ACT32「エクスとこころへの別れ・1」
それから、暫くの時間が経ちました。街からは新年を迎えた浮ついた空気がすっかりと消え、普段の落ち着きを取り戻しています。
しかしそれも、ずっと研究所にこもってターミナルコンピューターと向き合っているエクスには、何の関係もない事でした。
全ての制限や権限から解き放たれた身で、充電が切れるまで博士の組んだプログラムを解析し、バッテリーの限界を迎えると同期のシステムを殺した椅子で6時間眠り、またコンソールを叩く毎日。本人にとっては希望通りに、そして本人以外にとっての願いもむなしく、ダウングレードの準備は着々と進んでいきます。
「テストランを」
「……互換性、動作共に問題ありません」
プロセスの進行に必要な最低限の言葉だけを口に浮かべ、ただ黙々と自分のこころに対する葬儀の算段を進めるエクスの傍らに立ち、スィードは黙って分析の補助を担っていました。
「……本当に、いいのですか?」
恙無く動作するという答えを受け、休むことなく別の部分に手を付けるエクスに向かって、スィードは何度目かの質問を投げかけます。
エクスをただのASHに戻すための仕組みが徐々に形になっていくたび、いつか答えが変わることを祈りながら繰り返した問い。しかし返ってきたのはやはり、今までと同じ沈黙でした。
エクスは手を止めたり、スィードを見返したりといった迷う素振りを微塵も見せず、かといって目標に近づいた喜びも伺わせることはありません。
文字通り何も浮かべていないその横顔をしばらく眺め、やがて諦めたように割り当てられた分担に手を付け始めるスィード。博士の本懐が遂げられ、スィードもまた全ての戒めから解放された今、やろうと思えば無理やりにでもエクスの行いを妨げる事は可能です。
事実エクスが眠りに落ちた後、組み上げたプログラムを全て消去しようとしたこともありました。
「おう。居るかー?」
その度に自制を働かせ踏みとどまっていたものの、いつまでその誘惑に耐えることが出来るか――。
スィードが人知れず暗澹たる気分を抱えていると、不意に無遠慮なノックの音が響き、開いたドアの向こうからトレムマンが姿を現しました。
「1週間ぶりですね」
「年明けからまぁ忙しくてよ……やーっと時間が空いたわ」
幸いにも、予期していなかった来訪に後ろ向きな気持ちを寸断されたスィードが、安堵交じりにトレムマンへと歓待の声を掛けます。そんな彼ににっと笑い掛けながら、トレムマンは研究所の隅に置かれた台車へと手を掛けました。
「悪いな。長いこと置きっぱなしにしちまってよ」
「構いませんよ。特段迷惑になる事はありませんでしたので」
そう言ってくれると助かる。トレムマンは返しながら、ちらりと横目でターミナルコンピューターの方を伺います。
そこにはまるで自分が来たことに気が付いていないかのように――実際そんな事はあり得ない距離ですが――、黙々とコンソールを叩き続けるエクスの横顔がありました。
「進捗としては、7割と言ったところです」
そんなトレムマンへぽそりと
「迷う様子も見られません。やはり、エクスは――」
「近くにいりゃ不安も募るわな……でもよ」
トレムマンはスィードを掌で軽く触れ、研究所の隅へと目をやります。
そこには長い間開かれていないにもかかわらず埃のひとつ積もっていない、ふたつのヴァイオリンケースがありました。
「まだ、そうと決まった訳でもなさそうだぜ」
※ ※ ※
時は遡り、1週間前――
「何を、言ってるんだい……?」
研究所に戻るなりエクスが口にした、自身のこころとの決別。信じがたい言葉を耳にしたといった顔で、テンデットが呆然と呟きます。
「今申しあげた通りです。博士の目的を達した今、その為の手段として搭載されたシステムはASHにとって不要、と判断しました」
そんな彼に取り付く島もない、まるで自分の本分を思い出したかのような事務的な口調で告げるエクス。決然とした意志を思わせるその声に、テンデットは助け舟を求めてトレムマンを見やりました。
彼ならば『何を馬鹿な事を』と空気ごと一蹴してくれる――。
ちらりと伺うテンデットの横眼には、確かにそんな希望と期待が込められていました。しかしトレムマンは口の端に加えた煙草に火をつけて、ただ黙り込んだまま。
しばらく流れていた静けさを所在なく埋めていたローターの音が、僅かに高くなります。思惑が外れて目を伏せるトレムマンと、未だ口を開かないトレムマンに代わって、今度はスィードがエクスの前に立ちました。
「エクス。こころを失うという事は、私達との記憶が単なる記録としてしか残らず、意思を表出する手段も失うという事ですよ……?」
「承知しています。それでも私にとっては」
改めて望む事の意味を問い直すスィードへ、エクスは直ぐに言葉を被せます。
しかしそこでほんの一瞬だけ、言葉を切りました。
「――不要、と判断したのです。ただ社会に貢献するオールマイティ、ソーシャルワーキング、ヘルプヒューマノイドに戻ることが、私という存在を最も有用に活用できる」
それから一気に紡がれたエクスの決意。誰の横槍も差し挟む隙が見当たらない程早いその口調は、未だ渦巻く迷いを無理矢理に置き去りにする、いわば自分への強制が込められていました。
後に戻れない決断の崖へとひた走っていくエクスに、スィードとテンデットが口を合わせて止めようとします。
「「エクス――」」
「やめろ」
それを制したのは、トレムマンが再び放った鋭い一言でした。感情を押し殺した低い声に口を紡ぐふたりを横目に、煙草を灰皿に押し付けてエクスの前へと正対します。
「……本当にそれでいいんだな」
非難も同情もなく、ただじっとじっと見やるその瞳に射抜かれて黙り込むエクス。返答を待つというにはいささか短い時間を以って、トレムマンはふん、と一度鼻を鳴らして踵を返しました。
「帰るぞ」
「ちょ、ちょっと……!」
「いいから、荷物持ってこいや」
言うが早いか、トレムマンはテンデットの腕を取ると、空いている左手でスィードをむんずと掴みました。
「……道が分からねえ。そこまで送ってくれ。スィード」
諾否を待つ事も無くふたりを引っ張り、トレムマンは未練を感じさせない足取りですたすたと出口へと向かいます。
両手の塞がった彼が後ろ足でドアを閉めるまでの間、結局一度もエクスと目を合わせる事はありませんでした。
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