ACT25「エクスと暖かなブランケット」
テンデットが引いていたキャリーケースよりも数倍大きな音を立てながら、台車に4つ据え付けられたローラーが石畳を削っていきます。間に大人2人の荒い息遣いを交えて夜の静寂を打ち払っていきます。時折台車に被せたブランケットが伝わる震動にずり落ちそうになるのを直してやる以外は一度も止まることなく、やがてぽつぽつと灯る街灯の先に研究所が見えてきたタイミングで、トレムマンの鼻先へと雨粒が落ちてきました。
「やべぇぞ、降って来た!」
「わかっ……てるって……」
捲った袖口から覗く濃い腕毛の下に血管を浮かび上がらせ、トレムマンは叫びます。しかし元々運動の得意でないテンデットはとうに体力の限界を迎えており、さらに上がったペースに時折足が空転しています。トレムマンと比べて半分の太さもない腕は台車を押すというより、必死にしがみ付いているだけといった方が正しい様子でした。
「ちょっと……こ、こけるって……」
「気合い入れろよ!ったく、こんな事なら飲むんじゃなかったぜ……」
緩い下り坂を右へ左へとふらつきながら、台車がどうにかドアの庇に収まります。その途端堰を切った様に振り始めた大雨が、ローラーの回る音と入れ替わりにノイズにも似た絶え間ない轟音で夜を満たし始めました。
「っぶねぇ……おい、大丈夫か?」
片足で台車のストッパーを掛けながら額に浮かぶ雨混じりの汗を拭い、トレムマンが声を掛けますが、足を止めるなりその場にへたり込んでしまったテンデットは返事すら出来ない様子で、僅かに首を振るだけで精一杯です。そんな彼を横目に軽くため息を吐くと、トレムマンは研究所のノブに手を掛けました。
「やっぱ開いてねえな……中の灯りも点いてねえ。お前鍵持ってんのか?」
再び横に振られるテンデットの首を見て、トレムマンは困った様子で頬を掻きます。台車の上に掛けたブランケットを捲って横たわるエクスの体を探りますが、彼の知見では鍵に当たるモノを見つけることが出来ませんでした。
エクスへとブランケットを掛け直したトレムマンが、自分が濡れる事を厭わずに裏手に回ったり、空いている窓がないかを確かめている間に、ようやく呼吸が落ち着きを取り戻し始めたテンデットが何かに気付いて、身をさらに屈めて台車の下からエントランスの端を覗き込みます。座り込んで低くなった彼の視界だからこそ、台車の死角に隠れた黒い塊を捉えることが出来たのでした。
「トレムマンさん、あれ……」
庇が雨をギリギリ遮る場所を指さすテンデット。トレムマンは眉根を寄せてその方向を見やり、そこで初めて気が付いたようにあっと声を上げました。
「黒いのじゃねえか……こいつも壊れっちまってんのか?」
「ちょっと、持ってきてもらっていい……?まだ足が上手く動かない」
「ったく……ちったあ運動したらどうよ?」
ぶつくさ言いながらスィードの遠隔ユニットを拾い上げ、軽く汚れを拭いながら手渡すトレムマン。受け取ったトレムマンがひっくり返し、カメラの下でゆったりとしたリズムで赤く点滅を繰り返す光を指さします。
「バッテリー低下による
「よくわかんねえけど……壊れてる訳じゃないのか」
呟いて幾分か眉間の皺を和らげるトレムマンに軽く笑みを返しながら、テンデットは頷きます。
「うん。彼を起こす事が出来れば、もしかしたら鍵も――」
「スィード、さん」
突如割り込んだ、スピーカーから漏れるくぐもった声に、2人は目を丸くして遠隔ユニットへと目を向けます。
「びっくりした……音声認識か」
「私を、ドアの前へ……出来る限り、急いでください」
普段は礼儀正しい態度を崩さないスィードが、挨拶も抜きに用件だけを伝えた事に背中を押され、テンデットがよろよろと立ち上がってドアの前に向かいます。スィードのカメラをドアへと向けると、一瞬だけ灯る光の色が緑に変わり、それと連動するようにドアからかちゃんと音が鳴りました。いち早くトレムマンがドアを開け放つと、中の灯りが一斉に部屋を照らし出しました。
「っし、これで運び込めるな」
小さく顎を引きながら台車のストッパーを外し、バーに手を掛けながら意気込むトレムマンに、テンデットも立ち上がりながら頷きを返しました。
「うん。あとは君の充電もしなきゃだね」
スィードをエクスの隣にそっと寝かせ、テンデットが間隔の戻り始めた両手でバーを握ります。再び車輪が音を立て始める直前に、スィードのスピーカーからはもう一度だけ零れた、途切れ途切れの小さな声が空気を揺らします。
「クレード……は接続……ない…でく…」
「え?」
抑揚を抑えながらも絞り出したように聞こえるその声に、聞き取りきれなかったテンデットは慌てて訊ね返し耳を近付けましたが、その言葉最後にスィードのバッテリーは完全に切れ、赤く灯っていた光も消えてしまいました。
「何ボッとしてんだ?とっとと運び込むぞ」
余りに小さなその声量はテンデットのすぐ隣にすら届かなかったのでしょう。バーを握ったままのトレムマンが怪訝な顔を浮かべながら急かしました。
「あ、ああ……ごめん」
――あれだけ切羽詰まった状況の中、彼は何を伝えたかったのだろう?
まるで意地の悪い虫食い問題のようなスィードの言葉を反芻しながら、テンデットは体に残る力を振り絞って台車を研究所の中へと押し始めました。
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