教官が声を荒げる。

「……初めに言いましたよね。『人とは踊れない』と」

 進言を無視したのはそちらだろうと暗に告げるため息混じりの返答。

 つまり、ステップが踏めないだとか歩調を合わせられないだとか、そんなことよりももっと根本的な問題で、人と接触した状態を保つのが難しく、相手に危害を加えずにいられないということだったのだ。

 ……教官とミゾレの平行線を辿るばかりだった応酬や無残に投げ飛ばされた男子たちの存在については割愛しよう。

 クラウフォルン校の生徒である以上、将来的に軍の重役に就くことが想定される。故に社交の場に呼ばれる可能性も高く、ダンスは必須とされる教養の一つに数えられている。

 このままレッスンから外れても構わない、という話には残念ながらならないので、最終的に彼女の相手を受け持つことになったのは、他より長く踊っていられた俺だった。

 勘弁して欲しい。

 だけど、我慢の限界を越えている彼女に、他の男子たち同様に投げ飛ばされた後だ。

 見上げたそこにいたのは、余裕なんて一欠片も伺えないしかめっ面で、理性を繋ぎ止めようと必死になって黒曜石の瞳を揺らす少女。

 ああ、と思った。

 ああ、彼女はひと昔前の自分と同じなのだと。

 生きるか死ぬかの世界に理不尽にも放り込まれて、手を血に染めた……染めざるを得なかった経験を持って、自分以外の者を拒絶することでしか身の守り方が分からなくなってしまった子供。

 そういう子供は一定の確率で存在する。

 おおよそは拾われた先の施設でカウンセリングを受けて傷を癒すのだけれど、彼女は傷を抱えたまま、折り合いを付けられないでいるのだろう。

 だったら、どうして彼女の振る舞いを責められようか。

 叩き付けられた床から起き上がる。

 警戒心に満ちた瞳を見詰め返し……。

 少し考えてから彼女ではなく教官に声を掛けた。

「すみません、一度落ち着く為に彼女と外に出てもいいでしょうか?」

 ミゾレが錯乱状態に陥る一歩手前だったことは言わずとも察していたようで、許可は簡単に下りた。

 レッスンを続ける皆を残し二人だけで教室を出る。

 落ち着いて話せる場所でと、いくらか歩いた先の裏手広場のベンチを陣取ることにした。


 裏手広場はあまり人が足を運ばない為か置かれている彫像の類いの汚れやくすみが目立ち、往来のある通りや利用頻度の高い広場と比べると寂れた印象を受ける。

 ――《金》を司り宝石を含んだ鉱物の類いが湯水の如く湧いて掘り起こされる《宝玉の庭》において、中枢区に近ければ近いだけ建物の装飾は華美となる為、寂れているくらいで丁度いいとも言えるが。

 黙ったまま、それでも素直に後ろに付いてきたミゾレを振り返る。

 薔薇の木と花を模した彫刻の側に置かれたベンチを指して座るよう勧めてみたが反応がなかったので俺だけ先に腰掛けた。

「用件は何」

 警戒を解かない相手に苦笑を返す。

「ダンスの前にさ。話をしない?」

「……話?」

「君のことを教えて欲しいとかまずは信頼関係を気付こうとか、そういうんじゃない。俺が投げ飛ばされずに済むにはどうしたらいいかって話」

 俺だって好きでペアを組もうと言っている訳ではないのだ。

 被虐的な趣味を持った覚えもなければ、責められない、仕方ないと甘んじるつもりもない。

「踊れるようになるまで、君が俺を知るといい」

 手を差し出す。

 まっすぐにこちらを見詰める彼女は何の反応も示さなかった。

 ただ立ち去るでもなく口を閉ざし続けている。

 根気強く待てば目を伏せて、首を横に振ると言った。

「必要ない」

 否定の言葉に反論を返そうとした。

 けれど、口を開いた俺が何かを言う前に差し出したままの手の平に指先を乗せられて、言葉の続きが耳に届く。

「時間をちょうだい」

 伏せられた目は乾いているのに泣きそうで。

 恐れるように、労わるように、伺うように、中指の先を軽く挟むような形で握られて、開いていた口を一度閉ざした。

「……時間だけでいい?」

「他はいらない」

「そう」

 出っ端を挫かれたような居心地の悪さに視線を指先に向ける。

 酷く弱々しい力はほんの僅かに身動いだだけでも振り解けてしまいそうで、だからこそ、こちらを動けなくさせる。

 例えるならば、目の前の彼女は長い雨に打たれて疲れ、それでも足を止めることは出来ないと進み続ける迷い猫だった。

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