ACT22「エクスと超えた谷の先」
長い間ドームに雪を降らせていた厚い雲はすっかり取り払われ、研究所の窓からは朝の澄んだ空気に透かされて何処までも深い青を讃えた空が広がっています。
僅かに宙を舞う埃に朝日がちらちらと反射する研究所の中で、エクスはもう30分も真新しい自分を姿見に映していました。
およそ活動的には見えない、生白く少し荒れを演出する肌。右耳の裏に刻まれた個体識別番号をようやく隠す程度に伸びた、飾り気のない髪形。
太っても痩せていもいない、際立って美しくも醜くもない十人並みの外見ですが、自分という属性を隠し、また人並みに
真っ直ぐ正対して伸びた前髪を指で触り、窓の方を向いて横顔と耳を眺め、更に半回転し首だけを鏡に向けて背中を確認――しようとして軋んだ皮膚に慌てて動きを止める。何度繰り返してもその度にエクスのこころは喜びに満たされていきます。
「いかがですか」
その姿を遠隔ユニットでじっと見守っていたスィードが、対照的に沈みゆくこころを声色に表さず静かに訊ねると、エクスはそこで初めて自分の挙動を眺めていた存在に気付いたかのように、慌てて鏡から視線を外しました。頬から耳にかけて僅かに走る赤色も、パーソナルスキンが問題なく定着し、その機能を十全に発揮している事を表しています。
「例えば、特に特徴もない、見飽きた外見で不満だとか――」
「とんでもない!私のライブラリーには存在しませんよ。何の不満もありません」
「……そうですか」
浮き足立った今のエクスには、探るようなその問いかけの裏に隠された意図も推し量ることは出来ませんでした。そんな反応に安堵と少しの落胆を覚えながら、スィードはターミナルコンピューターの裏手へと飛んでいきます。
そこには今は誰も使う者のいなくなった、古ぼけた机が埃をかぶっていました。端に据え付けられたスタンドライトの上でスィードは停止し、ホバリングを始めます。その下にはエクスの片手で少し余る大きさの楕円を象ったケースが無造作に置かれていました。ローターから吹くダウンウォッシュが積もった埃を吹き飛ばして、だんだんとケース本来の色である艶を消した黒が顔を覗かせていきます。
「これは……」
舞い上がる埃が目に入らないよう、片手が仰ぎながら後ろを着いてきたエクスがケースを手に取り、真ん中にあるボタンを押してみます。すると力の弱いばね仕掛けが動いてぱかりとその蓋が開き、その中にはこれまた何の装飾もない、シンプルな黒の眼鏡が収められていました。
プラスチックのフレームととガラスのレンズ、そして少々の金属で構成された物であるとだけ確認し、エクスは
「良くお似合いですよ」
不思議そうにあたりを見回すエクスへと賞賛を一つ浴びせ、再びどこかへと飛び立つスィード。後を追おうと歩き出すエクスが目測を誤って派手によろけました。
「……可視光が屈折されているのですね」
机に手を吐いたエクスは自身のカメラを調整しながら、視線だけでスィードが行く先を追いかけました。歪な視界をようやく元に戻すころ、スィードは研究所の最奥にあるドアの手前で止まりました。
「博士の私室です」
「入った事はありませんね……何故今更?」
きょとんと首を傾げるエクスに、スィードが苦笑を織り交ぜて答えます。
「その恰好で外を歩いては、彼女の家に辿り着く前に捕まってしまいますよ」
そう言われて初めて自分が一糸まとわぬいでたちであることに気付いて、エクスの顔が先ほどとは比べ物にならないほど赤みを増していきます。脚の付け根にぶら下がる『自分には全く不要なもの』を両手で覆い隠す彼を尻目に、鍵穴の上にカメラのピントを合わせるスィード。すっかり聞き慣れた軽い電子音と共に、かちりとロックの外れる音が鳴りました。
【Last sequence 1】
【Disconnect prepared】
「スィード、早く中へ……衣服が収められているのでしょう?」
それきり動きを止めてしまったスィード。1分と経たないうちに感じる羞恥が限界を超え、エクスがたまらず急かします。
「スィード?」
「え、ええ……失礼しました。中へどうぞ」
「……?」
慌てた拍子に宙舞うユニットの安定性を失って左右に揺れながらも、どこか茫洋とした様子で受け答えるスィード。その理由が分からないまま、エクスは部屋へと入っていきました。
※ ※ ※
真冬の短い陽が中天を通り過ぎる頃、エクスは羽織るコートのフードを揺らしながら、路地を走っていました。
――服装を迷い過ぎた。
西に行くたびに除雪がおざなりになっていく道に幾度か足を取られながら、エクスは内蔵されている時計が指す時刻を確認し、さらにその足を速めます。その急ぎようたるや、1月の身を切るような寒風に関わらず、纏ったモノトーンのシャツの色味が変わる程大汗をかいていた事でしょう。
――もっとも発汗機能まで搭載していたならば、の話ですが――
ともあれ疲労知らずの体で駆け抜けた結果、エクスは待ち合わせの時間ぴったりにプローラのアパートメントの前に立つことが出来ました。この時ばかりは人と異なるつくりに感謝しながら、彼女の姿を探します。
しかしアパートメントを一周しても、彼女の姿は見当たりません。以前の事を思い出したエクスが集音マイクの感度を上げても、彼女のアトリエからは何かを動かす物音以外を拾うことは出来ませんでした。
「ごめん!もう少し待ってくれる?」
ほっと胸をなでおろしたエクスが自身の来訪を告げる前に、アトリエからプローラの声が響いてきました。
「何かありましたか?」
「中々照明の角度が決まらなくてさ……せっかくなら一番美しく見て欲しいじゃない?」
――初めて楽器に触れた時以上の感動を運べるようにさ。
そう続ける彼女の声に、エクスは大きなプラスの欠片を覚えるとともに、例え日が暮れようとも待つ覚悟を固めました。
「ありがとうございます」
「ごめんね……それと、迷惑ついでにプランターを外に戻してほしいんだけど」
申し訳なさそうに付け加えるプローラの声に、エクスは扉の閉じたテナントへ目を向けます。そこには雪の降り始めた日と同様、窮屈そうに並ぶ花々の鉢が並んでいました。前にも増してヒビの走った硝子から僅か差し込む光に向かって、開いた花を必死に向けています。
「お安い御用ですよ」
「本当?助かるよー!鍵は開いてるから」
まるで両の手を合わせる姿が伝わってくるような感謝の言葉と、一拍の間を持たずに共に再び鳴り始めた慌ただしい物音。これ以上待たせまいと彼女なりに必死に急いでくれている事にまた感謝を覚えながら、エクスはテナントのドアに手を掛け、ふと思い出したように再びアトリエの方を向きました。
「そうだ、今日は私もサプライズを用意していますよ」
「サプライズ……?」
「ええ、楽しみにしていてください」
「……急がせるのが上手いのね」
笑いを含めた冗談を返してくるプローラ。エクスはガラスに映る自分を見ながら、全力疾走に乱れた服をもう一度きちんと直します。
それからうす暗いテナントの奥えと進み、諦めたように萎れて下を向くアネモネから順に陽の光の下へ出してやり、全ての花を初めてここに来た時と寸分たがわぬ配置に戻し終えた頃、ようやくプローラから支度を終えた事を知らせる声が掛かりました。
※ ※ ※
プローラの待つアトリエへ近づくにつれて、耐えることなく湧き上がるざわめきが強くなっていきます。
何故か逃げ出したくなる心地を必死に抑えてドアの前に立つころには、エクスは知らず両手を固く握っていました。
――この扉の向こうに、彼女がいる。彼女は初めて、変わった自分を見る。そう意識するだけで、エクスは一向に扉を叩く事が出来なくなってしまいました。何度シャツの襟を正しても覚悟は決まりません。そのうち朝にはこれ以上ない充足を運んできた自分の外見にも、一抹の不安を覚え初めてしまいます。
――彼女により近い外見になれば、より近くで寄り添うことが出来る。今の自分は、
しかし日の光を厭うような白い肌を、眉に掛かる前髪にやや不釣り合いな短い後ろ髪を、衣装の施されていないこの眼鏡を、彼女はどう評価するだろう。
いや、それ以前にもっと筋肉が主張した体つきの方が好みだろうか、あるいはもっと恰幅の良い方が――
ASHが楽器を構えるというひどく不釣り合いだった格好を褒めてくれた、こころを手にして動き出してから一番鮮烈に残っているあの瞬間を思い返せば、彼女が単なる外見で今までの評価を覆すような人間でない事は明白です。
ですが、何度反芻していても、エクスのこころから不安は出ていきませんでした。
「あれ?もしかして鍵掛かってる?今行くね」
「!!」
突然、自分の抱く緊張とは正反対の呑気な声がドアの向こうから響き、エクスの体が文字通り跳ね上がります。
次いで近づいてくるぱたぱたというスリッパの足音が、まるで刻限を告げるカウントダウンのように感じ、急速に処理の限界を超えた回路はこれ以上何も考えられなくなってしまいました。
結局なんの覚悟も出来ないまま
「なんだ、開いているじゃない」
「こ、こんにちは」
「なにそれ」
どうにか戻った思考で、ひどく他人行儀な挨拶を震わせて返すエクス。プローラがたまらず目を伏せて吹き出します。
「い、いや、あの」
急速に湧き上がる羞恥にここから逃げ出したくなるこころを必死に抑え、しどろもどろに口を動かすエクスを見ながら、プローラは几帳面に履き変えた外履きのつま先をとんとんと鳴らします。
「女性をあまり待たせちゃ――」
まるで一本芯を通されたようにピンと背筋を伸ばしたままのエクスへ目線を合わせようと、顔を上げながら口を尖らせるプローラでしたが、その茶化した明るい声は、エクスの顔を視界に捉えた途端、まるでぶつりと音が聞こえるかのように途切れました。
限界まで目を見開いて固まる彼女の顔を見るなり、エクスのこころから緊張と期待が消え、代わりに落胆が満ちていきます。
……少なくとも、変わった自分の姿を好意的に受け入れてはいない。
なるべく否定してきたシミュレーションが現実のものとなってしまったエクスに、早くも後悔の念が押し寄せます。
次の一言をただ待つ事しか出来ないその沈黙は、実際に過ぎる時間の何倍も長い苦痛を沈んだそのこころへと運んできます。そんな凍り付いたかのように長い一瞬の末にたった一言、プローラの震える唇から空気の振動が零れました。
「ウィル……?」
感度を上げたままでなければ届かなかったかもしれないほど――あるいは、その方が幸せだったのかもしれません――掠れきった、隙間風にも消え入りそうな呟きに、エクスの体は突然動かなくなりました。まるで自分のものではなくなってしまったように、意識が遠くに引き剥がされていきます。
【Last sequence 2】
【Sound program ready】
『何年振りになるだろう。再び君の口から私の名が出たことに、先ずは感謝を――』
それは更なる残酷さを伴った現実を次々とエクスに突き付ける、その始まりに過ぎませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます