ACT24「エクスと冷たい路地の土」

 汚れて濁りきった海と荒れ果てた大地を跨いで、ドームとドームを繋ぐ連絡船シャトル。その日の最後の便から降り立ったテンデットは、大きなキャリーケースから手を離して大きく伸びをして欠伸をひとつ。目じりに浮かぶ涙にその輪郭がぼやけていても、年末に出立した時と変わらない暖かな街の灯りが彼の胸へ落ち着きと安心を運んできます。

 

 ――これで人より遅い正月休みだ。何をしようかな……

 じわりと染み出る達成感混じりの疲れを両肩に覚えながら、テンデットは自分の家へと歩き始めます。道のりを考えれば街中を走る無人運転車を捕まえてもいい距離ですが、仕事で巡った家や会社の全てで、仕事上がりに年末のご馳走をたらふく頂いていた事が、ドームを覆い始める厚い雲にもかかわらず彼を適度な運動へと駆り立てていました。

 そうして歩き続け、シャトルの中を少し過剰なほど温めていた暖房の熱気が体から引くころ、彼の懐に収まっている私用の端末が決まった間隔で2度、振動を伝えてきました。

 時間にうるさい弟には何時に帰れるか分からないからと夕食は遠慮する旨を伝えてある筈ですし、それ以外にこんな時間に連絡を取って来る人の候補が浮かびません。テンデットは小首を傾げながら歩みを止め、コートの内ポケットから取り出した液晶に目をやりました。



「スィード君……?」



 差出人の欄に記されていた、出来たばかりの友人の名前。思わず独り言ちるテンデットでしたが、彼の疑問は晴れないどころかますます深くなっていきます。なぜならそのメールには本文がなく、ただある地点にピンの打たれた一枚の地図が添付されているだけのものだったからです。すぐさま意味を問う趣旨の返信を出しましたが、5分待っても一向に返信がありません。

 暫くその意味を考えてから、テンデットは人差し指と親指で地図を拡大して、今自分がいる場所を表示させます。


 ――ここから20分くらい、か?

 文字通りな彼が、意味の無い悪戯をするとは思えません。

 返信をしないのではなく、出来ないのだとしたら。そこに自分が行かなければならない理由を書き加える余裕もない程、彼に――もしかしたら、もうひとりの友人にも――何かがあったのかもしれない。

 疑念の代わりにふつふつと湧き上がる胸騒ぎを覚えながら、テンデットはキャリーケースのローラーが立てるガラガラという音だけを引き連れて、人気のない小道へと入っていきました。






 ※     ※     ※





 

 ――この奥だ。

 自分の立てた予想よりも5分ほど遅れて、ピンの立てられた場所に辿り着いたテンデット。そこは清掃車も通る幅のない、ゴミの散乱する路地の入り口でした。

 街灯のひとつも立っていない暗い道に委縮する心をどうにか抑えつけながら、テンデットは端末のライトを地面に向けて慎重に歩き始めます。



 「うっ……わ!」



 自分が次に踏み出す地面を頼りなく照らす光の円。暫くは瓦礫や生ごみの欠片を照らすだけだったその淵に突然、片方靴の脱げた人の足が映りこみます。テンデットは心臓が一気に縮み上がる心地を覚え、大声で叫んでいました。

 キャリーケースも放り出して来た道を全力で引き返し、灯りの下で荒れた呼吸を整えるテンデット。忙しなく上下する方がどうにか落ち着きを取り戻し、彼は何かの間違いである事を祈りながら、震える指で再びスィードが示したポイントを確認します。

 しかし何度画面を更新し、また瞬きを繰り返しても、地図に打たれたピンは明らかにあの死体――らしきもの――を指していました。


 ――警察。

 反射的に浮かぶ単語に、テンデットは端末のライトを消して、代わりに電話機能を呼び出します。しかし耳に当てようと持ち上げた手が、酷く中途半端な位置で止まりました。

 ……単に死体を見つけただけならば、スィード君が直接警察へと通報した方が話が早い筈。帰って来る日付は伝えていたものの、わざわざ自分へと連絡を寄越す意味が繋がらない。


 ――だとしたら、あの死体を他の誰でもない、に意味があるということか……?

 その考えが正しいかはどうあれ、置いてきてしまったキャリーケースの中に自宅の鍵が入っています。どの道取りに戻らなければ家に帰ることも出来ません。テンデットは再び見間違いであったことに淡い期待を抱きながら、恐る恐る路地を戻ります。

 しかしそんな彼の願いも虚しく、放って置かれたスーツケースの傍で、人の足らしきものは先ほどと全く変わらない格好で投げ出されていました。



「うう……」



 未知のものに対する好奇心と探求心の塊のような性格をしたテンデットですが、さすがに人の亡骸まで対象とはいきません。情けない声を喉から絞り出しながら、手の震えが伝わり小刻みに揺れる光をゆっくりとその先へ向けていきます。 

 段々と映し出されていく所々破れたモノトーンのシャツにも、土に汚れた飾り気のない黒い短髪にも、蔓の曲がった太い黒ぶちの眼鏡にも、そして両腕が大事そうに抱えているプランターにも、彼は心当たりがありません。

 しかし左脇腹を下にして横向きに倒れている、その後頭部に見慣れた数字の列を見つけたテンデットは、ひとまず心に渦巻く恐怖と折り合いをつけることが出来ました。


 ――ヒトじゃない。ASHだ。

 見覚えのないプライベートスキン姿である事に変わりあはありませんが、震えの収まった彼は浮かび上がる数字の羅列を見つめながら、傍のスーツケースのジッパーに手を掛けます。

 自分の仕事柄、関わり合いのあるASHの個体識別番号は殆どで言える彼にとって、本来照合など不要な手間でしかありません。ですがそれでもラップトップコンピューターを取り出して数字を打ち込んだのは、三度みたび自分の知見が間違っていてほしいと、半ば祈りのような心地を覚えていたからです。

 そしてやはり、その祈りは届かず。

 一瞬にして自分のデータベースから検索を終えたコンピューターから、目の前に倒れている者がエクスであると無情に告げられ、テンデットは思わず口に手を当てて声にならない叫びを上げていました。

 震える瞳で改めて見る体のあちこちには、ひどく無遠慮に傷つけられた跡があちこちに見受けられ、彼が少なくとも数人の大人から暴行を受けた事を物語っていました。

 しばらく立ち尽くしていたテンデットでしたが、やがてショックに見開いていた目をすっと細めると、手袋を脱ぎ捨てて露わになった掌で髪の毛を掻き分けて、次いでシャツの裾から胸元へと手を当てていきます。

 

 ――損傷はひどいけど、僕なら治せないレベルじゃない。

 正月休みは後回しだ。意を決したテンデットはエクスを担ぎ上げようと両脇に腕を入れて力を籠め、暫く奮闘しましたが、いかんせん彼の細腕だけでは引きずる事はともかく、どうあっても研究所まで運ぶことは出来そうもありません。

 脱いだコートを躊躇ためらいなく地面へと敷き、その上へゆっくりとエクスの体を横たえた彼は、額に浮かぶ汗を拭きながら端末を取り出します。

 入力したままの警察への番号を消去し、代わりにアドレス帳からスィードに搭載されている通信端末の番号を呼び出しますが、やはり応答がありません。20コールを待って諦め、テンデットは改めて違う番号を呼び出し、耳へと当てました。こちらは4コール半を待った後に呼び出し音が途切れ、スピーカーから訊き慣れた、野暮ったい声が響いてきます。



「トレムマンさん?!」

「おーう。明けてしばらくだな。もう帰って来たのか?」

「うん。突然悪いけど、今出られる?!」

「何焦ってんだぁ?」



 お酒が入っているのか、若干呂律の回っていない口調に焦りを募らせながらテンデットは訊ねますが、電話の向こうからはなおも呑気な声が続きます。



「あぁ、そうだ、今度はお前の弟と3重奏トリオやってみたいって、エクスの奴が楽譜を――」

「そのエクスが大変なんだって!」



 思わず叫ぶテンデットの、その真に迫る声色にやっとただ事ではないと悟ったトレムマンは、低い声を更に1段下げました。



「……なんだと?」

「楽器運搬用の台車あるだろ?今から僕がいる位置送るから、持ってこれる?」



 テンデットは空いている左手でラップトップコンピューターを操作し、トレムマンの店に備え付けられている端末へと位置情報を送ります。



「一体何があった」



 その一瞬の間に酔いが覚めたのか、トレムマンの声にはっきりとした輪郭が戻ります。その迫力に圧されて一瞬口ごもり、上手い説明の仕方を考えるテンデットでしたが、その間も矢継ぎ早に急かしてくる彼の催促に負け、ありのままを口にしました。



「誰かにボコられたみたいで、損傷がひどい……」

「あぁ?!今どこにいる?!つうか誰がやったんだ!」



 テンデットの予想通り、トレムマンは一気に気色ばみます。思わずスピーカーから耳を離し、怒鳴り声が収まって荒い息だけが聞こえるようになったのを確認してから、テンデットは再び端末を耳に当てました。



「落ち着いて……犯人はまだわからない。とにかく彼の家に運ばないと」



 傷つけられた友人を前にしても冷静なテンデットの態度が気に入らないのか、トレムマンは苛立ち交じりに舌打ちをひとつ鳴らしてから、やっとのことで冷静さを取り戻します。



「車呼んだ方が早くねえか?……ってえか、いつも一緒にいるあの黒いのはどうした。近くに居ねえのか」

「スィード君のほうも訳ありみたいなんだ。さっきから連絡してるけどリアクションがない」

「何が起きてるってんだ」

「僕にも見当がつかない……でも急がないと」



 そこで一度言葉を切ったテンデットが睨む空は、人工の雲がいよいよ星空を全て覆い隠しており、埃の匂いが強さを増していました。横目でラップトップコンピューターに表示させた天候に目をやり、その顔をさらに歪ませます。



「人工皮膚が破れてる。降られたらマズいよ……あと30分しかない」

「15分で行くから待ってろ!」



 テンデットの返しを待たずに通話が切られ、それきりスピーカーからビープ音だけが鳴り続けます。無機質に繰り返されるその音がテンデットの胸へと心細さを募らせます。再び空を仰いで雨の予告が1分でも遅れる事と、トレムマンが1分でも早くここに辿り着く事を願いながら、彼は端末を懐へと戻しました。

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