ACT17「エクスと絵描きのプローラ・4」
「スィード、蒸着槽の現状はどうなっていますか」
すっかり日も暮れ、切れ始めた雲の隙間からちらちらと星と塵の煌めきが覗く頃、研究所に戻って来たエクスはドアを開けるなり、ただいまの一言もなく訊ねました。
「どうしたんですか、エクス。藪から棒に……」
開くドアと連動してサスペンドから復帰したものの、突然の事に驚いたスィードの反応は普段より一拍遅れていました。その僅かなら具にすらもどかしさを覚え、エクスは口早に続けます。
「可能な限り早く、パーソナルスキンを蒸着させたいのです。今から処置を行えば――」
「ですから、どうしてですか。トレムマン氏の件以降、ずっと話題に上らなかったことを、何故今?」
話しながらなおペースを上げていくその声を遮るスィードは、エクスに籠もる熱に引っ張られないよう、あくまで平静を保っています。そんな態度に機先を制されたエクスは一度言葉を飲み込み、思い出したように明け放したままのドアを閉めました。そうして改めて振り返るその表情には落ち着きが戻った――というよりも、陰りが差していると言った方が正しいものでした。
「実は――」
※ ※ ※
時間をさかのぼる事40分ほど。曇り空が一足早く夕焼けを終わらせ、ぽつぽつと灯り始める街灯の下、エクスはプローラと並んで昼に来た道を戻っていました。
「こんな遅くまでごめんね。首が痛く――は、ならないか」
「ええ。問題ありません」
プローラの言葉に、エクスは笑って返します。この時はまだ、彼女のそんな冗談もその意味を深く捉えることはありませんでした。
「あ、だからってだらだらやっていた訳じゃないよ?広場とアパートだと光の当たり具合が違うから、頭の中で色を直したりしてると、なかなか進まなくてね……」
「ええ。時々聞こえる唸り声や呟きから、真剣に悩んでいる様子が伝わってきました」
エクスの返しにきょとんとした顔を浮かべたプローラは、すぐにその頬に朱を指します。どうやら彼女は筆を走らせる事に集中するあまり、無意識に口から零れ出ていた独り言に気付いていなかったようでした。
「やだ、変な事口走ってなかったよね」
「特に意味の繋がるようなものではありませんでしたが」
「それはそれでいやだなあ……」
苦笑いをはにかみで誤魔化すプローラ。そのの頬に浮かぶえくぼのひとつを見つけるだけでも、エクスのこころには目新しい波が生まれていきます。
「とはいっても、あと2、3回は来てもらう事になるかも。時間取らせちゃうね」
「構いません。演奏会の練習よりも短いですし」
「でも、退屈じゃない?」
とんでもない、とエクスは即座に首を振ります。実のところ彼女のアトリエで微動だにせず立っている間すら、カンバス越しのプローラが浮かべる些細な表情の変化を見ているだけで、彼の主観的な観測ではすぐに時間が過ぎ去っていました。
更に言えば、彼女が筆を握っている時と違って、こうしてやり取りを重ねて能動的に反応を確かめられるこの帰り道は、エクスにとってはその道のりが圧縮されたのではないかと錯誤するほど短いものとなっていました。
「私も、絵画というものに興味が出てきました。人に見せられるまでに上達するにはどれくらいかかるものですか?」
「どうだろう……でもまずは上手い下手気にせず好きに筆を動かしてみる事だよ。よかったら今度やってみる?」
話すほどにふわふわとした高揚に包まれていきながら、エクスは歩を進めていきます。待ち合わせた広場に戻ってしまえば、この時間は終わってしまう。今生の別れではないと分かっていても、少しでも長く続いてほしい。徐々に強くなっていったそんな願いも虚しく、ついにエクスの集音マイクが遠くから昼間に待ち合わせていた場所である噴水の音を拾い始めてしまいます。
「プローラさんは何故、絵を描くのですか?」
たかだか一時の、されど一時の別れを惜しむ思いから出たエクスのそんな言葉に、プローラが一瞬目を丸くして、その足を止めます。
「忘れないため、かな」
とうに暮れた夕陽の方角へと目をやり、僅か弓なりに伸ばした人差し指を顎に当てながら、プローラは答えます。
するりと口から出た言葉の滑らかさと、エクスの問いとの間に挟まった沈黙の短さは、その答えが訊ねられてから改めて考えた物ではない事を物語っていました。
それはすなわち、プローラは誰に理由を問われずとも、キャンバスと向かい合う間ずっと胸の奥底にその思いを抱いて筆を動かしている事の証明でした。
「記憶の補助、ですか……それならば写真の方がより正確で、鮮明だと思うのですが」
彼女に倣って足を止め、不思議そうに語尾を上げるエクス。あくまで絵を描くという行為の意味ではなく、完成された絵の役割にしか考えを巡らせることが出来ませんでした。
そんなエクスにあはは、と笑って、プローラは再び歩き出します。
「目に映るものだけならばね。でも自分で筆を動かして景色や人々をキャンバスに切り取ることで、そこにその時の自分のこころを添えることが出来るの。自分で初めて一枚完成させて、そこで気付いたことなんだけどさ」
「……思想や心情が反映される、という事でしょうか?」
――楽器を弾くならばわかると思うけど?
重ねられる問い笑って返すプローラの言葉に、エクスは以前、自分のメモリーから演奏データを消した時の事を思い出して頷きます。
「辛い事も、幸せな事も、人は忘れていく生き物だから。でも描いたものを見返せばいつだって、その時の私がどんな思いでモデルを記憶に残そうとしたのかを思い起こせる……こころがその時に戻る事が出来る」
――もう少し、早く解っていればなぁ。
プローラはそう続けて再び笑います。エクスとは目を合わせず、ちらつき始めた星に目を向けながらの、どこか乾いた空っぽな笑い声。
自分がその空虚を満たせたならば。エクスは必死に考えますが、空虚な笑みの理由も訊ねられず、遠くを望む彼女の眼が今どこを眺めているのかもわからないエクスに出来る事と言えば、ただ寄り添って歩く事だけ。
そんな自分を無力である、という評価しか下せないものですから、沈むその横顔をじっと眺めるプローラの目が細まった事にすら、エクスは気づくことが出来ません。
言葉を並べなくとも、ただひたむきに話を聴いてくれる存在のかけがえのなさを、そこに流れる沈黙の尊さを、エクスはまだ知りませんでした。
※ ※ ※
大きくなっていく飛沫の音と反比例してどちらともなく落ちていく歩調。そこに突然、まるでテンポの異なるリズムが割り込んできたのは、2人が広場に繋がる最後の角を曲がった時でした。
「やっぱり、プローラじゃない!」
静かな夜道に浮く程の高く朗らかな声とともに、前から足音が瞬く間に近づいてきます。街灯の下に照らし出されたのは、プローラよりも一回りほど歳を重ねた、中年の女性でした。
「こんな時間にこっちまで出てくるなんて、珍しいわねぇ」
エクス達の3歩前で足を止め、3人はちょうど街灯の光を中心に三角形を作る形となりました。開いた片手を軽く上げて挨拶を投げる女性に向かって、プローラは軽く会釈を返します。
「こんばんわ。ちょっと用事があってね」
「……こんばんわ」
女性がこちらに一切目を向けてこない事と、自分を見送りに来ているという正しい理由を説明されなかったこと事が僅かに気に掛かりましたが、とりあえずプローラに倣って頭を下げるエクス。すると女性はまるで今その存在に気付いたかのように視線を向けると、不思議そうにその太い眉を曲げます。
「あれ。プローラ、ASH買ったの?」
その後口から出たその言葉と、どこか遠慮がちな態度からは、単にエクスを忌避しているといった意味合いは見て取れませんでした。あり得ない事を確かめるような口ぶりは女性はプローラのすぐ近くに並んでいるにも拘らず、
ともあれ、これで自分が説明せずともプローラが種を明かしてくれるだろう……そう予想し、またそれを期待していたエクスはにこやかな表情のまま沈黙を保ちます。
「だってアンタ」
「うん、ちょっとね。気が変わったの」
続ける女性を遮るプローラの声から、焦りと僅かばかりの棘を――分析しなくとも――見抜いたエクスは、思わずその笑顔を潜めてしまいます。
「っと、ごめんなさい。急いでいるからもう行くね」
「え、ええ。じゃあ、またね」
そんな態度に女性とエクスがそれぞれ抱いた疑問を訊ねる暇も与えず、プローラは女性に再び頭を下げるとエクスに目配せをひとつして、やはり反応を待たずしてさっさと歩き出してしまいます。
「一体どうしたのですか?」
しばらくその背中を追いかける形となり、灯りの下でぽつねんと取り残された女性の姿が見えなくなってから、エクスは改めて声を掛けます。するとプローラはもはや目と鼻の先になった噴水の流れを背中に、ぴたりとその足を止めました。
「……ほら、君が他のASHとどう違うかーなんて説明していたら、また遅くなっちゃうでしょ?」
少し黙り込んで、背中を向けたまま答えるプローラ、単純に時間を惜しんだという理由にしては、声の陰りが取れていません。
「私としては、別に構いませんでしたが」
彼女の態度に、早くこの話題を切り替えたいという意志が込められていたことを、エクスの発達したこころはしっかりと汲み取っています。しかしそれでも更なる説明を求めずにはいられませんでした。
つまるところ、自分は単なるプローラの
単なる説明不足から来る誤解に過ぎませんが、エクスにとってそれはどうにも受け入れがたい事実だったのです。
遅くなってしまうなどというのは彼女の取り繕いで、その下には隠された本心があることは明白。もしその本心にすら自分がただのASHとして、物言う道具として分類されていたら……。
彼女と出会った最初の日、演奏を聴きたいと言ってくれたあの瞳の輝きを覚えていれば、そんな事はあるはずがないと分かっています。ですがどうしてもプローラの口から直接『違う』という一言を聴きたかったエクスは、再び続いた沈黙をいつまでも待つ気でいました。
「あんまり女性を深く詮索すると、嫌われるぞ?」
しかしやがて返って来たのは、茶化した口調と冗談のように明るい笑いでした。その声と自分に向かってぴしりと伸びるプローラの人差し指にも負けず、誤魔化されまいとエクスは口を尖らせます。
「嘘や隠し事は嫌いだと、以前――」
「嘘じゃないよ。長い時間拘束するのは悪いと思ったのも本当。それにいきなり説明しても、それであの人が君の事を理解できるとは思わない。これも本当」
――詭弁だ。
そう感じたのは聴いたエクスだけではなく、口にしたプローラ本人も同じでした。それを裏付ける様に、彼女は少し困った顔で付け加えます。
「君が疑っている通り、理由はそれだけじゃない。口にするのが少し辛いんだよね」
それでも、どうしても訊きたい?そう続けるプローラの表情が、萎れる花のように憂いを帯びていきます。そのあからさまな変化を目の当たりにしたエクスは、首を縦には振れなくなっていました。
「いいえ、申し訳ありません。踏み込むような真似を」
「ごめんね。いつか話せるように頑張るからさ。それじゃ、また来週」
去り際に精一杯笑顔を作り、一度エクスの手を握りしめるプローラ。最後に変わってしまった重い空気に関わらず次の約束を取り付けてくれた。その事にエクスがつい一瞬の安堵を覚えいるうちにその手がするりと抜けていき、気が付けばプローラの姿は夜の帳に消えていました。
そうしてひとり取り残された広場は、噴き出る水の音だけが延々と静けさの間を埋めて、跳ねる飛沫が段々と掌の熱を奪っていき、エクスを浮いたこころを戻していきました。
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