ACT18「エクスと絵描きのプローラ・5」
「あの様子では、すぐに理由を打ち明けてくれることはないでしょう」
プローラの寂し気に揺れる瞳を思い出したのか、エクスの声が更に沈んでいきます。自然と伏し目がちになっていく彼の姿を見ながら、スィードは傷つける事の無いように、そして悟られる事のないようにと慎重に言葉を選びます。
「……状況は把握しました。しかしそれとプライベートスキンの完成と、どんな関係が?」
そんなスィードが試みたさり気ない議題のすり替えが一応の功を奏したのか、それまでドアの前で立っていたままだったエクスが椅子の方へと歩き始めます。しかし彼は背もたれに手を掛けたまま、一向に
儀礼的に言語を介すことなく、回線越しに経験を共有したほうが齟齬はない。そう理解していても、スィードは改めて椅子へ座る事を促しはしません。
きっと同期する前に自分の言葉で伝えたい――同時に隠したい――部分があるのだろう。その意思を尊重し、ただ黙ってエクスが再び口を開くのを待っていました。
「今後同様の事があった場合も、彼女は同じように曖昧な答えを返すでしょう……私にはそれが、あまり心地よい事とは思えない」
「誰であれ、同じマイナスの欠片を再び蓄積させるのは忌避しますよ」
あえて
「とはいえ、彼女が原因を語ってくれない限り、問題の根本的解決は望めない」
それなら。エクスはそこで一度言葉を切って椅子から手を離すと、電源の入っていない蒸着槽に歩み寄りました。
ヴァイオリンの練習を始めた日から久しく空けられていない透明な蓋の下には、照明に照らされていない精製液が中の暗闇をそのまま水面に写しています。その一面の黒に点々と反射する天井の光も相まって、まるで規則性を得た事でかえって不自然になった星空を閉じ込めているようです。
「ならば外見をよりヒトに近づけて、第三者に疑問を差し向けられる機会自体をなくしてしまおう、という訳ですね」
スィードの察しにええ、と頷き、エクスは改めて
「蒸着槽を起動してください。今から処置を行えば、例え明日再び呼び出されたとしても間に合います」
「プローラ氏は来週と指定したのでしょう?」
「万が一という事もあります」
「ですが、エクス――」
「何か問題でも?」
まるでその万が一を望んでいるかのように急かすエクスの口調にスィードは説明を諦め、代わりに蒸着槽の電源を入れます。
起動を示す短い電子音と共に、待ちきれないエクスはたまらず蓋の中を覗き込みました。しかしその途端、期待に満ちていたその表情は異様な景色を目の当たりにした驚きに歪み、同時に研究所じゅうにけたたましいブザーの音が鳴り響きます。
「これは……」
呆然とした様子で声を漏らすエクス。
対象に定着する前の精製液は本来水と同じ手触りで、濁りのない乳白色をしていますが、明かりが照らし出した中の液体は灰色にくすみ、機械の震動で浮かぶ波紋が全く消えない事から、触れなくても分かるほどの強い粘り気を持っている事が伝わってきます。
「……精製液の使用期限が過ぎ、変質してしまっています。再使用には一度蒸着槽を洗浄し、新たな精製液を取り寄せなければいけません」
淡々と続く説明に、ようやくエクスは自分の望みが絶たれたと悟ってがっくりと肩を落としました。しかしそんな落胆にも構う様子はなく、今度は少し厳しい口調でスィードの言葉が続きます。
「テンデットさんがそうであるように、いずれの業者のメンテナンスも既に年始開けまで予約で埋まっています……そもそもエクス。貴方はモデルとしてプローラ氏に助力を請われたのでしょう?完成前に外見を変えてしまうことは、絵画の完成に影響を及ぼすと思えませんか?」
「あ……」
それは子供でも分かる帰結であるにも関わらず、指摘されて初めて気が付いたように呆けた声を浮かべるエクスに、スィードはライブラリーから溜息の音声を流します。いちいち几帳面に表現されたその呆れに、エクスはしゅんと肩を縮めてしまいました。
「しばらくは、あの懐疑に耐えなければならないのですね……」
他人が自分たちに向けるもの。
自分が彼女に向けるもの。
そして彼女が自分に向けているかもしれないもの。
そのいずれも自分の姿形が人にさえ近づいてしまえばすべて解決、あるいは気付かないでいることが出来るのに……。呟くエクスのこころには、なぜ起動前に外見も不気味の谷を越えさせなかったのか、というウィル博士への不満すら募っていました。
「今の貴方は自身の
それは最新鋭のシステムを搭載するエクスにとって、ともすれば暴言とも取れる内容でした。思わず幾久しい舌打ちを鳴らし、きっと眼付きを細めます。
「そんな発言をする貴方が、どの口で他者への配慮などと諭しますか」
「私に口は付いていません」
皮肉の籠った返しと共に両者が黙り込み、ひりつく空気が研究所を満たしますが、こうなるとどうしても不利になるのは人の形を持つエクスの方でした。
完全に個である体を持つエクスと異なり、ターミナルコンピューター、遠隔ユニット、果ては天井のカメラから壁の計器類に至るまで、いわばその全てが自身であると言えるスィード。四方八方からそんな彼の存在を感じるのに、自分は何処に睨みを利かせればいいのかすらわからない。
初めは鋭かったエクスの眼光も、沈黙が2分と続かないうちに段々とその力を潜めてしまいました。
「……申し訳ありません。私としてはそこまで言う気は無かったのですが」
しかし意外にも、先に沈黙を破って謝罪を伝えたのはスィードの方でした。
「本当にごめんなさい。エクス」
予想外の事に驚き、反応に困るエクスへとなおも続くスィードの恐縮した口調。さっきまでとは一変した態度に不自然さすら覚えたエクスですが、その真意を問い質す事すら不毛に思え、彼が使った溜息の音声データをそっくりそのまま返すことで溜飲を下げる事にしました。
口のない彼に返す皮肉としては最大級のものであるにも関わらず、やっぱりスィードは居直る素振りひとつも浮かべず、再生が終了するまでただ黙って聞いています。
「……構いません。私に配慮が欠けていたのは事実ですから」
度が過ぎた反撃だったかもしれない。そんな彼の態度に自身の大人気なさを省みて思い直したエクスは静かに自身の非を認め、いささか自嘲気味な笑いを浮かべました。
「いけませんね。プローラさんとの事となると、時折論理的な思考を失ってしまうようです」
「それは――」
エクスの呟きに思わず反応し、言葉の続きをシステムに遮られるスィード。もどかしさと後ろめたさに襲われる彼のこころを推し量れないエクスは、ただ首を傾ける事しか出来ません。
「それは?」
「いえ……。それより、彼女が貴方に理由を説明する為の期間。それを短縮する為にすべき事……私には一つ、仮説があります」
「本当ですか?!」
突然の提案に声の勢いを取り戻すエクスへ、スィードが今度は迷いなく肯定を返して続けました。
「ええ。機械同士の連携や同期では目的や権限に応じて一部、またはすべての情報が瞬時に共有されますが、ヒト同士では内面情報の開示に一定の基準を設けています」
「基準?」
「『信頼』ですよ。やはり感情を根幹とする以上可視化も数値化も出来ない曖昧な評価基準ですが、その多寡……大小と言った方が正しいでしょうか。それに応じて対象に公開する自身の情報深度を可変させ、行動にも影響を及ぼすのです」
「つまり、同じ要求を望んだとしても、対象によって反応が異なると」
「ええ。互いに不可視であるが故段階的に推し量り、生じる可能性のある損失を最小限に抑える……こころという他人はおろか、所有者自身にも完全な観測、ならびに制御が不可能なブラックボックスを持つ、ヒトならではの基準と言えるでしょう」
とはいえ新たに学ぶことでもないのです。一度言葉を切ったスィードは遠隔ユニットに意識を移し、棚に収められた2つのヴァイオリンケースへと飛んでいきます。
「トレムマン氏とのやりとりを思い出してください。初めは壊れた楽器を押し付けられ邪険に扱われた貴方は、彼に
自分の為したことを論理的に噛み砕いたスィードの説明を聞いて、エクスはなるほど、と膝を打ちます。しかしすぐにある考えに思い至り、その顔は曇ってしまいました。
「ならば私は、彼女からの信頼を得られていない……?」
「いいえ。単純に彼女の中でその理由に当たる情報を公開すべきと設定している基準が深い所にあるだけでしょう。一定の信頼を得ていない対象をプライベートな空間に招き入れるという事はアクシデント、もしくはその対象を害する目的があった場合を除き、あり得ないと言って差し支えありません。彼女はそのどちらでもなかったでしょう?」
自分はプローラに正当に招かれた客として家を訪れ、害されるどころか実りある時間を過ごさせてもらった。エクスはあの楽しかったひとときを思い出しながら強く頷きます。
「信頼とは共有した時間と相互に与える経験の乗算です。貴方が彼女を知りたいと思うなら、モデルとしての務めが終わった後も出来る限り顔を合わせ、共に何かを共有していく事です。その濃密さに応じて信頼は深まり、貴方が望む時の訪れを早くするでしょう」
「モデルが終わった後……例えば――?」
「私から言うことは出来ません。それは貴方が彼女との時間の中で見出す事です。それを探す行為自体もまた信頼を得るシークエンスとなりますよ」
後ろに協力者の存在を
しかしそれをわざわざ付け加えて言わずとも、しっかりと順序立てた説明受けた後のエクスは単なる悪意と誤解せずに済みました。
スィードの拒否には理由があり、それがより自分の為になる。だからこその態度なのだと思い至る。そこに新たな『信頼』の芽生えを感じていたのです。
「とはいえ、何故でしょう……やはりプライベートスキンへの欲求が消えません」
「まぁ、当初から実装する予定でしたからね。貴方が望むのなら――」
スィードはターミナルコンピューターのモニターに別のウィンドウを展開します。表示されたのは研究所にあるものと同じ蒸着槽の図解と、横に箇条書きで記された説明でした。
「これは?」
「蒸着槽の清掃手順ですよ。年明けまで放って置くと精製液が酷い悪臭を放つようになります。私は口も鼻もないので構いませんが――」
密やかな笑いを込めて、自分に返された皮肉をもう一度返すスィード。その声からはまるで、してやったりと言った表情を浮かべる存在しないはずの顔が見えるようです。
「今すぐ蓋を開ければ、悪臭はしませんか?」
「年明けにやるよりは」
「……嗅覚だけ遮断します」
エクスはひきつった苦笑いを浮かべながら、ウィンドウの文字をカメラで記憶し始めました。
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