ACT37「エクスとこころ」 



「……っ」

 


 忌避しながらも予測していたとはいえ、実際にそ目のあたりにしたエクスは言葉を失います。

 しかし同時にカメラへとその惨状を焼き付ける事で、本来自らのマスターが不慮の事故に巻き込まれたときの為、ASH全体に搭載されている人命救助プログラムのスキャンが働き、まだ僅かに彼女が助かる可能性が残されている事を知らせてきました。



「もう……感覚、ないんだ。駄目……よね」

「いいえ、まだ助かります」



 ――今すぐに救助を呼べば。

 どうにか被覆の残る右腕でプローラの手を取って励ましながらも、エクスにはその一言を続ける時間さえ惜しんでいます。システムが知らせてきた生存可能時間デッドラインはおよそ10分。それはこの旧市街地から最も近い病院に配置されている救命医療車アンビュランスが辿り着くまでに掛かる時間とほとんど同じでした。

 エクスはすぐに自らの座標を送って救護の依頼をする為、通信回線を開こうとします。

 しかし。



「どうして」



 何度試みても通信が病院へと届く事はなく、僅かな間の後エクスは呆然と呟いていました。

 ただでさえ再開発を半ば放棄されている旧市街地には、電波を発するためのアンテナの数はエリアにつき1本しか配されておらず、その1本はアパートメントの倒壊に巻き込まれて、今や完全にその機能を失っていたのです。

 


「誰か、病院へ助けを――」



 エクスは後ろへと振り返って叫びます。その声に幾人かは反応を返したものの、皆電波の入らない端末を取り出して首を傾げるばかりの群衆を見て、思わず天を仰ぎます。悠長にここが圏外になったいきさつを説明する猶予はなく、それ以前に生身の人間では、車で10分掛かる距離をそれよりも迅速に移動することなど出来る筈はありません。

 何もしない間にも時間はどんどん過ぎていきます。今やプローラが明日を迎える為に残された手段は、リミッターを解除したエクスが全速力で病院に向かう事のみとなっていました。それも復路に掛かる時間を考えれば、傷の走った細い綱を渡るようなもの。間に合う確証はどこにもありません。



「……プローラ、少しだけ我慢できますか」



 考えを巡らせている今も綱の傷は大きさを増しており、やがて千切れてしまいます。意を決したエクスは出来る限り穏やかな口調で呼び掛け、ゆっくりと結ぶ指を解こうとしました。




「ひと……に、しないで」



 緩むエクスの指の力を必死に追いかける様に、プローラはさらに強く、強く握り締めました。血液の流出と共に少しずつ喪われているはずの熱が、その瞬間だけ温度を取り戻した錯覚に、エクスは伸ばしかけた膝を止めてしまいます。



「すぐに戻ります。ですから、離してください」



 まるで小さな子に言い聞かせるような口調で懇願するエクスに、頑として離さないプローラ。

 ただでさえ弱り切った彼女がいくら懸命に込めようと、限界を取り払ったエクスの膂力りょりょくの1割にも満たない力で振りほどけるものです。

 しかし、それでもエクスが、彼女の方から手を離すように望むのは――

 


「どうして、聞き分けてくれないのですか――」


 

 震える声で呟くエクス。それは今わの時を以ってなぜか微笑むプローラに向けたものであり、そして理論的な判断を実行に移そうとしない自分に向けたものでもありました。

 刻々と近づく限界に救命プログラムがアラートを鳴らし始め、そんなエクスの堂々巡りの思考をさらに加速させていきます。

 自分が本当に生存を望んでいるのなら、今すぐに強引に払いのけ、走り出さなければ本当に間に合わなくなってしまう。

 たった数分ひとりにするだけで、彼女が生き延びる道を繋ぐことが出来る。

 しかしそのたった数分間、真っ暗な世界にひとり取り残されるプローラの不安を思うだけで、どうしてもその手を離す事が出来ません。

 それは同様にこころを得たが故に及ぶことができてしまった想像。引き裂かれるような痛みが、エクスの内側から湧き上がっていました。



「だって、せ……かく、また、ウィルに……えた」 

 


 そんな幾重もの迷妄を否定するようなプローラの言葉に、エクスのプロセスが急速に乗っ取られていきます。

 


『何年振りになるだろう』



 今までは掠れる声に途切れ途切れだったその名を叫ぶ前が、初めて完全な形を成しました。その声に再び弾かれたシステムの引き金が、彼女の望み通りエクスをウィルへと変えていきます。

 同時に救命プログラムが限界時刻を越えた事を告げる、停止した心電図のそれにも似た長い電子音を流しました。


 もう、間に合いません。



『再び君の口から私の名が出たことに』



 しかし薄れゆく意識の中で、エクスは安堵にも似た感情を検知して覚えていました。このまま完全に博士の遺志へと体を明け渡してしまえば、プローラは最愛の人の腕の中で最後の時を迎えることが出来るし、エクスは彼女の最後を記憶せずに済みます。

 それは誰もこれ以上不幸にならない、最も望まれる働きを遂行できるというASHとしての帰属意識がもたらした平穏。

 これでいい。エクスは繰り返し自分に言い聞かせます。

 そう。最早どうあっても変えられない結末の前には、

 それが


 最も



 論理的な




 判断。






※     ※     ※






『感謝を――』

「黙れ!」


 

 同時に命令を下された人工声帯が、枯れた喉から絞り出すようなノイズを交えます。



「私は私なんだ。博士じゃあ、ない」



 自分は決して博士のまやかしを届けに来たわけではない。

 たとえそれが、彼女の幸せな最期を奪ってしまうとしても。

 自分のこころにしたがって、彼女を助けたくてここに来たのだ。

 たとえそれが、叶わなかったとしても。

 

 まるで空間ごと張り裂きそうなエクスの叫びがシステムの戒めを踏み越え、博士の声を遮っていました。


 

「エク、ス……?」



 反射する光が濁り始めたプローラの瞳が、大きく見開かれます。




「すみません、私は――」


 

 上げかけた腰を戻したエクスは言葉を詰まらせ、代わりに結んだ指を胸元に収めるように彼女へと寄り添いました。フレームの剥き出しになった腕がその体をゆっくりと抱き起すと、まるで縋るものを求めるように、プローラもエクスの体に腕を回します。

 暖かな血の雫が肘を伝って、地面にいくつも赤い点を作っていきました。



「わたし、は」



 ――ここにいるのは自分だと知ってほしい、そんな利己的な理由だけで。

 こんな状態の貴方に、改めて博士が死んでいるここにいない事実を突き付けてしまった。


 エクスの回路には自らの行いを謝る文句はいくつも浮かんでいます。しかしその言葉が口から事はなく、代わりに両の眼から流れ落ちたものが、彼女の頬で血と混ざりあいました。 



「あや……るの、は、わ……しの、ほう」



 はたはたと落ちる作り物の涙が、あるいはエクスのこころをも伝えたのか、それは誰にもわかりません。

 しかしプローラは震える指先をゆっくりと伸ばし、濡れる頬をそっと拭いました。  



「どうして貴方が」



 ――謝るのですか。

 エクスは問い返しますが、プローラにはもう答える力は残っていません。赤みを失う唇から細い息づかいを繰り返しながら、光を映さなくなった瞳だけが、それでもエクスを一目見やろうと必死に動いていました。青白くなった肌からは、生気がどんどん失せていきます。

 いのちが、彼女から消えようとしていました。



「もう、いいんです」



 答えを得る事を諦めて瞳を閉じ、最後に望む言葉だけを添えるエクスに、プローラは体に走る痛みを忘れたかのように穏やかな笑みを浮かべます。



「最後にこうして、貴方といることが出来た。私も、すぐに」



 研究所にもどれば、ダウングレードの為の手筈はそのままになっているはず。

 感情を封じる事でただのASHに戻るのは、エクスとしての存在を捨てるという事。命を持たず、こころだけをもったロボットに与えられた、この世界から消える彼女の後を追うことができる唯一の手段。

 それだけがプローラを救えなかった事への引責であり、同時に彼女の死という大すぎる痛みから逃れられる幸福への道。

 エクスは両目を伏せようとします。しかしもう何も捉えられていない筈の視界を迷いなく向けてきたプローラに、瞼の動きが止まりました。



「あなたは、生きて。私を、忘れないで」



 それは尽きる命を一点に集めたような、意思と力の籠った声でした。

 エクスが閉じかけた目を限界まで見開き、その顔を見たプローラが小さく首を縦に振ります。

 そして、そのまま支えを失ったようにがくりと地面を向いて垂れ落ちた頭は、再び動く事はありませんでした。






 ※     ※     ※






 段々と弛緩していくプローラの体。それでもなお、その両腕はエクスの体をしっかりと掴んでいます。エクスは彼女の両目をそっと閉じてやると、両手でその頭をしっかりと胸元に収めました。

 瓦礫の向こうへ沈む夕暮れが、ふたりの姿を黒い影で覆っていきます。

 

 かたやぬくもりと魂を失ったからだ。

 かたやぬくもりを持たない金属のからだ。

 

 それはこころを確かめ合うように、生きた人同士がそうするように。

 ふたつの冷たい体は、いつまでも互いを抱き締めていました。

 

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