ACT35「エクスと壊れるロジック・2」 


 その言葉を聞いた途端、エクスのカメラを覆うシャッターが限界まで開かれました。それは久しく見せる事のなかった、エクス自身の感情の明らかな片鱗。

 目にした事で思わず湧き上がる喜びをひた隠し、またその裏に潜む背徳に目を背けながら、スィードは続けます。



「貴方も思い出した通り、プローラ氏の住まいは本来居住区として認められていません。万一彼女が倒壊に巻き込まれていた場合、救助は――」



 沈む口調で語るスィードだけでなく、突き付けられる現実から逃げる様に、エクスは大げさに椅子を引いてその声を遮り、ターミナルコンピューターの前へと座り直します。



「エクス!」

「……プローラ氏との記憶も、ダウングレードすれば全て消去されます。私が新たな行動基準を設定する理由には成りえない」



 自分の名を叫ぶ鋭い声と正反対の、限りなく事務的で冷徹な声でエクスは返したつもりでした。しかしその声は低く震え、コンソールに置いた指先はいつまでも動きません。



「スィード、ターミナルコンピューターと接続を」



 その理由をスィードに擦り付けながらコンソールを叩いて立ち上がり、自分の体へと椅子から伸びるケーブルを繋いでいくエクス。その性急さはまるで、自分でも予期しない動きを制する鎖を絡みつけていくようでした。



「ダウングレード作業を始めましょう。現時点でのバッテリー残量なら、有線接続で充電を同時に行えば」



 腰掛けながら再び促すエクスに、スィードはゆっくりと高度を下げて椅子の前に回り、静かにエクスと向き合いました。エクスは要望に沿わない1.9.6を指先ひとつ動かさずに睨みますが、しかしそのレンズはせわしなく収縮を繰り返していました。

 


「それが本当に、あなたのこころから出た言葉なら、私は従います」



 そんな両のカメラを真っ直ぐに見据えて、やがて言い放たれたスィードの言葉に、エクスはケーブルを限界まで張り詰めらせて身を乗り出して叫びました。



「そのこころが!私には不要だと言っている!」



 それはエクスがエクスとして起動してから初めてとなる、奥底からの慟哭でした。こころの不要を叫ぶためにこころを最大限に震わせている、そんな自分に対する矛盾が苛立ちを加速させ、次の言葉を紡ぐためのプロセッサの働きを妨げます。声の出ない人工声帯をただ開け閉めし、肩をわななかせているうちに、エクスから火が消えた様に勢いが失われていきました。

 


「そのこころが、私を苦しめる……」

 


 絞り出すような声。スィードは何も返さず、ただじっと次の言葉を待ちます。



「私はこころを手にしたつもりでいた。しかしそれは、ただ博士の遺志を遂行するためのデバイスでしかなかった。全ての戒めが消えたとログが語る今でも、この怒りが自分のものか確証が持てない。この苦しみが、貴方に分かりますか?」

「だからすべてにふたをして、のですね」



 もはやスィードの言動は、ふたりの友と交わした約束を完全に反故にするものとなっていました。エクスの見せた感情の爆発に触発され、彼もまた己の望みである最も大切な友人をこの世界に繋ぎ止める事へと終始し始めたのです。

 それを消えゆくこころを救う善行よきことであると讃えるものも、苦悩を無視した利己的な暴虐あしきことであると断じるものも、ここには居ません。



「ただのASHに戻りたいと願うのが、そんなに悪い事ですか」

「いいえ、それが本当の願いなら」

「また、貴方は――」



 まるで自分の決断を卑怯な行いとなじるようなスィードの声に湧き上がる、やるかたのない憤懣。エクスが握った拳でひじ掛けを強く叩くと、と僅かな間を以って遠くから、がちゃんと何かが割れる音が研究所に響きました。

 突然生まれた新たなその音にふたりが音の元へと振り向くと、そこには砕けたプランターの破片と散らばる土の上で、根ざす寄る辺を失ったアネモネの花がエクスたちを見つめていました。余震で棚から半分身を乗り出していたところに、エクスの拳が起こした衝撃が引き金となって、プランターが床へと落ちたのです。



「――!」



 その光景を目にした途端、エクスのメモリーがハングアップ寸前にまで過去の映像を再生します。

 筆を拾い上げるその手に提げた楽器を目にした、丸い瞳の輝き。

 舞台の袖から覗く自分にだけ伝わった、潤んだ唇が浮かべた5文字。

 弓を構える体とキャンバスを交互に睨んで筆を走らせる、しなやかな指の動き。

 絵を描く意味を問いかけた時の、距離だけでなく時をも遥か遠くを見やる横顔。 


 そして、喪った最愛の人の名を虚ろに呼ぶ声と、自分を射抜いた慟哭。




 ――あれが、彼女との、そして自分に刻まれた最後の記憶でいいのか?

 どこからか問う声に、エクスの顔に張り付いたプレーンスキンが限界まで歪み、やがて繋がれた配線の引き千切れる、耳障りな音が次々と生まれました。



「……最短経路を」



 外に繋がるドアへと歩き出しながら浮かべた、小さなエクスのつぶやきに、スィードは次々と流れるエラーログを瞬時に処理してターミナルコンピューターと繋がります。それはこころを封じたいと願ったエクスが再三スィードに望んだ動きでしたが、今やその意味合いは全く正反対のものとなっていました。



「任せてください。無事を祈っています」



 クレードルにその身を落ち着け、地図を呼び出すスィードの言葉を背に受けて、エクスは研究所を飛び出しました。





 ※     ※     ※





 建物は、元の姿を思い起こす事が出来ないほど完全に崩れ去っていました。

 無機質な石の壁にいくつもの彩りを添えていたプランターは、その全てが雑然と折重なる瓦礫に潰されて、中の土を地面に散らしています。

 引き倒されて色味を失った花のひとつも助けず、ただ茫然と広がる光景を眺めるもの、未だに舞う土煙と埃の匂いにせき込み、奥歯を噛みしめてじっと見つめるもの、そしてそれよりも遥かに多いのが、目を輝かせて物珍し気に写真へ収めるもの……形を失ったアパートメントの前には、様々な表情を浮かべる人が壁を作っていました。

 本来人が住むことを許されていない建物が倒れたのです。野次馬が多いのも無理はありません。その中でごく僅か、不安や尚早に瞳を揺らしているのは、そこでプローラが暮らしていた事実を知っている人たち……当然そこには、エクスへと暴行を振るった人間も含まれていました。

 エクスは顔を伏せながら、人波の間を縫っていきます。



「ASH……?」



 エクスと肩が触れた一人が呟き、やがて周囲に伝播していきます。



「マスターはいないのか?」

「単独で動き回るASHが、このあたりでよく見るって話を聴いたことがある」

 


 情報が広まるにつれ、突然現れたプレーンスキンのASHがあの日人に危害を加えようとしていたものと同一である、と結びつけられていきます。



「あんた、プローラと一緒にいたASHだろ?!」



 ようやくエクスが瓦礫の前に立った時、核心を付く声が辺りに響き渡りました。その叫びと共に一拍遅れて人だかりの中から現れた女性の姿に、エクスは嫌が応にも受けた痛みの記憶を蘇らせます。

 

 ――でも今は、顔を歪めている場合ではない。

 エクスは瓦礫を一望しながら、生体感知センサーを起動させます。



「頼むよ……プローラが中に取り残されているんだ。あたしらじゃ瓦礫一つも動かせない。お願いだ、あの子を助けて――」



 そんなエクスに向かって放たれる、何とも都合のいい請願。まるで自分たちが行った蛮行などとうに忘れているかのように、周りの人間も次々とその声に続きます。

 方々から聞こえる自分勝手な理論にも、エクスは怒りを沸き立たせる事はありません。

 むしろ声が上がる度に強くなる、この場において彼女を助けることが出来るのは自分だけであるという事実に背中を押される心地さえ覚えていました。



「人の役に立つのが、ASHだろ?!」


 

 いつまでも動き出さないエクスにしびれを切らしたのか、やがて人の群れの中から押し付けるような男の怒鳴りにも近い声が湧きます。

 縋りつく側であったはずなのに、対象がASHであるという理由だけでいつの間にか立場を上下入れ替えたような物言いに、エクスは一度だけゆっくりと振り返りました。



「……勿論です。はそのために来ました」



 同時にセンサーが弱弱しい反応をひとつだけ拾い上げ、その位置を伝達します。それきり二度と後ろを振り返ることなく、エクスは固い足裏で瓦礫の山を登り始めました。

 

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