ACT20「エクスと絵描きのプローラ・7」

「それじゃあ、また来るよ」

「うん、ありがとうね。心配してくれて」



 再びアトリエへと戻っていった女性の一言とプローラのお礼に続いて、荷物をまとめているらしきがさがさという音が聞こえてきます。

 アパートメントの1ブロック先にある細い路地裏の暗がりに隠れて、そのやり取りを聴いていたエクス。ふたりの会談が終わりに近づいている事を感じて、最大まで上げていた集音マイクの感度を元に戻していきます。

 逃げ足の早さが功を奏したのか、幸いに気付かれた様子はありません。安堵したエクスの長く吐き出す息が、だんだんと粒の大きさと勢いを増してきた雪の舞う鈍色の空に向かって白くたなびいていきました。



 ――あとはタイミングを見計らいこの角から出て、女性と行き違うようにプローラさんのアパートに入るだけ。 


 

 念の為更に2分ほど待ってやっと影から身を出し、エクスはアパートメントへと早足で近づいていきます。ドアを潜る刹那、エクスは改めてプローラへ声を掛けようかとも考えましたが、まだ近くに女性が歩いている可能性を鑑みて、結局無言で中へと入っていきました。

 





「あの子に何の用があるってんだい……」





 その後姿が完全に中へと消えた後、アパートメントの右にある物陰から生まれた呟きは、受け取る者がいないまま雪空へと消えていきます。

 もしエクスが一瞬でも立ち止まって、もう一度辺りを確認していたのなら、その声の主に気付くことが出来たかもしれません。

 帰ったふりをして隠れて様子を伺っていた女性は、やがて訝しむようにふんと鼻を鳴らしたのち、乱暴な足取りで広場へと歩いていきました。





 ※      ※       ※





「遅れて申し訳――」



 アトリエに続くドアを開けながら、開口一番エクスは遅れたことを謝ろうとしました。しかしここに来るまでの間に用意した適当な理由付けを口に出す前に、プローラの様子にエクスは言葉を止めてしまいます。

 消えたままの灯りのせいで薄暗がりが支配する部屋の中、掌に乗る程小さなプランターが並ぶ窓辺に、プローラは立っていました。入り口に背を向けているその姿はしかし、窓から望む雪景色に見惚みとれているという様子ではありません。エクスより一回り小さな上背を少し丸め、その両肩を時折震わせています。

 音のない空間にひとつだけ、長い間隔を持ってすん、すんと鳴る、すするような音。意味を成す言葉や表情がなくとも伝わってくるマイナスの欠片に、エクスは掛ける声を失ったまま、しばらく立ち尽くしていました。



「……エクス?」



 いったいどれくらいの時間が経ったのだろう――。エクスは内臓されている時計の数字を信じることが出来ませんでした。凍るような時間に終わりを告げたのは、突如ぴしりと鳴った家鳴り。それを合図としたように後ろに立つ存在に気が付いたプローラがゆっくりと振り返ます。



「やだ、ごめん。来ていたなら一声掛けてくれればいいのに」



 ――声は掛けたのですが。

 そうエクスが答える前に、プローラは何かをごまかすように早口で捲し立てました。無理に元気な張りを保とうとしてかえって歪んだその声と共に、両手で握っていたこげ茶色の板を窓辺に並ぶプランターの間に倒します。天井を向いた面にスタンドが取り付けられている事から、エクスはそれが写真立てであると気付きました。

 さっきまで交わしていた女性との会話と関係があるのだろうか。今の彼女に渦巻くマイナスの欠片フラグメントが、その写真を眺めている事に端を発しているならば、そこには誰が映っているのだろう。

 それを訊ねるか否か、エクスが口をもごつかせながら迷っていると、思い出したように部屋が明るさを取り戻しました。途端に普段の色彩を取り戻していくアトリエにエクスが泳いでいた目線を元に戻しても、そこにプローラの姿はありません。



「ごめんね、暗かったでしょ?」



 きょろきょろと辺りを見回すエクスの後ろから声が届きます。どうやら迷いに意識を囚われている間に、プローラが後ろに回って部屋の灯りを点けたようでした。



「遅れた事なら気にしないで?こっちも丁度お客さんが来ていたから」

「申し訳ありません。雪用の皮膚調節に手間が――」



 ひとまず改めての謝罪と共に振り向くエクス。しか彼女の頬に走る2本の筋を見つけ、その声は再び途中で途切れてしまいます。

 明るくなる前には気づかなかった、目の端から雫の流れた跡。エクスは自分の機能には搭載されていないその水の意味を、すぐに理解することが出来ませんでした。



「格好悪いところ見せちゃったな。雪の日は苦手で、さ」



 エクスがライブラリから情報を引っ張る、その僅かな間に勝手な察しを付けて、プローラは手の甲で目じりを擦りながら自嘲まじりの笑いを混ぜます。

 そんなことはない、そういう意味の沈黙ではないという意志を込めて、エクスはぶんぶんと首を振りました。言葉を添えればより明確に伝わったのでしょうが、検索した『涙を流す』という生理反応が持つ意味のあまりの多様さに、プロセッサーの処理能力を割き過ぎているため、口が回りませんでした。



「……なんでもないんだよ?」



 初めて目にした涙。そしてトレムマンやテンデットといった、深く関わり合ってきたどの男性よりも複雑な、女性のこころの片鱗。更にはプローラのこの一言です。それが強がりである事すらも見抜けずに、やがてとうとうエクスは処理能力の限界を迎えてしまいました。

 もっと時間を割いて――スィードの協力も得た上で――ゆっくりと思案することが出来れば、あるいはハングアップせずに反応を返すことが出来たかもしれません。しかし沈む彼女に即応してあげたいという強い欲求が、比肩する市販品もないエクスのプロセッサーにすらも限界を超えさせてしまいました。



「どうしたの?」



 文字通り一瞬、エクスを見て、今度はプローラが心配そうに訊ねます。その声には束の間憂いも忘れたように、大きな驚きと戸惑いが込められていました。

 無理もありません。フリーズからわずかな寸断を経てすぐに復帰したものの、その影響から表情を作るシステムが不調をきたしたエクスの顔は、途端に平静――というよりは無そのもの――に戻っていたのです。



「申し訳ありません……こんな時、どんな表情をすればいいのか、分からなくて」



 自分の顔が今どうなっているのかわからないエクスは、くやしさとさみしさが同居したような沈んだ声を朴訥ぼくとつとこぼします。



「……たしかに、みたいね」



 なおも変わらない表情とのアンバランスさと、意図せず並べた文言の選択によって、シュールな冗談のようになってしまったエクスの嘆きに、プローラは一瞬きょとんとした顔を浮かべた後、手厳しいとも取れる言葉を返します。

 しかし何のフォローもない文句とは裏腹に、その声色には僅かばかり元気と明るさ、そして笑いが戻っていました。



「ええ、考えを重ねる余りシステムが……?」



 その理由が未だ分からないエクスは、自身に起こった事を説明する途中で思わず語尾を上げてしまいます。相変わらず無表情のまま声だけで感情の表現をする、ある意味器用とも言えるエクスの所作に、プローラはとうとう小さく吹き出してしまいました。



「どうして、笑うのですか?」



 やっとシステムが復帰し、エクスの顔が疑念と少しばかりの安心にひきつります。そこで初めて自分の表情が長い間失われていたことに気付き、エクスは彼女の変化に納得するとともに、遅まきながら自分の顔を覆い隠したくなっていました。



「いや、ごめんごめん……でも、そうなっちゃうほど考えてくれた、って事だよね」



 ――ありがとうね。プローラはもう一度目尻を拭い、真っ直ぐにエクスを見つめて真摯にお礼を告げました。先程とはまた別の理由で、一瞬にしてハングアップしそうになる回路を抑え付けながら、エクスは首を振ります。



「いいえ、私は何もできなかった」

「ううん、それだけで充分よ。一緒に泣いてくれなんて、贅沢過ぎるもの」



 それきりぱん、と両手で頬を張り、いそいそとカンバスの前に腰掛けるプローラ。彼女にとって最後の一言は、精一杯自分を慮ってくれたエクスに対する、それ以上の尽力をやんわり遠慮する言葉にしか過ぎませんでした。

 エクスは何も返さず、画材を取り出す彼女をぼんやりと眺めながら、自分の頬に手を当てます。

 プレーンスキンのつるりとした手触りを感じながら、指先でカメラの端に触れると、そこには汚れが入った時など、必要に応じて必要な分だけ洗浄液でレンズを濡らす為の噴出孔がありました。しかしただのASHにとって頬を伝い落ちる程の量を流す事は無意味以外の何物でもなく、当然自分のマニュアルにもそんな機能は記載されていません。



 ――こんな時、ヒト同士ならば、同じ感情の記号シグネチャーを表すことで、寄り添うのか。



 頬に液体を流せるかどうか、そんな些細な違いに自分機械彼女ヒトの間に走る溝をたとえられたように思えて、エクスは静かに自分の不足を嘆きます。



「ん?どうしたの」

「いいえ、今楽器を出します」

 

 

 ――ならばもし自分も彼女と同じように涙を流せた感情の表出が出来たなら、よりこころを近付けられるのかもしれない。



 プローラが筆を走らせている間、じっとヴァイオリンを構えるエクス。しかしその思考は絶えず働き、自分に沸き上がった新たな新たな欲求に基づいて、自身の機能を更新する設計図を作り始めていました。

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