ACT15「エクスと絵描きのプローラ・2」
「お帰りなさい、エクス。最後の演奏はいかがでしたか?」
扉の開く音と共に、スィードはいったん分析をの
「今日くらいは見に行って差し上げたかったのですが……申し訳ありません」
返ってこない返事にエクスが機嫌を損ねているのだと勘違いしたスィードは、少し早口でフォローを挟みます。
演奏会が決まって以降、加速度的に増えたエクスと人とのやり取り。そこから得られる膨大な経験や感情のデータ分析に追われ、彼はここ2週間研究所から外へ遠隔ユニットを飛ばせず、それはエクスにとって年内最後の晴れ舞台であった今日すらも例外ではありませんでした。
前日まで一度もスリープに入ることなく続けた努力も虚しく、今朝はケースを手に外へ出るエクスの背中を見送る事しか出来なかったのです。
「エクス……?」
天井に据え付けられているカメラでは、俯き気味なエクスの表情を捉えられません。なおも返ってこない反応に、思わずスィードは全ての作業を中断して遠隔ユニットを飛ばします。
力の入りきらない様子で開きっぱなしのドアの前に立つ彼の膝下まで飛んでいき、下から覗き込んだエクスの表情を見て、スィードはそこでやっと彼が不機嫌に黙り込んでいるのではない事を悟りました。
「一体、どうしたのですか?」
しかしそれは事態の解決にはならず、むしろ新たな疑問を呼び寄せる結果となってしまいました。
天井の照明を朧げな輪郭で移し替えす床を、エクスは虚ろとも言える顔で亡羊と見つめています。例えばこれが人ならば、その様子は高熱に意識が朦朧となっている状態、と言えば的確なのかもしれませんが、あいにくASHは風邪を引く事はありません。
そしてなによりスィードの疑念を深めたのは、自身の持つ感情分析能力がその顔から苦しみや痛みといったマイナスの欠片ではなく、むしろ微かにその逆であるものを汲み取っていた事でした。
戸惑いを表すように遠隔ユニットがふらつき、エクスの膝にこつんと当たります。その小さな小さな衝撃に、エクスはやっと意識を引き戻されてはっと顔を上げました。
「すみません、スィード……帰り道からずっとこのような状態で……研究所に戻れたことで完全に気が緩んでしまったようです」
自身による不休の分析が功を奏し、今やそんな緊張と緩和まで再現するようになったエクスのこころ。しかし今に限ってはそんな成果に喜ぶよりも先に、スィードに更なる心配を運んできます。
「一体、何が切っ掛けて……?」
「プローラさんが、私を家に招待するといった内容の発言を聞いてから、ですが……」
……そんなことで?
まったく因果の結びつかない回答に、スィードは思わずユニットを傾け、エクスも彼に
「ひとまず、今日の同期を開始しましょう。貴方のパフォーマンスが低下している事の手掛かりが掴めるかもしれません」
促されるままエクスはふらふらと椅子へ向かい、スィードは心配のあまり覚束ない足取りのエクスを遠隔ユニットで追い、彼が腰を下ろすまでじっと見守っていました。
「では、始めますよ……」
遠隔ユニットをクレードルへと戻したスィードの声を合図に、エクスへと幾条ものケーブルが伸びていきます。
日々の終わりに訪れる、いつもと変わらない光景。にもかかわらずエクスは自分の体を目指すその先端を見つめながら、彼はまた自身でも根源のわからない、ほんの少しの怖れとそれより更に僅かな嫌悪を覚えていました。
――その光景が、嫌が応にも自分と彼女の違いを見せつけてくる気がして――
「大丈夫ですか、エクス?」
「構いません。続けてください」
「もし何か気にかかる事があれば、一度中断しますが」
本当は嫌なのに無理をしているのではないか。より人らしい所作を覚えると同時に不確定性を増したエクスには、今や機械のようなイエスとノーの2元性を求める事の方が困難です。それを重々承知しているスィードは気遣いを重ねますが、エクスは静かに首を振りました。
「この不調もスィードと一緒に対策を講じれば、解消すると信じていますから」
はっきりと告げるその声にだけは、今までのような虚ろさが微塵も見えません。
その明瞭さから、エクスがテンデットに寄せているもの以上の信頼を自分へ抱いている事を感じ取ったスィードは、一瞬で回路をリセットされたかのように、彼に返すべき全ての言葉を見失って固まりました。
「では、私は少し休みます。後をお願いしますね」
スィードがどうにか反応を返す前に、これ以上心配を掛けたくないエクスは同期を終えてケーブルが外れていく自身の体を見ながら、それだけ口をにして
それきり会話の無くなった部屋の中、ターミナルコンピューターの駆動する音だけが、パフォーマンスの高まりを示すように段々と大きくなって響き渡ります。
『これは――』
やがてモニターの脇に置かれたスピーカーからポツリと生まれた小さな声。時間にしてコンマ数秒に過ぎないその呟きは一体誰のものでしょう。
分析を進めるスィードの独り言?
闇に意識を落とすエクスの寝言?
それとも、全く他の誰かの呟き?
聴く者も判断するものもいないここでは誰も答えを手にできません。
そんな僅かな切れ目にも構わず、分析に全力を注いでいたスィードは、やがて全く別の問いに対する手掛かり掴んでいきます。
それはエクスを原因不明の不調へ追い込んだものの正体。
それはエクスの中に生まれた、プローラと呼ばれる女性に対する極端なまでの好奇心の高まり。
それは彼女の要求に対する、無条件での承諾を許す感情。
そして手段の別を問わず彼女の関心を惹きたいと思う、エクスの中に生まれた、強く、抑えの、効かない、欲求。
「感情の最果て、ですか」
ターミナルコンピューターの駆動音が止み、代わりに作業を終えたスィードが誰に充てるでもなく、ポツリとつぶやきました。天井のカメラが1基だけ動き、静かに瞳を閉じるエクスの寝顔をズームしていきます。
「
それをやがて目覚める彼へと告げるのが、果たして良い事なのか――。
幾ら演算を繰り返しても正否の判断が付かないスィードがひとり呟き、そこで初めて自分とエクスとの接続が解除されている事を思い出しました。
もし彼に手と口があったのならば、慌てて押さえている事でしょう。声を発しても相変わらず目を閉じたまま何の反応も示さないエクスの意識その実、あるいはごく浅い――外部の情報を感知できる――ところにあったのかもしれません。
彼の中にあるたくさんの苦しさが逃げ場を求めて溢れ、こぼれてしまったそんな独り言が記憶されたのか否か、再び同期すれば簡単に分かります。スィードは再びエクスの体へとケーブルを伸ばし――
「……」
再び引っ込めました。
『蓋を開けてみるまでは、ふたつの結果が同時に存在している』そんな古ぼけた理論の不透明さに、スィードは甘えることにしたのです。それは苦しみを吐き出した拍子に生まれたずるさでしたが、今彼を苛んでいる自責の念は決して、それだけが根源ではありません。
エクス、私は貴方にうそをついています。
エクス、私は知っているのですよ。
博士が貴方を生み出した本当の理由も。
彼の口にした感情の最果てが何を指しているかも。
そして、貴方がその端緒を掴みかけたからこそ、あんな状態になったということも。
いっそすべてを明かすことが出来るのならば、スィードはエクスが自分に寄せる全幅の信頼へと、素直に喜びを感じる事が出来たのかもしれません。しかし自分を作った者に
最も長く時を過ごす存在にも、こころを全て開くことができない。望みと命令の間でひしゃげる1.9.6のこころから、尽きることなくにじみ出てくるマイナスの欠片に耐え切れず、スィードは残りの分析を放置したまま、逃げる様にスリープモードへと入っていきました。
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